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春の兆し

 1910年のイースターの一週間前、メラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスとその母ミセス・グレンロスは、バークシャーにあるメラヴェル男爵家のカントリーハウス〈メラヴェリー・マナー〉にて春のハウスパーティーを開催していた。

 昨年遠縁の先代男爵から男爵位を継承したばかりのアメリアは、ハウスパーティーを主催するのは初めてだった。

 もちろん過去にお茶会や正餐会を開催した経験はあるが、ハウスパーティーの場合はゲストが主催者の屋敷に滞在するため特有の大変さがある。

 

 今回のハウスパーティーには、襲爵前からの友人たちと新しく知り合った友人たちがバランスよく招待されていて、主催者の母子が過去の世界と新しい世界の接続をどうにかしてやり遂げようとしていることは明らかだった。 

 そのために、アメリアと母は、何週間も前からメラヴェル男爵家の上級使用人たち――特に、夫婦で執事と家政婦長を務めるミスター&ミセス・フィリップス、料理人のミセス・ヘイズ――と綿密に打ち合わせた上で非の打ちどころのない計画を立て、完璧にそれを実行してきた。

 

 アメリアも自分の役割を全うしてはいるが、ハウスパーティーの終盤ともなるとさすがに疲労の色を隠せなかった。

 なにせ彼女はまだ20歳の未婚の女男爵だ。

 男爵家の高貴な当主、饗応役として卒のない女主人、慎ましい未婚のレディという3つの役割を同時にこなしている内に、とうとう自分が分裂してしまうのではないかと思うに至った。

 

 そこで彼女は、ゲストたちが好きに過ごすことになっていたパーティー5日目の午前、ゲストの一人であるウェクスフォード侯爵家の令嬢レディ・グレイスを遠乗りに誘うことにした。

 気の置けない友人とバークシャーの自然の中で少し気を緩めたかった。


 そして、無事にアメリアの望みは叶い、2人は春の光に輝くバークシャーの森をそれぞれの馬に乗ってゆっくりと散策していた。


「あなたが来てくださって良かったわ。レディ・グレイス」


 アメリアはそう言って、手綱を操りながら乗馬用のグローブを着けた手でパロミノの愛馬〈リリーベル〉の毛並みを微かに撫でた。

 そのクリーム色の毛並みは木漏れ日に輝いていた。


 アメリアは襲爵するまで乗馬をしたことがなかった。

 しかし、去年の夏、女男爵になって初の社交シーズンが終わった後で、初めて自分の領地で秋を過ごし冬を越しながら馬丁のエリックに乗馬を教わり、春になった今では愛馬を自由に乗りこなしていた。

 最初は全く理解不能だった横乗り用の鞍も今ではすっかり体に馴染み、似合わないように感じていた黒い乗馬服姿もなかなか様になっている。


「こちらこそご招待いただけてよかったわ。レディ・メラヴェル」


 乗馬好きのレディ・グレイスは自分の侯爵家のカントリーハウスからわざわざ連れてきた彼女の漆黒の愛馬〈ダイアナ〉の上で微笑んでいた。


「先日うちの領地にいらしたときよりも乗馬が格段にお上手になったわね」


 レディ・グレイスはアメリアの手綱さばきに目を向けて付け足した。 

 アメリアは乗馬技術が発展途上にあった昨秋、侯爵家のハウスパーティーに招かれた際、レディ・グレイスと彼女の兄たち、彼らの親しい友人のグループに加えてもらって遠乗りに出かけたのだった。


「ええ、あのときは私に合わせてくださってありがとう」


 アメリアは改めてお礼を言った。

 彼らが温かく彼女に付き合ってくれたからこそ次は皆と同じように馬を走らせてみたい一心で、練習を頑張ることができたのだ。


〈ダイアナ〉の艷やかな漆黒の毛並みとグラデーションを描くような濃紺の乗馬服を着ているレディ・グレイスは、彼女にしては珍しく弾んだ声で言った。

  

「これならロンドンでも一緒にロットンロウに出かけられるわね」


 レディ・グレイスはロンドンにいる間は毎日のようにロットンロウに乗馬に出かけるのだ。

 アメリアは初夏のロンドンの社交界の喧騒を懐かしく思い浮かべた。


「……それにしても、あなたの領地は美しいわね」


 レディ・グレイスの視線の先にはバークシャーの春の丘陵がどこまでも広がっていた。


「ええ……あなたもそう思ってくれて嬉しいわ」


 アメリアは穏やかに言う。

 彼女が初めて自分の領地を訪れたのは、先代男爵の葬儀のときだった。

 冬のバークシャーの丘陵は一面粉砂糖を降らせたような雪の白に覆われていて、寄宿学校時代にこっそり読んだロマンチックな小説の舞台のようだった。

 彼女は一目見たときからこの地と恋に落ちていた。

 しかし――。


「でも、“私の”領地とはいえ、今は管理しているのは専ら母なのですよ」


 アメリアは小さくため息をついた。レディ・グレイスは少し目を細めて彼女を見た。


「あら、ご不満?」


 ちょうど分かれ道に差し掛かったので、アメリアは手綱を開き、〈リリーベル〉を右に進ませた。

 レディ・グレイスもそれに従う。

 

「私も何でも自分で決めたいというわけではないのですよ。ただ、母のやり方は非常に……伝統的で……」


 アメリアははっきりとは言わなかったが、おそらく、彼女の母は地代収入に頼った経営をしているのだろうとレディ・グレイスは想像した。


 彼女は自身の侯爵家においても、領地経営を巡って父と兄が議論しているのを聞いたことがあった。

 伝統的な父は土地を堅守したいが、兄は新しい時代に適応するために一部の土地を売却して投資に回したいのだ。

 土地の売却までは考えなくとも、合理的なアメリアが最新の農業設備に投資したいとか、新しい産業を呼び込みたいとかと考えているとしても不思議ではない。

 どこの家も伝統と革新の戦いがあるらしい。


「でも、成人すればきっと変わるでしょう?」


 アメリアは昨年20歳になったが、成人の21歳まではまだ半年以上ある。

 成人するまでは、財産の管理を保護者や後見人に任せるのは一般的なことだ。

 

「どうかしら……」


 アメリアが言い淀む理由をレディ・グレイスは理解していた。

 成人しても女性は――特に未婚の女性は――半人前と見なされて財産や領地管理の実権を与えてもらえないこともある。


「そうであれば、結婚するしかないわね」


 レディ・グレイスは手綱を緩め、馬をゆっくりと歩かせる。

 アメリアもそれに倣った。


「あら、"結婚"?」

「ええ、"結婚"よ。そうすればあなたは名実ともに男爵家の女主人。そして、伝統的に領地経営は女主人の仕事」


 先ほどまで真剣だったアメリアの顔に面白がるような笑みが浮かぶ。

 アメリアは領地経営は自分事として捉えていても、結婚はまだ他人事らしい。

 レディ・グレイスは少し可笑しく思った。

 

「すぐに結婚までしなくとも、せめて婚約なさったら?」


 アメリアは視線を戻して少し眉を上げた。

 彼女はレディ・グレイスが一昨年とある伯爵と婚約したものの、正式発表前にあっさりと婚約破棄したという話を聞いていた。


「婚約すると何か変わるもの?」

「あら、あなただって襲爵前には婚約していらしたのでしょう?」

「あれは……親同士の口約束から始まった婚約で……今にして思うとあまり現実味がなかったの。正式なプロポーズもなかったし……」


 レディ・グレイスの指摘にアメリアは困ったように笑った。

 しかし、彼女のヘーゼルの瞳は微かに好奇心に輝いている。


「でも、あなたの婚約はもっと実際的なものだったのでしょう?きっと私には見えなかったものが見えたはずだわ」

「まあ、そうね」


 レディ・グレイスは少し沈黙した後、アメリアに意味ありげな視線を投げかけてから言った。


「……結婚とはどういうものかを少しだけ覗くことができたわ」 

「あなたは何を覗いたのかしら?」

 

 アメリアも探るような視線を返した。


「そうねぇ……」


 アメリアの視線の先で思案するレディ・グレイスはいつも通りの優美で落ち着いた表情を浮かべている。


「『正しい人としないと地獄』かしら?」


 そう言ってレディ・グレイスは口元だけで笑った。

 アメリアは詳しく聞きたい衝動に駆られたが、開きかけた唇を結局は結んだ。

 詳しく聞くのは賢明ではなさそうだ。


「あなたには……例えば、アルバートなんてどう?」


 レディ・グレイスは遥か前方を見ながら出し抜けに言った。

 隣のアメリアが僅かに動揺したのがわかった。

 

「あなたのお兄様の?」

「ええ、他にどのアルバートがいて?」


 アメリアは視線を落とした。

 馬の足元に気を配っているようにも見えるが、何かを深く思案しているようにも見えた。

 

「アルバートとなら大惨事にはならないわ」


 レディ・グレイスは続ける。

 彼女は3人の兄をそれぞれに愛していたが、アメリアに勧めるのであれば断然三兄のアルバートだった。

 もっとも長兄は既婚で、次兄は婚姻歴のある女性にしか興味がなさそうなのだが。

 それを差し引いても、レディ・グレイスはアメリアには是非アルバートを勧めたい。


 ――秋に彼女が当家のハウスパーティーに来たとき……大人になってからあんなに楽しそうなアルバートは初めて見たわ。


 レディ・グレイスはアメリアが彼女たちの屋敷に滞在していたときの兄の様子を思い浮かべ、一瞬口元に笑みを浮かべた。

 

 彼は音楽会でピアノを弾くアメリアをほとんど見ていなかった――彼が敢えて目を逸らすのは関心がある証拠だ。

 それに皆で気軽なダンスをしたときにアメリアと踊った彼は落ち着き過ぎていた――落ち着き過ぎているときの彼は実は深く動揺しているのだ。

 そもそも、彼女がいない場でさえ、家族の間でアメリアの話題が出たときの彼は――自分では多くを語らないのに瞳の奥に何かが映っていた。

 

 レディ・グレイスは、兄がアメリアを気に入っている証拠をいくつも思い浮かべ、密かに頷いた。


 ――もしかすると……気に入っているどころかもう愛に発展しているのかもしれないわ。


 しかし、それだけで彼女は彼を勧めているわけではない。

 結婚に愛があるに越したことはないが、女にはそれだけでは足りない――。


「もちろんアルバート卿は良い方ですけれど、身分が違いすぎるわ」


 少し思案していたアメリアは結局冗談半分のように言った。


「あら、アルバートには爵位がないから?」


 レディ・グレイスがわざと意地悪を言ったのに対して、アメリアは笑って首を振った。


「まさか。私が元は中産階級の出身だからよ」


 アメリアは当代のメラヴェル女男爵だが、先代男爵にとっては又従兄弟の娘という遠縁も遠縁で、彼女の父は貴族名鑑ではなく法廷弁護士の名簿に名を連ねていた。


「侯爵家のご子息とは釣り合わないわ」

「釣り合うというのは身分の話ばかりではないのよ」


 レディ・グレイスはアルバートのことを彼女が知る限り、唯一彼女自身と同じくらい賢い男性だと思っていた。

 知的なアメリアに「釣り合う」としたらそのような男性だ。

 しかし、そういう男性は得てしてプライドが高く、自分にないものを持っている女性に我慢ならない。

 でも、アルバートは――。


 レディ・グレイスがちょうどそこまで考えたとき彼女たちは森を抜け、開けた草原に出ていた。

 ずっと先に一本の立派な広葉樹が見えた。


「あそこまで競争しましょう」


 珍しくアメリアが提案した。

 レディ・グレイスはアメリアに挑戦的な視線を向けるとすぐに鞭で〈ダイアナ〉を軽く叩いて走らせた。

 アメリアも同様に〈リリーベル〉を走らせる。


 馬を駆りながらレディ・グレイスは改めて考えた。


 ――アルバートはレディの知性に脅かされたりしない。

 ――それは彼が論理に忠実だから。

 ――そして、一度彼を論理で納得させてしまったら、後にはもう感情しか残らないの。


 先に目標の木までたどり着いたのはレディ・グレイスだった。

 やがてアメリアも追いつき、「やっぱりあなたは驚くほど速いわね」と息を切らしながらもレディ・グレイスの乗馬の腕を笑顔で称賛した。 

 それに応えてレディ・グレイスも微かな笑みを返す。


 「ええ、やっぱり私の勝ちね」

 

 その笑みは勝利というより、確信に満ちていた。

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