棘のある薔薇【中編】
それは、昨日の午後のことだった――。
侯爵家の兄妹とゲストたちは応接間でお茶の時間を過ごしていた。
中央付近のテーブルには、侯爵家の長男ロスマー子爵と末子で唯一の娘のレディ・グレイス、そして、ゲストの中で一番地位が高いエルデンハースト伯爵家の長男ハルバートン子爵とその夫人が着席し、その他の人々はその周囲のテーブルの座席か周辺の長椅子や椅子に座ってお茶を楽しんでいた。
アメリアは自分の母と一緒に、とある子爵家の双子の姉弟とその母親の子爵夫人と同じテーブルに着いていた。
そして、その近くには侯爵家の三男のアルバート卿と彼と特に仲が良いと見えるセッティンガム男爵が座っていた。
そのときのアメリアは内心アルバート卿と座席が近いことを喜んでいた。
この場でアメリアが気安く話せるのは、2人のレディ――立場が近い子爵令嬢か年齢が近いレディ・グレイス――だったが、それに次いでアルバート卿とも比較的話がしやすかった。
もちろん、それは彼とアメリアが数ヶ月前にロンドンで侯爵家のダイヤモンド盗難事件を協力して解決したからだった。
侯爵家の兄妹とゲストたちは概して無難なことを話していた。
社交界の最新の動向のこと、最近の国王陛下の多忙さのこと、ロスマー子爵とハルバートン子爵が庶民院の議員であることから議会の話題も多少は出たと思う。
そして、話題が芸術に及んだとき、部屋の反対側に座っていた侯爵家の次男ヘンリー卿が去年アカデミーの展覧会に落選した自身の作品について語り始めた。
芸術家肌のヘンリー卿は、若手芸術家の熱心なパトロンであると同時に、自身でも絵画制作と詩作に取り組んでいることが社交界で広く知られていた。
絵画においては特に風景画に定評があり、落選した作品も都市風景画だったという。
「――そのときはロンドンの都市の風景を描こうと心に決めていましてね。毎日のようにテムズ川の河畔に通いました」
ヘンリー卿が熱心に語るのをアメリアを始めとしたゲストは関心度合いの差はあるものの、概して礼儀正しく聞いていた。
「――前景のテムズ川はもちろん、その奥の寺院と宮殿の描写は完璧でした」
ヘンリー卿は自分の見た目の良さを自覚的に活用するとともに、舞台演劇のように声色や視線の落とし方を工夫することでゲストたちを彼の話に引き込んでいた。
そして、話がクライマックスに差し掛かると、彼はさながら悲劇のハムレットのようにドラマチックに訴えかけた。
「――しかし……ああ、何ということでしょう。私は肝心のビッグベンの針を描き忘れていたのです」
ゲストたちは息を呑む。
レディたちからは「あらまあ」「お気の毒に」という同情の声が上がり、紳士たちからは「どうしてそんなことになったんだね?」「芸術家はどこか抜けたところがある」という軽い笑いを含んだ声が聞かれた。
その反応にヘンリー卿は非常に満足し、引き続いてこの失敗の原因分析のパートに入っていった。
そこでふと部屋を見渡したアメリアは、ゲストたちが引き続きある程度の関心を持って話に聞き入っている一方で、侯爵家の兄妹たちがどこかうんざりした顔をしているのに気がついた。
――きっとご家族の中では繰り返しお話しになっているのね。
アメリアは少し可笑しく思いながら、それぞれの様子を観察した。
長男のロスマー子爵は口元の笑みは保ちながらもどこか遠くを見つめている。
末子のレディ・グレイスは落ち着いた態度でありながら、時々少しだけ眉に力を入れている。
そして、アメリアの直ぐ側のアルバート卿はいつも通り表情はあまり変わらないが、何度か人差し指がティーカップの持ち手をなぞっていた。
兄妹それぞれヘンリー卿の話が早く終わることを祈っているらしい。
そして、ヘンリー卿の話がアカデミーが彼の作品を落選させた経緯の考察に及んだところで、アメリアはアルバート卿がほとんど独り言のように呟くのを聞いた。
"Vivere est militare, praesertim cum fabula narratur de rosa decerpta et spinis vulnerato."
(人生は戦いだ。とりわけ、薔薇を摘み取ろうとして棘に刺されたというような話を聞かされているときには)
それはラテン語で述べられた皮肉だった。
オックスフォード大学で古典学を専攻し、第一級の成績で卒業した彼らしい知的かつ優雅な皮肉だった。
後から考えれば、そのときもその称賛だけ感じれば良かったのだ。
だが、アメリアの脳内では瞬時に彼の皮肉と父から授けられた知識とが結びつき、無意識の内にそのユーモアに心を動かされた。
そして、それは笑いとなって彼女の口をついて出てしまった。
もちろん、アメリアはすんでのところで笑いを咳払いに変えて取り繕った。
それはアメリアの母を含むほとんどの人に対して有効だった――しかし、ただ一人だけそれに気がついた者がいた。
アメリアの不自然な咳払いを聞いたアルバート卿は、微かに眉を上げた。
そして、その青みがかった灰色の瞳が確かに彼女の方を見た。
彼はすぐに視線を自分のティーカップに戻したが、アメリアははっきりと理解した。
――彼は気づいたんだわ。
アメリアは自分の頬が熱くなるのを感じ、すっかり冷めた紅茶を飲んで気を落ち着けた。
幸い頬に赤みが差すような事態は避けられた。
しかし、カップをソーサーに戻すとき、僅かながら手が震えたことは認めざるを得なかった。
慎ましいレディはラテン語など出過ぎた知識を持っていてはいるべきではない。
それどころかレディが女性には難しすぎることを学ぶのは、彼女の心身に悪影響だという考えを持っている人もいるくらいだ。
社交界でこれといった立場のないアメリアが生き残るために、彼女のラテン語の能力は決して知られてはいけないことのはずだった。
***
そして、その翌日――。
優雅なライラック色のドレスに着替えたアメリアが朝食室に降りたとき、時刻はまだ午前9時を数分過ぎところだった。
朝食室には朝が早い老侯爵と早起きが得意と見えるレディ・グレイスしかいなかった。
アメリアは内心でほっと胸を撫で下ろした。
侯爵家ではいつもそうなのか、ハウス・パーティーの期間中だけなのかはわからないが、朝食はビュッフェ形式で提供されていて、今朝もサイドテーブルにおいしそうな料理が並んでいた。
今朝は、様々な肉料理――ソーセージ、ベーコン、ガランティン、カツレツ――と様々な卵料理――ゆで卵、スクランブルエッグ、オムレツ――、当然魚料理やじゃがいも料理もあったし、ケジャリーまで用意されていた。
アメリアは侯爵とレディ・グレイスに礼儀正しく挨拶すると、サイドボードに向かい、前日食べて気に入っていたケジャリーを自分の皿に盛った。
朝食室のテーブルは正餐室のそれよりは小さかったが十分に長いテーブルだった。
そのため、アメリアは、その家の主人として入り口近くの短い辺に座っている侯爵に近すぎず遠すぎない位置を慎重に考慮し、結局はレディ・グレイスの隣に座ることにした。
アメリアが席に着くとフットマン――以前アルバート卿にウィリアムと呼ばれていた若者だった――が彼女に紅茶を注いでくれた。
レディ・グレイスはアメリアを歓迎して、今日の予定について話し始めた。
「今日の午後は音楽室で過ごすでしょう?私とピアノの連弾をしてくださらない?」
レディ・グレイスは気軽な調子で言った。
アメリアは子供の頃から家庭教師ミス・ウェザレルにより一通りのピアノを仕込まれていたし、当然寄宿学校でもその腕を磨いていたのでもちろん快諾した。
それから、アメリアは老侯爵とも最近の若者の風潮について軽く議論し、侯爵の期待に応えて生意気でもないが決して謙り過ぎもしない若者視点の率直な見解を提供した。
そして、午前9時半少し前にやって来た子爵令嬢とお昼の前にお屋敷の庭を散歩する約束を交わしたところで朝食室を後にした。
しかし、アメリア自分のゲストルームに戻るべく、階段を上がっていたときのことだった。
ちょうど上の階から、誰かが下りてきた。
それはアメリアが今最も会いたくない人――アルバート卿だった。
彼は茶色のラウンジスーツに同系色の暗い色のタイを締めていて、そのアッシュブロンドの髪は窓からの朝の光に輝いていた。
そして、彼の青みがかった灰色の瞳は、下から階段を上がってくるアメリアをはっきりと認識した。
彼は礼儀正しい微笑みを浮かべると、階段の途中で立ち止まって挨拶をした。
「おはようございます。レディ・メラヴェル」
アメリアも内心の動揺を隠して礼儀正しい笑みを作って挨拶する。
「おはようございます。アルバート卿」
そして、アメリアが昨日のことなど全く気にしていない風を装って彼の横を通り過ぎようとしたとき――。
「今朝はずいぶんと早いのですね」
そう言った彼の口調は落ち着いていて普段と何も変わらなかった。
それに対してアメリアが彼より数段上で立ち止まって何か返答しようと振り返ったとき、彼は声を落として付け加えた。
“Non placuitne tibi ientaculum nostrum?”
(当家の朝食はお気に召しませんでしたか?)
――ああ、なんてこと。彼はやっぱり気づいていたんだわ!
アメリアは首元の立襟の小さなフリルに触れながらほとんど反射的に答えた。
「あの、全然……」
もちろん、「私、ラテン語は全然わかりませんの」の意だ。
アルバート卿は眉を上げた。
その反応を見てアメリアは思わずヘーゼルの瞳を見開いた。
これは良くない。会話の流れからすると、朝食に文句を言っているようにも聞こえかねない。
「いえ、あの、そうではなく……つまり、朝食は素晴らしかったです。特にケジャリーが」
アメリアが慌てて付け加えたのを聞いて、アルバート卿は口元に笑みを浮かべた。
そして、「それは良かった」とだけ言って悠然と階段を下りていった。
彼の灰色の瞳は明らかに輝いていた。
その輝きが、興味なのか、からかいなのかは判然としないが、アメリアはもう観念した。
観念した上で次善の策を考え始めていた。