その前後
「その」="consummation"ですが、これまでの作風通りエピソード内では何もしていませんので、安心してお読みください。
前半が「前」、後半が「後」です。
1912年3月、メラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスは、ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート・モントローズ=ハーコート卿と、自身の領地バークシャーのメラヴェリー村にある教会で結婚式を挙げた。
神の前で誓いを交わし、家族や友人に祝福された二人はこれ以上なく幸せだった。
結婚式に続いてカントリーハウスにて催された祝宴が終わると、二人は早速ハネムーンへと旅立った。
そのハネムーンは、両家が事前に相談した通り、フランスに数週間滞在するだけの貴族の夫婦としてはやや控えめなものだった。
新婚の二人は、供はそれぞれの侍女と従者に限ることに決めたので、私的で親密な時間を過ごせることを楽しみにしていた。
英国からフランスに渡るには、ドーヴァーの港で船に乗らなければならない。
そして、そのドーヴァーに行くためにはロンドンから列車に乗る必要がある。
そういうわけで、二人は、挙式後バークシャーからロンドンに向かい、翌日の列車移動に備えてロンドンのホテルに宿泊することになっていた。
ちなみに、アメリアは当初ロンドンのメラヴェル男爵家のタウンハウス<メラヴェル・ハウス>に宿泊すれば良いのではないかと考えたが、母ミセス・グレンロスにより即座に却下された。
どうやら新婚夫婦はハネムーンが終わるまで「新居」に入ってはいけないらしい。
ロンドンのホテルに着いた二人は儀式と移動の疲れを癒すため、まずはそれぞれの寝室で休息をとることにした。
彼らは貴族の夫婦なのでハネムーンといえど、それぞれの寝室が必要だ。
ただし、二つの寝室は共有の居間で繋がっている。
休息をとった後は、ディナーのために着替えなければならない。
夫婦となって最初の二人きりのディナーなので、アメリアは着るべきドレスを母や侍女のミス・アンソンと綿密に相談していた。
結局、選ばれたのは銀糸とビーズで飾り付けられたオイスター・ホワイトのシフォンドレスで、髪には台座にダイヤモンドをあしらった羽根飾りをつけた。
ミス・アンソンの確かな技術のお蔭で、アメリアは気品を保ちつつも美しい新婚の貴族のレディとなったが、内心はどうにも落ち着かなかった。
彼女は自分が何に緊張しているのかよくわかっていた。
もちろん、それはディナーではない。
その後の――。
ドレッサーの前でミス・アンソンに髪型の最終調整をしてもらいながら、アメリアの右手は無意識に左手の薬指の金の指輪の感触を手袋越しに確かめていたが、ノックの音で我に返った。
ミス・アンソンが応対すると、それは思った通り、先に準備を終えたアルバートだった。
ハネムーンだからと言って、男性のディナー用の正装は普段と変わらない。
彼の燕尾服も白いタイも、よく整えられたアッシュブロンドの髪もいつも通りだった。
「さて、準備はできたかな、マイ・ディア」
ゆったりとした足取りで入室した彼に、アメリアはドレッサーの鏡越しに頷いた。
すると、彼も鏡越しにアメリアの瞳を少しの間見つめてから一度頷いた。
続けて、彼はミス・アンソンに向かって言った。
「ありがとう、アンソン。少し話してから食堂に行くとするよ」
ミス・アンソンは礼儀正しく頷いて、寝室のドアを静かに閉めて退出していった。
アメリアは自分の心臓が息苦しいくらい鼓動しているのを感じた。
それは、夫となったアルバートが彼女を「マイ・ディア」と呼んだせいなのか、メラヴェル男爵家の一員となった彼がミス・アンソンを敬称を付けずに呼んだせいなのか、ミス・アンソンが夫婦となった二人を何の躊躇いもなく二人きりにしたせいなのか――おそらく、その全てだった。
「緊張してるかい?」
アメリアが視線を伏せていると、いつの間にか彼女の隣に来ていたアルバートがそう尋ねた。
反射的に彼を見上げると、その青みがかった灰色の瞳が彼女を見つめていた。
咄嗟に言葉が出ないアメリアに彼はただ手を差し出した。
「大丈夫。まずはただのディナーだよ」
アルバートは穏やかな微笑みを浮かべていたが、それはすぐにアメリアが見慣れたいつも通りの皮肉な笑みに変わった。
「……今のは、主に私自身に言い聞かせたのだけどね」
アメリアは思わず微笑み、差し出された彼の手をとって立ち上がった。
二人の手は震えてなどいなかったが、触れあった指先は以前より近づいた距離を確かに感じていた。
そして、二人はごく自然に短いキスを交わし、密やかに笑いながら連れだってディナーへと向かっていった。
***
ハネムーン5日目、二人は南仏エクス=アン=プロヴァンスにあるアルバートの叔母レディ・クレメンタインのヴィラに滞在していた。
二人は前日の午後にこのヴィラに到着したが、ヴィラの主であるレディ・クレメンタインは「新婚夫婦の邪魔はしたくないの」と言って、主だった使用人を紹介すると早々にどこかに旅立っていった。
その叔母の気遣いのお蔭で、二人はハネムーン4日目の夜を何の気兼ねもなく過ごすことができた。
エクスに至るまでの二人は、バークシャーで挙式した後にすぐロンドンに移動したのに始まり、ロンドンからパリ、パリからリヨン、リヨンからエクスへと――何日も移動を続けていたが、このヴィラには一週間以上滞在する予定だった。
そのため、これが彼らにとって初めての翌朝の移動を気にせずゆったりと過ごせる夜でもあった。
そんな全てのことが良い方向に作用したのだろう。
理解と納得を重視して慎重に深められていた二人の親密さも遂に完成を迎えたのだが――。
そうして迎えた5日目の午前、彼らは貴族の夫婦らしくそれぞれの寝室で目覚めた。
そして、それぞれに朝食をとった後、ヴィラのテラスで自然に合流し、共に庭を歩くことになった。
ヴィラの庭はまさに春の絶頂を迎え、鮮やかな青のアイリスがヴィラの白い外壁と美しいコントラストをなし、咲き始めたばかりの淡いピンクのティーローズが馨しい香りを周囲に放っていた。
しかし、アメリアはそんな庭の華やかさに惹かれる様子もなく、レースの日傘に掴まるようにして黙々と庭の奥へと進んでいた。
そんな彼女の後ろを歩くアルバートは、彼女が歩みを進める度に翻るフレンチ・ブルーのドレスの裾に視線を遣りながら、先ほどちらと見た彼女の表情を思い出して微かに眉を寄せていた。
日傘と帽子の陰ではっきりとは見えなかったが、彼女は物思いに深く沈んでいるようだった。
――おそらく……彼女はあまり好きになれなかったのだろう。
彼は内心でそう考えつつも、それ自体は大した問題ではないと思っていた。
それよりも、彼女が「好きになれなかったこと」が今後も起こることに怯えているのではないかと、そちらの方がずっと心配だった。
「アメリア、マイ・ディア」
彼が意を決して呼びかけると、前を行っていたアメリアはすぐに振り返った。
そのヘーゼルの瞳は揺れていた。
アルバートは深呼吸をしてから切り出した。
「昨夜のことだけど……もし君が当分『控えたい』と思うのなら――」
「あら?今『控えたい』とおっしゃった?それは困るわ」
アルバートは思わず眉を上げた。
「困る」とは何のことだろうか。
責任感の強い彼女のことだから後継者のことを心配しているのだろうか。
そうだとしても、二人ともまだ若いのだから焦らずとも良いとは思うが――。
アメリアは考えを巡らせているアルバートを見て首を傾げたが、その内に納得したように頷いた。
「ああ!ごめんなさい、アルバート。私がつい考え事に没頭してしまったから、心配させてしまったのね」
アメリアは少し俯き加減になりながら続けた。
「あなたが心配してくださったようなことは何もないのよ。ただ、私は自分がいかに浅はかだったかに気づいたの。つまり、一度経験すれば全ての謎が解けると思っていたのだけど……違ったわ。経験したことで、かえって謎が増えてしまって……それで――」
そこで彼女は一度言葉を切った。
彼女のクロシェの手袋を着けた手が日傘の柄を落ち着かなく撫でていた。
「それで……?」
アメリアの意図が掴めないアルバートは一度瞬きをしてから続きを促した。
彼女は逡巡しながら唇を噛んだが、やがて口を開いた。
「それで……あなたさえ良ければ、暫くその謎を解くのに付き合ってもらえないかしら……?」
アメリアは言ってしまってから、片手を日傘の柄から離して半分だけ頬を覆った。
「なるほど……」
アルバートは暫し沈黙した。
驚きと安堵、衝撃と静かな歓びが心の中で綯交ぜになり、適切な言葉を探せないでいた。
しかし、結局は――。
「やれやれ、仕方ない。暫くは君の謎解きに付き合うとしよう」
アルバートは敢えて皮肉に言うと、ふと思いついたように傍らに咲いていた青いアイリスを摘み取った。
彼がそれをアメリアの帽子のリボンに挿したとき、二人の視線がぶつかった。
互いの瞳の奥に同じ輝きを見つけた彼らは――日傘の陰でそっと唇を重ねた。
気が付けば、時系列的にはアメリアがアメリア・グレンロスとして登場する最後のエピソードでした。
以降はアメリア・モントローズ=ハーコートになりますが、普段の名乗りは爵位に応じてレディ・メラヴェルとなります。
(作者としては、彼女は子供の姓については別に指定するはずだと考えていて「婚姻契約」の中で触れています)




