婚姻契約【前編】
第3部本編で当人同士の間では結婚を約束した二人が、正式婚約に向けて奮闘する話です。
わかりやすく浮かれている卿と、冷静に実をとりつつも幸せな女男爵の話。
1911年7月の終わり、ロンドンの社交シーズンが終わり、バークシャーのカントリーハウス<メラヴェリー・マナー>に移った21歳のメラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスは、彼女の事務弁護士と久しぶりに面会していた。
用件は他でもない――ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート卿との正式婚約に向けて「婚姻契約」(Marriage Settlement)の交渉状況を確認するためだ。
「婚姻契約」とは、結婚後の夫婦の諸々の取り決め――特に財産について――予め話し合い、文書で合意しておく契約のことだ。
これが成立して初めて、彼らは正式に婚約を発表することができる。
アメリアはこの件については彼女の母親であるミセス・グレンロスに任せており、そのミセス・グレンロスは男爵家の事務弁護士ミスター・ラドラムに一任していた。
しかし、両家に婚約が内々に承認されたのは一か月ほど前で、そこからすぐに双方の事務弁護士による交渉が開始されたにもかかわらず、待てど暮らせど合意に至ったという知らせはなかった。
そこで、ついにアメリアが自らミスター・ラドラムと面会するに至った。
「――では、結局まだ何も決まっていないということですね?ミスター・ラドラム」
<メラヴェリー・マナー>の応接間で彼と向かい合っていたアメリアは少し眉を上げた。
これまでは花嫁が金のことに関わるべきでないという古くからの慣習に従ってこの件とは距離を置いていたが、大きな間違いだったかもしれないと思い始めていた。
「申し開きのしようもございません。侯爵家の事務弁護士ミスター・オルディンが何とも頭が固い男でして……」
ミスター・ラドラムはハンカチを取り出して額の汗を拭った。
先日、彼がミスター・オルディンの事務所を訪ねて交わしたやりとりは以下の通りである。
***
メラヴェル女男爵との面会の数週間前、ミスター・ラドラムは秘書を伴って、ロンドンにあるウェクスフォード侯爵家の事務弁護士ミスター・オルディンの事務所を訪れていた。
両者はテーブルを挟んで向かい合わせに座り、それぞれの隣に座った秘書が彼らのやり取りを帳面に記録していた。
「――ですから、女男爵様固有の財産については、未来のご夫君は一切手出しできないようにしていただきたい」
そう主張するミスター・ラドラムの声が急に大きくなったので、隣でメモを取っていた秘書の肩が一瞬跳ねた。
当初は穏やかに始まった交渉だが、ここに来ていよいよ両弁護士間の緊張が高まっていた。
「いやいや、それは結局"持参金"扱いでしょう?それなら夫が管理権限を持ってしかるべきです」
一方、向かいに座っていた侯爵家側の事務弁護士ミスター・オルディンが冷ややかに言った。
しかし、口調とは裏腹に豊かなあご髭に覆われた彼の顔もいささか紅潮していた。
「もしその要求を通されるのであれば、卿の死後、彼の信託利益の残余分は女男爵様が受け取れるようにしていただきたい!」
「なんたる侮辱!卿の信託財産は侯爵家の財産です。その財産からの利益をお子様ならともかく、女男爵様が受け取るなどとんでもない!」
ミスター・ラドラムの要求に、ミスター・オルディンは思わず机を叩いた。
この様相に両弁護士の横に付いている秘書同士は目配せし合った。
「そちらこそ女男爵様および男爵家への侮辱ですよ。仮にこれが男爵と侯爵令嬢の婚姻だったらどうします?令嬢側に管理権限など持たせないでしょう!」
「仮定の話はやめていただきたい。これだから伯爵家以上の顧客のいない弁護士は困るのです!」
「なんと!私の過去の顧客にはウィンダミア伯爵がおられますよ」
「あなたが顧問だったのは伯爵がまだ男爵だった時分でしょう?あの方は伯爵に叙されてからは事務弁護士を変更なさっています」
ミスター・オルディンはついに一線を越えてしまった。
ミスター・ラドラムの秘書は次の展開を察して早々に荷物をまとめ始めた。
「とにかく、侯爵家の主張は言語道断です!議論の余地もない!今日はお暇します!」
「バークシャーからの列車代が無駄になりましたな!」
ミスター・ラドラムは横に置いていた自分の鞄を掴むと足早に部屋の出口へ向かった。
そして、勢いよく開けたドアを閉めもせずに、ミスター・オルディンの事務所を出て行った。
彼はバークシャーに戻るまで一度も後ろを振り返らなかった。
***
ミスター・ラドラムは、以上の一連のやり取りの仔細まではいちいち報告しなかったが、雇い主のアメリアの方では大体の事情を察していた。
とはいえ、今回は自身で爵位も財産も持っている女男爵と爵位はないが個人にしては大きすぎる財産を持っている侯爵家の子息との結婚だ。
婚姻契約の交渉が多少難航するのは当然とも言える。
しかしながら――。
「夏が終わるまでには婚約を発表したいのに……間に合うのでしょうね?」
アメリアのヘーゼルの瞳には不安が募っていた。
ミスター・ラドラムはそれを見て落ち着かなく眼鏡の角度を調整した。
相手方のミスター・オルディンには強硬な姿勢をとってしまったが、どこかで妥協しなければいけないのは彼もわかっている。
きっとミスター・オルディンの方だってわかっているはずなのに。
「ミスター・ラドラム、とにかく、争点を全て挙げてちょうだい。私が決められる点は決めますから」
アメリアの言葉にミスター・ラドラムはゆっくりと頷いた。
そして、鞄の中から慎重に書類の束を取り出した。
今日の女男爵との面会は長くなりそうだ……。
***
一方――。
メラヴェル女男爵とミスター・ラドラムの面会から数日違いで、彼らの相手方もウェクスフォード侯爵家のカントリーハウスでこの事態について話し合っていた。
「――話はわかった。君はよくやってくれているようだね。ミスター・オルディン」
「恐れ入ります、ご子息様」
ウェクスフォード侯爵家の子息アルバート卿を目の前にしたミスター・オルディンは、彼の言葉は必ずしも本心ではないとわかりつつも、そう応じるしかなかった。
そして、彼の予想通り、アルバート卿は控えめながら深いため息をついた。
「だが、これは女男爵との結婚であるということは常に意識しておいてもらいたいね」
「と言いますと?」
ミスター・オルディンはいささか警戒しながら先を促す。
「通常、夫側が優先されるべき部分でも、この結婚においては妻側に配慮しなければならない部分があるということさ」
ミスター・オルディンの警戒心を見て取ったアルバート卿は脚を組み替えながらできるだけ何気ない口調で言った。
「でも、君ならわけないだろう?兄のロスマー卿とレディ・ロスマーのときも君が話をまとめたのだから」
彼の兄で侯爵家の長男のロスマー子爵の婚姻契約交渉のときのことをミスター・オルディンは鮮明に思い出すことができた。
ロスマー子爵夫人はアメリカの大富豪の令嬢だったので、あれはあれで大変に骨の折れる交渉だった。
ミスター・オルディンはそのときの相手方の事務弁護士の口ひげだけは立派な憎たらしい顔を思い出して思わず眉を寄せた。
「ええ、もちろんです。しかし、侯爵様のご子息様方は難しいレディとばかりご縁がおありになる……」
「君には苦労をかけるよ」
アルバート卿は柔らかく微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻ってミスター・オルディンを見た。
ミスター・オルディンは睨まれているわけでもないのに、落ち着かない気持ちになってしまう。
「それで――男爵家の財産に対する私の権利の話だが、私は妻の財産をあてにしている情けない男と見られたくない。その点よくよく考えてもらえると助かるよ。私は私で慎ましい財産があるのだからね」
「そんな慎ましいだなんて……」
ミスター・オルディンは思わず言った。
屋敷や土地を所有し、年間2000ポンドの信託利益を受け取っている彼の財産が"慎ましい"としたら、世の中のほとんどの人は貧困ということになってしまう。
「確かに“慎ましい”と言うにはいささか多すぎるな」
アルバート卿は穏やかな調子で言った。
「そうであれば、尚更男爵家の事務弁護士に憐れまれるような主張はしなくていいだろう?」
しかし、そう言われてもミスター・オルディンは簡単に退くことはできない。
何せ彼の使命は侯爵家の財産を守ることなのだ。
「しかし、例えば、万一ですが、ご子息様がお亡くなりになった場合、メラヴェル男爵家に侯爵家の財産を奪われるなんてことになっては……」
アルバート卿の死後、彼の信託利益の残余をメラヴェル女男爵が受け取れるようにすべき、というのがメラヴェル男爵家の事務弁護士の主張の一つだった。
当然、ミスター・オルディンに言わせればとんでもなく強欲な要求である。
「私の死後か……」
アルバート卿は顎に手を当てて視線を落とした。
彼はあらゆるパターンを考慮しようとしているようだ。
「限嗣相続財産――例えば、あのピムリコの<ウィステリア・ロッジ>だね。あれは非常に美しい屋敷だが、私には一代使用権があるのみだ。そういう財産は私の死後確実に侯爵家に戻るのだから心配ない。であれば、その他の信託利益はレディ・メラヴェルが受け取れるようにしておいても問題ないだろう」
「女男爵様にですか?お子様に限られては?」
ミスター・オルディンは思わず口を出してしまう。
メラヴェル男爵家の収入は貴族の家として多くはないが、先代男爵の鉱山投資が成功しており、当代の女男爵が領地経営の改善を図っているという話も聞くので、現時点で年間7000ポンド弱はあるだろう。
男爵家の規模を考えれば、それ以上の収入が必要だとはとても思えない。
しかし、アルバート卿は軽く肩を竦めて言った。
「君だって自分が早く死ぬ運命にあるとしたらミセス・オルディンが心配だろう?それと同じことだよ。私も夫らしく妻を保護したいのさ。たとえ妻が財産のある女男爵であってもね」
そう言われてしまえば、ミスター・オルディンは強いて反論することもできない。
「かしこまりました。ご子息様は本当にご寛大なことで……」
「とにかく早くまとめてくれると助かるよ。秋までには確実に」
アルバート卿はミスター・オルディンの皮肉を取り合わずに言った。
ミスター・オルディンは思わず眉を寄せた。
全く、若いご子息様は結婚した後の女性の恐ろしさを知らないからこんなことが言えるのだ。
「……でないと、彼女と相談して"結婚を急ぐ理由"を作り出さねばならなくなるかもしれない」
アルバート卿は至って真面目な顔で言ったが、その灰色の瞳は輝いていた。
「ご子息様!」
「最後のは冗談だよ。最後のだけはね」
アルバート卿は面白がるように言って、今後の成り行きに思いを巡らせた。
あとは、男爵家側も折り合いをつけてくれれば何とか交渉に終わりが見えるだろう――。




