境界線
1912年4月初旬のある朝、メラヴェル女男爵ことアメリア・モントローズ=ハーコートは、新婚の夫アルバート・モントローズ=ハーコート卿と共に、南仏ニースのプロムナード・デ・ザングレを歩いていた。
プロムナード・デ・ザングレ――英国人の遊歩道――はその名の通り英国人で溢れていた。
ニースを訪れた英国人は決まって、青い海や潮風に揺れるヤシの木、白い漆喰の高級ホテルを背景に、流行のファッションを身に纏ってこの遊歩道を闊歩することになっている。
ただし、彼らの目的は散歩そのものではなく社交だ。
道を行き交う見知った同国人と親しげに挨拶を交わしたり、逆に遠くから歩いてくる特定の知人の気配を察して巧みにやり過ごしたりするのだ。
アメリアとアルバートがこの遊歩道を行く第一の目的も社交だった。
先月結婚したばかりの彼らはハネムーンの真っ最中だが、ここニースでは社交をしてくるようにとアルバートの父ウェクスフォード侯爵から指示を受けていた。
アルバートは明らかに乗り気ではなかったが、侯爵家育ちの彼は「社交を好んでいる」ように見せるのが得意だった。
一方、アメリアは社交嫌いではないし、寧ろ色々な人と話すのが好きではあるものの、これまで通りの「遠縁の爵位を継いだ女男爵」だけではなく、「侯爵の三男の奥方」という立場が新たに加わったことに些か緊張もしていた。
それでも、二人はニースに着いて以来、次々と社交をこなした。
到着してすぐのテンベリー侯爵夫妻が主催するディナーパーティーに始まり、いくつかのお茶会、公爵令嬢にして富豪の未亡人レディ・イソベルが主催するダンスパーティーにも出席した。
その合間には、劇場でオペラ鑑賞を名目とした挨拶回りも忘れなかった。
正直二人ともやや疲れていたが、遊歩道を歩きつつ午前の潮風に当たっていると少しは気分が上向くようにも思えた。
すると、歩道の向こう側から、メルコーム侯爵夫人と彼女の娘レディ・エリザベスがやってきた。
流行の最先端を行く母子はゆったりとしたシノワズリのドレスに身を包んでいた。
アメリアとアルバートは、テンベリー子爵夫妻のディナーパーティーでこの母子と知り合い、レディ・イソベルのダンスパーティーでも行き合っていた。
メルコーム侯爵夫人は陽気だが鋭い観察眼を持つ40代の女性で、既婚の娘レディ・エリザベスを連れて旅行中なのだと語っていた。
「ごきげんよう、レディ・メルコーム、レディ・エリザベス」
「ごきげんよう」
両者の距離が近づいたときに、アルバートとアメリアが挨拶するとメルコーム侯爵夫人は隙のない笑みを返した。
レディ・エリザベスも母と同じく微笑んだ。
「ごきげんよう、レディ・メラヴェル、アルバート卿」
侯爵夫人と令嬢が立ち止まったので、二人も自然と立ち止まることになった。
アルバートの腕に掛けられていたアメリアの指が、侯爵夫人の探るような視線に呼応してほんの僅かに動いた。
しかし、アメリアは落ち着き払って、顔に適度な陰がかかるよう日傘の角度を調整しつつ、自分が身につけているアンサンブル――白いリネン地に黒糸で刺繍が施されている――をさり気なく見下ろした。
侯爵夫人のファッション批評は容赦がないことで有名だった。
とはいえ、今日のアメリアの服は流行を押さえつつも女男爵としての立場を弁えているように見えるはずだし、アルバートのライトグレーのラウンジスーツとの相性も悪くない。
アメリアがそう考えながら笑みを保っていると、幸いにして侯爵夫人の視線はアメリアの服を通り過ぎた。
すると、彼女は娘に向けて意外なことを言った。
「それにしても、ハネムーナーはいいわねえ、エリザベス」
その言葉にアメリアの心臓が小さく跳ねた。
社交界での上流階級の夫婦は、あからさまに仲が悪いのもいけないが、他人からわかるほど仲が良くても無粋だとされる。
アメリアもアルバートもニースに到着して以来、暗黙の了解で節度ある振る舞いを心がけていた。
二人とも言葉にはしなかったが、自分たちがどうやら平均以上に「仲が良い夫婦」らしいと自覚していた。
「そうでしょうか?レディ・メルコーム」
何気ない口調で言ったのはアルバートだったが、彼の声色を聞き分けられるようになっていたアメリアは、彼がやや警戒していることに気がついた。
「ええ、そうよ、アルバート卿」
そう言って意味ありげに微笑む侯爵夫人の隣で、レディ・エリザベスが母への呆れを示す視線をアメリアに送った。
アメリアは内心で安堵のため息をついた。
レディ・エリザベスの反応から察するに、侯爵夫人は新婚夫婦をからかっているだけのようだ。
しかし――。
「だって、まだ結婚が『日常』になっていないのだもの」
侯爵夫人が冗談めかして言ったその言葉が、妙にアメリアの心に残った。
***
その翌週――。
アメリアとアルバートはハネムーンからの帰路にいた。
前日にフランスから英国に戻ってロンドンに前泊した彼らは、今日いよいよバークシャーのメラヴェリー村にあるメラヴェル男爵家のカントリーハウス<メラヴェリー・マナー>に戻る。
<メラヴェリー・マナー>では、アメリアの母ミセス・グレンロスを中心に家族や親しい親戚が集まって二人を出迎えることになっている。
そして、夜には帰還祝いの正餐会が開かれ、家族たちはその後も数日滞在する予定だ。
しかし、今、ロンドンのパディントン駅で列車の一等車両に乗り込んだ二人は、真剣な顔で向かい合っていた。
彼らはコンパートメントに他の乗客がいないのを良いことに、あることについて活発に意見を交わしていた。
「――だったら、あなたが手首を痛めたことにするのはどうかしら?」
「君の提案はもっともだが……正直、その筋書きには穴があると言わざるを得ない」
アメリアが提案すると、アルバートは残念そうに首を振った。
彼らが議論しているのは、ハネムーンから帰還したカップルに課されるある「儀式」についてだった。
その「儀式」とは、新郎新婦が初めて新居に足を踏み入れる際に、新郎が新婦を抱き上げて戸口の境界線を越えるというものだ――そうすることで悪霊が悪さをするのを防げるという言い伝えがある。
しかし、二人の意見は、この「儀式」を回避すべきだということで一致していた。
アメリアは、この「儀式」が過度にドラマチックに思えて気恥ずかしさを覚えていたし、アルバートは悪霊などという非合理的な迷信に迎合したくはないと考えていた。
とはいえ、「儀式」は一瞬のことではある。
二人とも心のどこかでは、強いて我を通して家族を落胆させるほどのことでもないと思っていたが、何故かどうしても気が進まなかった。
「あら、どうして?」
先ほど提案した「アルバート手首負傷案」に「筋書きに穴がある」と指摘を受けたアメリアは首を傾げた。
「出発前に君のお母さんが言っていたんだ。私たちの帰還祝いの正餐会のデザートはトリークルタルトにすると」
「まあ、あなたの大好物だわ。だとすると……」
「ああ、そうすると、私は『手首を痛めた』ことを忘れて、驚くほど滑らかな動きでトリークルタルトを食べてしまう可能性が……非常に高い」
アルバートは至極真面目な顔で言ったが、アメリアはほんの僅かに微笑んだ。
そのトリークルタルトを作るのは、メラヴェル男爵家の料理人ミセス・ヘイズ――キッチンの誇り高き司令官――だが、アメリアは彼女が「侯爵家出身の旦那様でも文句をつけられない料理を作る」と息巻いているのを伝え聞いていた。
今夜は最高のトリークルタルトが供されるに違いない。
アメリアは「驚くほど滑らかな動き」でトリークルタルトを食べる可笑しくも愛おしいアルバートの姿を思い描いた――ところで我に返った。
今は「儀式」を回避する方法を考えなければならないのだった。
目の前のアルバートも俯き加減になって何か考えを巡らせていた。
ちなみに、先ほどアメリアが提案した「アルバート手首負傷案」の前には、アルバートにより「アルバート脚負傷案」と「アルバート頭痛案」が提案されたが、その二案はアメリアが意見を述べる間もなく、彼自身により容赦なく却下されていた。
(「客人たちの滞在中、ずっと脚を引きずっているのは……無理だろうな」「若い男が一瞬の『儀式』にも耐えられないほどの頭痛を訴えたら……医者を呼ばれてしまう」)
アメリアは思案の末、敢えて軽い調子で言った。
「じゃあ、これはどうかしら?私の気分が優れないことにするのは?」
「なるほど。『気分が優れない』君は帰還早々一旦寝室に下がり、正餐会には『回復』した君が現れる……であれば、演技も最小限で済むという算段だね?」
「ええ、そうよ」
アメリアは微笑みながら頷いた。
アルバートは暫く検討していたが、やがて慎重に切り出した。
「しかし、マイ・ディア。君の意見を否定したいわけではないのだが、その案は少し危険じゃないかな?どうも皆にある種の期待を抱かせてしまう可能性があるように思えるのだが……」
「あら、どういうこと?」
アメリアはできるだけ何げなく聞こえるようにいった。
アルバートは一つ咳ばらいをして口を開いたが、一度思い直したように唇を引き結んだ。
そして、逡巡の末に再度口を開いた。
「つまり、君だって知っているだろうけど……私たちも今すぐでなくても、きっと将来的には……」
躊躇いながらも真剣な顔で話し始めたアルバートを見て、アメリアは思わず笑みを漏らしてしまった。
アルバートもまた彼女のヘーゼルの瞳が悪戯っぽく輝いているのに気がついて、にやりと笑った。
「やれやれ、私はすっかり君にからかわれていたらしい」
アルバートは皮肉に言ったが、その青みがかった灰色の瞳はどこか楽しげだった。
「ええ、ごめんなさい。既婚のレディとしての特権を行使してみたかったの」
既婚のレディとなったことで、アメリアには自分から触れても良い話題が明らかに増えていた。
アメリアはその自由を噛み締めるように微笑んだ。
アルバートもそんな彼女を見て微笑んだが、すぐにまた俯き加減になった。
「しかし、そうするとやはり、我々は例の『儀式』に耐えるしかないということになるのだろうね」
アルバートがため息交じりに言うと、アメリアも釣られてため息を漏らした。
「そうね。こればっかりはどうしようもないのかもしれないわ……」
そうはいっても、ただの「儀式」だというのに、アメリアは何故自分がこんなにも気乗りしないのかよくわからなかった。
***
それ以降も二人は議論を続けたが、結局妙案は見つからなかった。
そうこうしているうちに列車はメラヴェリー村の駅に到着し、列車を降りた二人は迎えに来ていた男爵家の自動車に乗り込んだ。
二人を乗せた自動車は村の懐かしい風景の中を滑るように進んだ。
暫くすると、バークシャーの春の自然の中に悠然と佇む、白い縁取りが施された赤煉瓦の屋敷<メラヴェリー・マナー>が見えてきた。
屋敷の玄関の前には、既に使用人が男女別に左右に分かれて整列していた。
そして、左右の使用人の列の間にある黒いオークの玄関扉からは、家族たちがちょうど出てくるところだった。
アメリアとアルバートは、自動車の後部座席に座ったまま一度だけ視線を交わした。
そして、意を決した彼らが自動車から降りると、家族一同の期待のこもった視線が向けられた。
――ああ、もう、やるしかないのだわ。
アメリアがアルバートに視線を向けると、彼も覚悟を決めたようで一度だけ頷いて見せた。
そして、彼はアメリアの背中と膝に腕を回すと、一気に彼女を抱き上げた。
家族からは控えめな歓声が上がった。
アルバートは「君は目を閉じていてもいいよ」と囁いたが、アメリアは目を閉じなかった。
姿勢を安定させるために両腕を彼の首に回し、アルバートのしっかりとした足取りを感じていた。
いよいよ戸口を入るとき、アメリアの心臓が跳ねた。
彼女の心の中に、プロムナード・デ・ザングレで聞いたメルコーム侯爵夫人の言葉が響いた。
――だって、まだ結婚が『日常』になっていないのだもの。
アルバートの足が境界線を越えたとき、アメリアは自然と身構えた。
しかし――。
「思ったより平気だったわ……」
無事に室内に入ったところで、玄関ホールの床にゆっくりと降り立ったアメリアは思わず呟いた。
すると、体勢を立て直す彼女を支えていたアルバートも頷いた。
「ああ、思ったより平気だ……」
二人が顔を見合わせていると――。
「おかえりなさい」
「おめでとう」
新郎新婦に続いて室内に入ってきた家族たちが口々に祝福の言葉を述べ、彼らを取り囲んだ。
二人はそれぞれに話しかけてくる人々に応えながら、先ほどまでの固い表情とは打って変わって、自然と柔らかい笑顔を浮かべていた。
「さてさて、皆さんお茶の時間ですよ」
頃合いを見計らってミセス・グレンロスが声をかけると、二人の前に執事ミスター・フィリップスが進み出た。
「奥様、旦那様、おかえりなさいませ。使用人一同、ご無事のお帰りを喜んでおります。応接間にお茶の準備が整っておりますので、まずはおくつろぎください」
二人が執事に礼を言うと、早速母ミセス・グレンロスが一同を先導し始めた。
腕を組んだ二人も母に続いて応接間へと歩き出し、その後に他の家族が続いた。
「実を言うと、私は例の『儀式』をもって何かが劇的に変わってしまうのだと思っていたのだが……」
廊下の中ほどでアルバートが声を落として言った言葉に、アメリアは深く頷いた。
「ええ、わかるわ。私は正直、怖かったの……少しだけ。ハネムーンが終わって『日常』が始まったらどうなるのかしらと……」
「でも、不思議と何ともなかった。確かに変化はあったが、何が終わったわけでも始まったわけでもなく……」
アルバートは言葉を探して視線を落とした。
アメリアも同様に考え込んでいると、ふとある言葉が頭に浮かんだ。
「『ただ家に帰ってきただけ』?」
「ああ、そうだ。それだよ」
二人は密やかに笑みを交わした。
「ここがあなたと私の家になって嬉しいわ、あなた」
「私もだよ、マイ・ディア」
そう言い合いながら、彼らは柔らかい絨毯を一歩一歩踏みしめるように歩いた。
窓から注ぐ春の陽光、応接間から漂う紅茶の香り、家族たちの賑やかなおしゃべり――。
そうやって、二人の「日常」が続いていくのだ。これからも、ずっと。
無事英国に帰ってきました。ロマンス番外編3.5部は残り一話です。




