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束の間の勝利

"戯れ"(いわゆる"flirtation")をするために詭弁を弄する卿の話です。

 1911年4月の初め、ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート・モントローズ=ハーコート卿は今シーズン初めての舞踏会に参加していた。

 

 侯爵家生まれの彼は当然ダンスは一通りできる。嫌いでもない。

 ただ、舞踏会は苦手だった。

 舞踏会において、ダンスフロアで行われるのはダンスではないからだ。

 若い令嬢と独身の紳士がダンスをするふりをしながら行っているのは“品定め”だ。

 爵位、家柄、財産、収入、外見――いずれにしても見るのは表面だけでいい。

 

 ――まるで市場の家畜のようじゃないか。

 

 もっとも、どちらが家畜なのかは定かではないが。

 

 しかし、英国の上流階級の上層に位置する彼をもってしても、親戚からの招待を無碍にすることはできない。

 そんなわけで、その夜、彼はベルグレービアの邸宅で親戚の伯爵夫妻が主催する舞踏会に出席していた。

 まずは、礼儀として主催者夫妻の令嬢たちの一人と踊り、その後、避けられなかった二、三の知人の令嬢と踊った。

 そうして何とか最低限の義務を果たしたと感じた彼は、辞去の挨拶をするために主催者夫妻を探しながら舞踏室の窓際の端を目立たぬように歩いていた。

 昨今の舞踏会はレディの方が余りがちなので、彼のように義理で参加している紳士は上手く知人の視線をかわさねば大変なことになった。


 そのとき、彼の前方からブラントフォード子爵夫人と子爵家の姉妹たちがやってきた。

 ブラントフォード子爵家の長男は、アルバート卿のイートン時代の同級生で、二人は同じボート部に所属していた。

 アルバート卿はその縁で子爵家主催の社交イベントに何度も参加したことがあり、当然子爵夫人や令嬢たちとも顔見知りだ。


 ――これは良くない。

 ――滞在があと1時間は延びてしまう。


 彼は心の中で呟きながら、咄嗟に近くの開いているフランス窓からテラスに出た。

 すると――。


「あら?」


 テラスにいたレディが突然現れた彼を振り返った。

 振り返ったことでそのダスティグリーンのギリシア風ドレスの胸元のドレープが少し揺れ、その上に垂れていた真珠のネックレスが室内からの明かりを受けて柔らかく照った。

 

 アルバート卿はゆっくりと彼女の顔に視線を移した。

 口元は扇で隠されていたが、そのヘーゼルの瞳の輝きは見間違いようがなかった。


「こんばんは、レディ・メラヴェル」

「こんばんは、アルバート卿」


 ――なるほど。結局のところ滞在は延びる運命だったようだ。


 もっとも、これは彼自身が意図した延長だった。


 ***


 「先日はお手紙をありがとうございました」


 レディ・メラヴェルは扇で顔をあおぎながら切り出した。

 彼女は舞踏室の熱気に耐えかねてテラスで夜風に当たっていたらしい。


 「まだお返事を書いている途中なのですけれど、折角お会いできたのですから、少しお話してもよろしいかしら?」

 「ええ、もちろんです」


 彼がそう答えると、彼女のヘーゼルの瞳が輝いた。

 

 アルバート卿は昨年以来、レディ・メラヴェルと定期的に手紙のやりとりをしていた。

 "昨年以来"というのは、昨年彼らがある殺人事件に巻き込まれ、辛くも生き残って以来という意味でもある。

 

 その危機を乗り越える過程で、二人はお互いにどうやら同じ想いを抱いていることを察し――成り行きで一度だけキスを交わした。

 もちろん、社交界は未婚の男女の唇が触れることを許してはくれない。

 そのため、そのことは彼らの間でさえ一度たりとも話題に上っていない。

 

 ただ、それ以降彼は自分が明らかに変わってしまったことに戸惑っていた。

 

 それ以前の彼は、彼女と自分の立場を考慮して、決して境界線を踏み越えることなく抑制的に振舞っていたはずだった。

 しかし、それ以降の彼は抑制が外れかけていた――もっと言えば意識的に抑制を外すことさえあった。

 

 その一つが手紙のやりとりだった。

 とはいえ、現在のところ、彼らは正式な交際関係にはないので、アルバート卿が彼女に手紙を出すときは、いつも宛名を彼女と彼女の母との連名にしていた。

 つまり、内容はいつ彼女の母に見られても困らないものに限られるということだ。

 それでも彼女はいつも興味深い返事をくれた。


「あなたがプラトンを引用していらしたので、当家の蔵書から探し出して、通して読んでみましたの。もちろん、あなたとは違って英語版ですけれど」


 彼女の言葉にアルバート卿は微かな笑みを浮かべた。

 オックスフォード大学で古典学を修め、第一級の成績で卒業した彼は、当然ギリシアの古典は原文で一通り読んだことがある。

 彼女との会話や手紙でもギリシアの古典文学のことは時々話題に出ていたが、中でも彼女は哲学書に興味があるのではと考え、前回の手紙ではさり気なくそれに触れてみたのだった。

 今こうしてプラトンが話題に出たことからして、その推測は誤っていなかったらしい。

 そのことが思った以上に嬉しかった。

 

「どう思われました?」

「率直に言って……理想主義が過ぎるのではないでしょうか?」


 彼女は少し眉を寄せている。

 アルバート卿は軽く頷いて先を促した。


「理想の国家のあり方として、財産のみならず妻子まで共有するなど……きっと平和とは程遠い状態になりますわ。プラトンよりずっと前の『イーリアス』でも夫婦関係の破壊が諍いの元になるエピソードが何度か出てきますでしょう?」

「一理ありますね。ただ、プラトンを擁護するとすれば、彼はアテネの貴族の生まれなので――」


 彼女と会うと大抵こうした議論になる。

 テーマはその時々で、今回のように哲学の話になることもあれば、文学や政治――最近では恋愛や結婚の話になることも多かった。

 どのテーマをとっても、彼女との議論は興味深かった。

 二人の意見が一致してもしなくても、最終的には議論の前より一段高いところから物事を見ることができるようになる気がした。


 今回も彼らは示唆に富む結論に達し、議論は一段落した。

 

 そのとき、開け放たれたフランス窓の向こうの室内から人々の笑い声が聞こえてきた。

 テラスに近いグループの中で出来の良い冗談を言った人がいたのだろう。

 

 アルバート卿はそろそろ室内に戻った方が良さそうだと思った。

 テラスにいる彼らの様子は一応は室内から見えるようになっている。

 そのため、昨今の風潮からして、彼らがここに二人でいても直ちには問題にならないだろうが、夜の社交において未婚の男女が長く二人きりでいるのも考えものだ。

 しかし、その彼の思考を見透かしたようにレディ・メラヴェルは言った。


「そういえば、一昔前はこうして男女がテラスに二人きりでいただけで、次の瞬間には婚約させられたと聞きましたが、本当でしょうか?」


 彼女が首を傾げると、暗い栗色のまとめ髪に巻かれたクリーム色のリボンがちらと見えた。

 彼女は顔の前に扇をかざしているので、その口元は見えないが、おそらく悪戯っぽい笑みを浮かべているに違いない。

 

 彼女は明らかに“からかい”を仕掛けていた。

  

 彼は彼女と交わす“からかい”が嫌いではなかった。

 寧ろその逆だった。

 しかし、今回は――。


「それはそうなのでしょうね。我々の親の世代には明らかに相性が悪い夫婦が散見されますから」


 アルバート卿は彼女の意図とは異なる方向に会話の矛先を向けた。

 彼は今回は敢えて彼女の“からかい”に乗るのを避けた。

 というのも、先日別の場で彼女の"からかい"を受け――つい動揺してしまったことがあったからだ。

 上手く隠したつもりだが、彼女には見抜かれていたかもしれない。

 それが少し悔しかった。


 ――このレディは賢いのだから、上を行くには彼女が用意したゲーム盤で戦ってはいけない……。


 アルバート卿は自分に勝ち目のあるゲーム盤を整えることにした。

  

「それで思い出しましたが、あなたと私がこうして真剣に議論しているのを"戯れ"だという人もいるようですよ」


 "戯れ"というのは、未婚の男女にも許容される罪のない親しみの表現のことだ。

 男女の距離感に厳しい社交界でも、“戯れ”の範囲内の冗談や触れあいで駆け引きを楽しむことは認められている。

 ただ、実際に彼らの真面目な議論を"戯れ"だと見る人がいるかは微妙なところだった。


「あら、違うのですか?」


 相変わらず扇の向こう側のレディ・メラヴェルの表情は見えない。

 しかし、彼女は彼のゲーム盤に上がってくれたようだ。


「ええ、全く違います。あくまで真剣な議論ですから」

「どう違うのです?」


 そう問う彼女のヘーゼルの瞳が一瞬きらりと輝いた。

 アルバート卿は敢えて真面目な表情を作り、一つ咳払いをした。


「では、一つ仮定します。"戯れ"をしている男女であれば、紳士がレディに多少触れたとしても問題になりませんね?例えば、キスだって程度によっては許されるでしょう」

「ええ、概ね同意します。キスであっても"安全な部位"へのものであれば、あなたのおっしゃる通りでしょう」


 レディ・メラヴェルの返答にアルバート卿は厳粛に頷くと、彼女の前に白い手袋をした手を差し出した。

 彼女は僅かに首を傾げたが、扇を持っていない左手――当然彼女も手袋を着用している――をその手に乗せた。


「これはどうでしょう?」


 アルバート卿が問いかけると、彼の意図を理解したレディ・メラヴェルは微笑んだ。


「これは明らかに問題ないと思いますわ」


 紳士淑女が手を取り合う。

 これは社交界で日常的に行われている。


「これは?」


 今度はアルバート卿は彼女の手袋で覆われた手の甲に口づけた。

 レディ・メラヴェルは軽やかに笑った。


「これも問題ありませんわ」


 彼女の言う通り、これも挨拶の範囲内であり問題ない。


「では、次に進んでもかまいませんか?」


 "次"と聞いてレディ・メラヴェルは少し眉を上げたが、すぐに頷いた。

 それを受けて彼は一歩彼女に近づき、真珠のイヤリングが輝いている耳に唇を寄せて囁いた。


「……これは?」

「これも……問題ないと思いますけど……」


 レディ・メラヴェルはそっと視線を外して言った。

 紳士がレディの耳元で何か囁く――全く問題ないかと言われると少し疑わしい。

 しかし、まあ、"戯れ"をする男女の間柄ではあり得なくはないだろう。


「では、最後です」


 最後を宣言したアルバート卿にレディ・メラヴェルはゆっくりと頷いた。

 相変わらずアルバート卿は真面目な態度を崩さない。

 そして、そのままの態度で彼女の頬にキスを――しようとしたところで彼は一歩下がった。


「やはりこれは問題でしょうね?」

「ええ……そうかもしれませんわ……」


 レディ・メラヴェルは先ほどよりも速く扇を動かして顔をあおいでいる。

 テラスの暗さのせいではっきりとは見えないが、頬にわずかに赤みが差しているようにも見えた。


「こうした触れ合いが問題になると言うことは……私たちはやはり"戯れ"をしているわけではないのですよ、レディ・メラヴェル」


 アルバート卿は皮肉に笑う。

 しかし、その口調はどこか満足げだ。


「今夜はあなたの勝ちですわね」


 レディ・メラヴェルは神妙な顔を作って言った。

 そして、扇を閉じると、一転、その顔には衒いのない笑みが浮かんだ。


「あなたって意外と負けず嫌いなのね、アルバート卿」


 その言葉に先に笑い出したのはアルバート卿だった。

 レディ・メラヴェルもつられて笑い出す。

 テラスには暫く二人の笑い声が柔らかくこだましていた。


 ***


 それから数時間後――。

 舞踏会を終えてメラヴェル男爵家のタウンハウスに帰宅したレディ・メラヴェルは、今夜のアルバート卿とのやりとりを思い出していた。


 ――あの方ったら普段は真面目なのに時々どうして……。


 彼女はベッドにもぐりこみながら思わず笑みを漏らした。

 そして、彼の唇が触れそうになった頬をそっと撫でた。

 

 ――いずれにしても、思った以上に良い夜だったわ。


 レディ・メラヴェルは微笑みながら瞼を閉じた。

 その心は温かく満たされていた。

 

 一方、同じ頃――。

 アルバート卿はウェクスフォード侯爵家のタウンハウスの自室のベッドの中でまんじりともせずにいた。


 ――あのときは、「勝った」と思ったが、明らかにあれはやり過ぎだったのでは?

 ――しかし、正直、彼女の反応は……非常に好ましかった……。

 ――とはいえ、彼女は義理で取り繕ってくれただけで、本当は呆れていたのではないだろうか?


 彼の頭の中では、"浮かれている自分"と"抑制的な自分"による論争が繰り広げられていた。

 彼はそれを振り払うように寝返りを打ったが、論争は止みそうになかった。


 ――一つ確実に言えるのは、彼女のこととなると私はいつも調子に乗りすぎてしまうということだ。


 結局その夜、彼は一睡もできなかった。

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 二人の関係にドキドキしてしまいました。何と申しましょうか、現代人の恋愛よりもずっと控えめなのに、かえってとてもスリリングな感じがするのです。まるで小さなチョコレートボンボンを一つ、こっそりと口に入れ…
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