野あそび
おそらくこれが最高糖度のエピソードです。
参照はモーパッサンの「野あそび」ですが、冒険的でないロマンスにもときめきや興奮はあると思います。
1912年4月、新婚のメラヴェル女男爵ことアメリア・モントローズ=ハーコートは、夫のアルバート卿と共にフランスでハネムーンを過ごしていた。
彼らは数週間かけてパリ、リヨン、エクス、ニース、そして夜行列車で再びパリを訪れることになっている。
しかし、ハネムーンとはいえ、ずっと「二人きり」を満喫できるわけではない。
前半のパリとリヨンは移動のための経由地であり、後半のニースでは社交イベントに参加しなければならない。
更に、最後のパリでの数日間、アメリアは特に忙しくなる。
帰国してからの社交に欠かせないパリの最新モードの衣装を仕立てるのだ。
そういうわけで、彼らが本当に親密な時間を過ごせるのは、エクスでアルバートの叔母のヴィラに滞在している間だけだった。
***
「『"ハネムーナー"は絶対に一度はピクニックに行かせること』というのが、わが主の言いつけでして――」
エクスでの滞在最終日、ヴィラで二人の面倒を見てくれている叔母の執事――当然、叔母は使用人付きでヴィラを貸してくれている――の言葉を聞いた二人は、まるで示し合わせたように微かに眉を上げた。
「どうにか最終日の今日、ピクニックに行っていただくわけにはいかないでしょうか、奥様、旦那様」
このヴィラの使用人には、現地のフランス人も多いが、執事は叔母が英国から連れてきた英国人だった。
フランス人の使用人が比較的自由に振舞っているのに対し、彼はこの南仏の白い太陽の下でも英国執事の矜持を貫いている――つまり、新婚の客人を主の指示通りにもてなしたいのだ。
アメリアもアルバートも、叔母がピクニックを指示した理由はよくわからなかったが、異議を唱えるほどの事情もなかったので、素直に従うことにした。
***
そうして、数時間後、彼らはヴィラの裏手の明るい森にいた――。
"Inopinément… je me sens libre."(思いがけず……自由だ)
森の開けた場所に敷かれたダマスク織の敷物の上で、ピクニックバスケットから食器を取り出していたアルバートが呟いた。
彼らの目の前には、ヴィラのシェフが腕を振るって用意したフランス風の昼食――パテやコンソメのジュレ、サンドイッチ、ガランティーヌ、果物、デザートなどだ――が並んでいた。
ピクニックであろうと、貴族の食事は使用人により給仕されるものだが、驚くべきことに今、二人の周囲には誰もいなかった。
もちろん、彼らのためのピクニックセット一式は使用人たちによって運ばれた。
しかし、その使用人たちは、敷物とクッションを整え、昼食を配置し、氷の入ったバケツにシャンパンの瓶を挿すと、「あとはお好きにお楽しみください、マダム、ムッシュー」と言って、さっさとヴィラに戻ってしまった。
"Tenez, Madame."(どうぞ、マダム)
"Merci, Monsieur."(ありがとう、ムッシュー)
クッションの上に座ったアメリアは、アルバートが紳士らしく彼女のために取り分けてくれたパテとサンドイッチを受け取って微笑んだ。
淡いクリーム色のドレスの袖ぐりのフリルが森を通り抜ける風に揺れた。
遠くから聞こえてくる小川のせせらぎとナイチンゲールの囀りに、アメリアはいつか母に隠れて読んだモーパッサンの短編集の一篇のことを思い出した。
家族とピクニックに出かけた若い女性が何とも冒険的な恋をする話だ。
恋も愛も知らなかった当時は、書いてあることの半分もわからないまま「そんな恋がありえるのかしら」と思ったものだ。
でも、こんな素敵な森が舞台だとしたらそういうこともあるのかもしれない――アメリアはそんなことを考えてしまった自分に内心苦笑し、ガーデンハットのつばに触れた。
それから、二人は料理とシャンパンを堪能しながら、とりとめのないことを話した。
これまでの訪問先のこと、ヴィラでの発見、パリでの予定――。
「明日にはニースに向けて出発しないといけないね」
ガランティーヌの断面を崩さないよう器用に切り分けながらアルバートが言った。
彼の言葉の端にはほんの僅かに憂鬱が滲んでいた。
ニースでは他の英国人滞在者と社交をするよう父の侯爵から言われているのだが、彼はあまり気が進まないらしい。
「そうねえ。でも、少し楽しみなこともあるわ」
「そうかな?」
「だって、結婚して初めて夫婦として人前に出るでしょう?どんな感じかしら?」
「なるほど、それは一理ある」
アルバートはボーターハットの陰で微かに笑みを浮かべた。
「ただ、ニースに発ってしまったら、徐々に英国が近くなるわ。帰国したら今のような自由な時間はそうないでしょうから、それは残念ね」
アメリアはきゅうりのサンドイッチの最後の一切れを前に、小さくため息をついた。
すると、どこからか低い歌声が聞こえてきた。
アメリアは思わず歌声の方を振り返った。
もちろん、歌っているのはアルバートだった。
アメリアはこれまで彼が歌っているのを一度も聞いたことがなかったので、てっきり彼は歌が嫌いなのかと思っていた。
しかし、今、彼女の前で歌う彼はどことなく楽しげだった。
Ὅσον ζῇς φαίνου
μηδὲν ὅλως σὺ λυποῦ
πρὸς ὀλίγον ἐστὶ τὸ ζῆν
τὸ τέλος ὁ χρόνος ἀπαιτεῖ
「まあ、それ何の歌?」
「“セイキロスの墓碑銘”に書かれている古代ギリシャの歌だよ。亡くなった夫が妻に宛てた歌だと言われていて、完全な形で現存する最古の歌だそうだ。生きている間は人生を楽しめ、嘆きすぎるな――ということだね」
「良いことを聞いたわ。私も今の自由を謳歌すべきね」
その言葉を聞いたアルバートは口元だけでにやりと笑った。
そして、彼らがまだ手を付けていなかったデザートの皿を示して言った。
「では、こんなのはどうだろう。ここに苺のケーキがある。おそらく中身はクリームたっぷり。君がこれを切り分けてみるというのは?」
アメリアは静かに息を呑んだ。
上流中産階級の令嬢育ちで現在は女男爵の彼女はこれまでケーキを切り分けたことなどなかった。
万一、彼女が切り分けたとしたら、使用人の仕事を奪う不作法なレディになってしまう。
たとえ今回のような特別な状況でもそれは紳士の役割であるはずだ。
しかし、アメリアのヘーゼルの瞳には、いたずらっぽい煌めきが宿っていた。
「まあ、いいのかしら?」
「もちろん。今日の私たちには自由があるようだからね」
アルバートはそう言って、彼女に切り分け用の真珠母貝の柄のナイフとフォークを差し出した。
ケーキの上には艷やかな赤い苺が載っている。
アメリアは少し目を細めてその苺を見つめてから、ナイフをケーキのスポンジにそっと差し入れた。
アルバートの予想通り、スポンジの間にはクリームが詰まっていて、切ったそばから溢れ出した。
彼女は切り分けた一切れをナイフとフォークを使って皿まで慎重に運んだ。
しかし、柔らかいクリームでいっぱいのケーキは着地した途端、驚くほど簡単に崩れ、皿からはみ出すように倒れていった。
咄嗟にアメリアはフォークを放り出した左手で、はみ出したケーキを受け止めてしまった。
いつもの優雅な手袋の代わりに淡く黄みを帯びたクリームを纏ってしまった女男爵の手――。
二人は何も言わずただ顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、控えめに笑い声を漏らした。
「ああ、誰も見ていなくて良かったわ」
「おやおや、私が見ているよ」
アルバートは苦笑しながら、ナフキンで彼女の左手のクリームを拭い始めた。
アメリアはふと自分の手を取っている彼の左手の小指に輝くシグネットリングに目を留めた。
貴族の紳士の多くがそうするように、彼はこの紋章入りの金の指輪をいつも身につけている。
アメリアは、そのシグネットリングと自分の薬指の金の指輪が並んで見えるよう、さり気なく手をずらした。
合わせて作られたわけでもない二つの金の指輪。
それなのに、その二つの輝きは不思議なほどよく馴染んでいた。
彼女は未だ丁寧にクリームを拭ってくれている彼をそっと見上げた。
その青みがかった灰色の瞳はいつになく穏やかだった。
「ありがとう、きれいになったわ――」
言いかけたアメリアの唇にアルバートのそれが重なった。
ケーキの苺が香り、仄かにシャンパンの味がした。
「アルバート、あなた酔っているのかしら?」
アメリアは敢えて真面目な調子で言ったつもりだったが、口元には隠しきれない笑みが滲んでいた。
「ああ、酔っている。ただし、シャンパンにではなく、これから先も君が私の妻だという事実にね」
アルバートは少し皮肉に笑うと、頭のボーターハットをとって敷物の上に仰向けに寝転んだ。
そして、そのまま自分の隣を示してアメリアに目配せした。
暫くは彼の珍しく自由な振る舞いを面白がるように眺めていたアメリアだが――結局は髪に留められていたガーデンハットをゆっくりと外してその隣に横向きに寝転んだ。
「ねえ、あなた。私たち、こういう場所で寝転んだりしたらいけないのではなくて?」
「君の言うとおりだね、マイ・ディア。でも、こういう思い出こそ、これからの私たちの支えになる――そうは思わないかい?」
そう言って彼が伸ばした左手にアメリアも左手を重ねた。
エクスの森の木漏れ日が重なった金の指輪と彼らの頬を甘やかに照らしていた。
【引用出典】
「セイキロスの墓碑銘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A2%93%E7%A2%91%E9%8A%98
・この時代の英国では結婚指輪をつけるのは妻のみであることが一般的でした。
・この時代、上流階級のレディが給仕することがあるとすれば、紅茶を注ぐことくらいでした。一方、紳士はこの数十年くらい前までは、ディナーで手ずから肉を切り分けることもありました。食料を分け与えることが主人としての権威の象徴だったでしょう。




