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棘のある薔薇【後編】

 午後になると侯爵家の兄妹と若いゲストの面々はばらばらと音楽室に集まった。

 アメリアも午後用のドレス――ウエストに黒いリボンが結ばれたやや暗いピーコックブルーのドレス――に着替えて、途中で会った子爵家の双子の姉弟と共に音楽室に向かった。


 侯爵家の音楽室はウェクスフォード・ホールでは大ホールに次いで広い部屋で、その床は葉のような模様が描かれた一枚の大きな赤い絨毯で覆われ、前方中央にピアノが、その脇にはハープが置かれていた。

 ピアノの後ろの棚には数多くの楽譜が収納されているように見える。

 そして、ピアノの前の淡い緑色の布張りの長椅子を始め、部屋の周縁やアルコーヴにソファや椅子が配置されていた。

 

 侯爵家の兄妹とほとんどのゲストが集まったタイミングで先陣を切って演奏を披露したのは子爵家の双子の姉弟だった。

 弟の方が「ここはいつも一緒に練習している私たちが有利なので先陣を切りましょう」と言うと、姉の方も笑って同意したのだった。

 ベートーベンのヴァイオリンソナタが選ばれ、弟がヴァイオリンを弾き、姉がピアノで伴奏をした。

 息の合った素晴らしい演奏だった。

 彼らの演奏が終わると、あまり腕に自信のないゲストもある程度力が抜け、個人あるいはグループで演奏する曲を検討し始めた。

 

 アメリアは早速レディ・グレイスと一緒に子爵家の姉弟の次に演奏を披露することになった。

 ピアノの後ろの棚の楽譜を見ながら、朝食の席で話した通りピアノの連弾曲から2人とも弾いたことがある曲を選んだ。

 選ばれたのは、練習なしでも合わせられそうなモーツァルトの明快な連弾曲だった。

 

 彼女たちがピアノの前に座ったときには、まだゲストの中で一番地位の高いハルバートン卿夫妻の姿は音楽室になかったので、アメリアは多少安堵した。

 しかし、今彼女が一番気にしているアルバート卿はすでに部屋の後方の椅子に座っていた。

 

 ただ、そうはいっても、アメリアはピアノの腕については語学よりも“ある種の自信”を持っていた。

 もちろん、彼女は純粋に能力の点では、自分がピアノよりも語学の方に遥かに長けていることは自覚していた。

 でも、ピアノの演奏の方は、あくまで"レディらしさ"範囲に収まる程度の能力だった。

 つまり、必要なテクニックは習得しているが、過去の中上流階級の令嬢の立場としても、現在の未婚の女男爵という立場としても、決して出過ぎたものではなかった。

 そのことが今のアメリアにとっては非常に心地良かった。

 

 レディ・グレイスは寛大にも低音を担当するセコンドを弾くと申し出てくれたが、その理由は演奏を始めてすぐにわかった。

 彼女は相当にピアノの実力がある。

 プリモとして主旋律を弾くアメリアが走りすぎてもきちんと付いてきて落ち着かせてくれたし、逆にアメリアが遅れそうになってもさり気なくリードして引き戻してくれた。

 アメリアは初めて彼女と合わせるにもかかわらず、以前母方の従姉とそれなりに練習した上で合わせたときよりも格段に弾きやすく感じた。

 弾き終わったときアメリアは思わず笑顔になっていた。

 一通り聴衆の拍手を受けた後、アメリアはレディ・グレイスに率直な感想を伝えた。


 「あなたは相当にピアノがお上手ですね。羨ましいわ」

 「あら、あなただってお上手よ。のびのびと弾いていらっしゃるから合わせていて気持ちが良かったわ」


 そう言って、レディ・グレイスはピアノの椅子から立つときに、一度躊躇ってから声を落として付け足した。


 「他のことものびのびおやりになればよろしいのに」


 アメリアは彼女の言葉の意味は理解したものの、社交界で立場の弱い自分にとってはやはり無理な話だと心の中で苦笑した。

 レディ・グレイスもそれがわかっているからこそ、彼女にしては珍しく躊躇いがちに言ったのだ。


 演奏を終えたアメリアは、部屋の隅の長椅子に腰を落ち着けると、密かにアルバート卿を盗み見た。

 アメリアはこの音楽会中か、もしくは、会が終わったタイミングで、アルバート卿に――僭越な言い方にはなるが――釘を刺さなければならないと思っていた。

 もちろん例のラテン語の件についてだ。

 アメリアがラテン語を解することはぜひとも他の人には秘密にしておいてもらわねばならない。

 

 ヴィオラの心得があるらしい彼はやっと到着したハルバートン子爵夫妻に請われて、兄のロスマー子爵と共にピアノカルテットに加わる準備をしていた。

 彼らのカルテットは結局シューマンの曲を演奏することで合意し、それぞれが位置についた。

 ピアノはハルバートン子爵夫人、ヴァイオリンはハルバートン子爵、ヴィオラはアルバート卿、チェロはロスマー卿が担当するようだ。

 ハルバートン子爵夫人のピアノは社交界の中でも定評があるので、ピアノに見せ場のあるこの選曲には誰もが納得した。

 ただ、アメリアはシューマンのその曲はいつも理性的で合理的なアルバート卿にはロマンチックすぎるのではと思い、ヴィオラを持って2人の子爵の間に座った彼をつい見つめてしまった。

 アルバート卿はアメリアのいらずらっぽいヘーゼルの瞳に気が付いたのか、ヴィオラを構えながら一瞬だけ彼女を見て、ほんの僅かに眉を寄せた。

 アメリアは慌ててロスマー子爵の後方の肖像画を熱心に見ているふりをした。


 演奏の方はというと、予想通りハルバートン子爵夫人の見事なピアノが光っており、ロスマー子爵のチェロもなかなかのものだった。

 ハルバートン子爵のヴァイオリンは率直に言えばいささか頼りなかったが、その他の面々が上手くフォローしていた。

 

 アルバート卿のヴィオラは――彼の人柄の通り正確だった。そうとしか言いようがなかった。

 彼は決して下手ではなかった。彼の弓は楽譜上の音符を正確に捉えている。

 ただ、彼の音はその曲の感傷に巻き込まれまいとする抵抗しているようだった。

 子爵夫人やロスマー子爵が正確に音を奏でつつ器用に情感を表現しているのは違った。

 そのことが、アメリアにとってはなんだか興味深かった。

 

 彼はこの曲を演奏しながら何を思っていたのか。

 落ち着き払った灰色の瞳の奥に何があったのか。 

 

 ――いつか聞けたら良いのに。


 ***


 その後、侯爵家の兄妹たちとゲストは、それぞれパートナーやグループを変えて何曲も演奏した。

 アメリアも侯爵家の次男ヘンリー卿――驚いたことに彼は音楽の才能もあるらしい――にエルガーのデュエット曲の共演を依頼され、彼のヴァイオリンに合わせてピアノの演奏を無難にやり遂げた。

 最後に侯爵家の兄妹がフルート四重奏曲を演奏し終わると、ロスマー子爵がそろそろディナーのための着替えをしなければならない時間であると皆に告げ、一同は解散した。


 アメリアは少し焦っていた。

 思いがけず興味深く楽しい音楽会となったが、彼女はまだアルバート卿に「釘を刺す」ことができていなかったのだ。

 そこで、アメリアはピアノを弾くために着脱した手袋の位置が気になっているふりをして、わざと音楽室を出るタイミングを遅らせた。

 そうすれば、皆から遅れて廊下を歩いていくときにアルバート卿が話しかけてくれるのではないかと根拠のない期待があった。


 そして、アメリアの思った通り、先を行っていたアルバート卿は歩みを遅らせて彼女の隣を歩いてくれた。

 2人が他の面々から距離を空けて、階段を上り始めたところで彼は言った。


 「非常にレディらしい演奏でしたね、レディ・メラヴェル」

 「ええ……」


 アメリアは顔をわずかに横に向けて彼の瞳を見ながら応じた。

 彼の青みがかった灰色の瞳には朝と同じく、興味なのか、からかいなのか判然としない色が浮かんでいた。


 「あなたはレディに恥をかかせるような方ではありませんわね?アルバート卿?」


 アメリアは足元に目線を移しながら彼に「確認」した。

 アルバート卿は一瞬目を細めて、彼女の横顔を見て言った。


 「そうありたいものですね」


 それを「了解」と受け取ることにしたアメリアは敢えて冗談半分にため息をついて嘆いた。


 「あなたが『薔薇の棘』に気づかなければよかったのに」


 アルバート卿は口元にだけ笑みを浮かべ、しばし沈黙してから口を開いた。


 「あなたは『薔薇の棘』を欠点だとお思いのようですが……実のところ、棘のある薔薇の方が容易に手折られることがないのですよ」


 並んで歩きながら投げかけられた視線にアメリアは思わず歩みを止めてしまいそうになった。

 片手ではピーコックブルーの長いスカートを取り回しながらも、もう片方の手はなぜかやはり朝と同じように首元の襟を確かめるように手で触れてしまう。

 しかし、今日の午後用のドレスには頼りないレースの襟が付いているだけだ。


 「……いつか誰かがその薔薇の棘に刺されるところを見てみたいものです」


 階段を上がり切った彼は、それだけ言うと一礼して自室の方向に去っていた。

 残されたアメリアも自分のゲストルームに向かおうとするが、途中で立ち止まって彼を振り返った。

 

 “いつか誰かがその薔薇の棘に刺される――”


 その背中が廊下の角で消えるのを見ながら、彼女は彼の言葉を無意識に反芻してしまう。


 純白の薔薇の茎にかかる誰かの無防備な指先。

 棘に刺された人差し指に赤い血が滲んで白い花びらに滴り落ちる……。


 アメリアは頭に浮かんでしまったそのイメージを振り払うように、少し早足で自分のゲストルームへと向かった。

 しかし、歩みを進めながらもやはり――頼りないレースの襟が首元を覆っていることをもう一度手で確かめずにはいられなかった。

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