その先の遠くへと
"Wedding Night"(いわゆる「初夜」。作中では「結婚式の夜」としています)について真面目に話そうとする二人の話です。
物語自体はコメディですが、当時の女性の身体や自己決定の権利が蔑ろにされていたことへの皮肉でもあります。
1912年の春のある日、レディ・メラヴェルことアメリア・グレンロスは、母ミセス・グレンロスと共に、婚約者である侯爵家の三男アルバート卿の父ウェクスフォード侯爵のカントリーハウス<ウェクスフォード・ホール>に滞在中だった。
彼らは数週間後に結婚式を控えているので、これが婚約者同士として共に過ごす最後の機会だった。
アメリアの滞在最終日の朝、屋敷に滞在中の両家の家族は、俄かに色めき立った。
その日の午前中に二人が遠乗りに出かけることに決めたと聞いたからだ。
家族は――規範に厳しいアメリアの母ミセス・グレンロスでさえ――さすがにそろそろ二人が何らかの感情的な親密さを見せることを期待していたのだが、ここまでの彼らの振る舞いは、婚約者同士というにはあまりに理性的過ぎるように見えた。
お互いに想い合っているのは明らかだと思うのだが――。
朝食が終わって暫くすると、家族のうち何人かは何らかの口実で、玄関ホールを見下ろせる屋敷の二階の廊下に出ていた。
遠乗りに出かける二人の様子をさり気なく観察するためだ。
しかし、彼らは間もなく落胆することになった。
乗馬服に着替えた後、二階から大階段を下って玄関ホールを通過した二人は、真剣な顔でセネカの「倫理書簡集」について議論をしていたからだ。
自分たちが家族を落胆させたことに全く気付かないまま玄関を出た二人は、既に待機していたそれぞれの馬に騎乗して<ウェクスフォード・ホール>を堂々と出発した。
今回の遠乗りには、仲間内で何度も行ったことのある比較的短いコースが選ばれた。
そして、早々に目的地である丘の上に到着した二人は、いつもの木に馬を繋ぎ、その近くの広葉樹の根元に腰を下ろした。
丘の上に到着するまでには、セネカについての議論は決着していたので、二人はまず他愛のないことから話し始めた。
最近のお互いの家族の様子、アメリアの"探偵業"のこと、アルバートに雑誌のコラム連載のオファーがあったこと、それからもちろん、目前に控えている結婚式のこと――。
しかし、話題がハネムーンのことに及んだあたりで、会話は途切れ途切れになり、彼らはどちらからともなく距離を詰めた。
そして、アルバートが帽子をとったのを合図に、二人はそのままゆっくりと目を閉じ、唇を重ねた。
彼らはそれを密かに何度か味わっていた。
それでもいつも初めてのような気がするのは何故だろう。
そんなことを考えながら、彼らは何度も口づけた。
何度も、何度も――。
しかし、何度目かのキスの途中で、不意にアメリアのヘーゼルの瞳が見開かれた。
以前から抱いていたある疑問が彼女の胸に湧き上がってきたのだ。
「あの……アルバート卿?」
呼びかけられたアルバートは少し目を開け、再度彼女の唇に触れようとしていた動きを止めた。
彼女の口調にはどこか"謎"の気配があった。
正直言って、彼は彼女とキスをするのが好きだったが、彼女と"謎"を巡って議論することもまた非常に好きだった。
「どうしました?レディ・メラヴェル」
彼はゆっくりと彼女から体を離しながらその表情を探った。
彼女の頬は少し赤くなっていて、その黒色の乗馬服と美しい対をなしている。
しかし、その頬の赤みがこれまでのキスによるものなのか、これから投げかけようとしている"謎"によるものなのかは判然としなかった。
「お尋ねしてもよろしいかしら?」
「ええ、どうぞ」
アメリアは視線を落とすと、乗馬服のスカートのしわを手で伸ばし、一つ深呼吸をしてから言った。
「……結婚式の後には何が起こるのでしょうか?」
アルバートは一切の動きを止めた。
二人の頭上では広葉樹の葉が春風に揺れていた。
短い沈黙の後、彼は何とか言葉を絞り出した。
「それは……つまり、いわゆる"結婚式の夜"に何が起こるのか、ということですか?」
彼に問われたアメリアは頼りなさげに頷いた。
心なしかその頬の赤みが増したように見えた。
「ごめんなさい。レディらしくない質問ですわね。でも、母は『夫に従いなさい』としか教えてくれないものですから……」
彼女の言葉の最後の方はほとんど消え入りそうだった。
「なるほど……」
そう呟いたアルバートは落ち着き払って答えを検討しているように見えたが、実際は深く動揺していた。
しかし、この疑問が出てくること自体はもっともだと思った。
「夫に従いなさい」の一言を与えたのみで経験のないレディを"結婚式の夜"の闇に放り込もうというのは無理がある。
一方のアメリアは彼の青みがかった灰色の瞳の奥に映るものを見逃すまいと、考え込んでいる彼の横顔を真剣に見つめていた。
そして、最終的に彼はある結論に達したようで、アメリアに向き直って明確に告げた。
「あなたは真実に値するレディですから、正直にお話ししましょう」
彼の真剣な表情にアメリアは自然と身構えた。
一体どんな真実があるというのか――。
「実は、私は数年前に兄のヘンリーに結婚指南書を何冊か読まされました――いえ、残念ながらあくまで紳士用の本なので、レディが読むのには向かないようです」
最後の言葉はアメリアがそれらを読みたそうにしていたことにより付け足された。
彼女の顔には、忽ち落胆が浮かんだ。
それでも、彼が本のことから話し始めたことは、彼女に安堵をもたらした。
本に基づく情報なら、冷静かつ理性的に疑問を解消できそうだ。
「――その結婚指南書の全てを鵜呑みにするわけにはいきませんが、ジョージ・ハドソンという専門家の著作では、"結婚式の夜"を夫が考えなしに進めると妻に"極度の苦痛"を与えることになるという趣旨のことが書かれていました」
――"極度の苦痛"?
アメリアは思わず数回瞬きをした。
"苦痛"――しかも"極度"となると、一体どんな苦痛なのだろう?
例えば、骨を折るようなことでも起こるのだろうか?
それとも、精神的な何かだろうか?
自分はそれに耐えられるのだろうか?
しかし、そもそも――。
「でも……あなたが私に"極度の苦痛"を与えるなんてとても思えないわ」
その言葉にアルバートは微笑んだ。
どうやら彼の婚約者は心からの信頼を彼に寄せてくれているらしい。
「ええ、もちろんです。ただ、率直に言って、"苦痛"を全くなくすことは難しいと思います。ですが、最小限にするためにできる限り努力しますよ」
彼が真面目な顔でそう言うのを聞いて、アメリアの表情は和らいだ。
少し緊張が解けた彼女はもう一段深いことを尋ねた。
「でも、そのミスター・ハドソンがわざわざ警告するということは、夫にそんなつもりがなくても、結果的に"極度の苦痛"になってしまう場合も少なくないということなんでしょうね?」
彼女は考え込むように頬に手を当てながら視線を落とした。
それを受けてアルバートも言葉を選びながら慎重に説明を試みた。
「ええ、お察しの通り、ほとんどの夫は敢えて妻に"極度の苦痛"を与えたいわけではないはずです。ただ、いざその場になると、妻がどう感じ、どう思うかの想像を怠ってしまう……ということは大いにあり得ます」
「一体どうしてそんなことに?普段、紳士方はレディを気遣ってくださるでしょう?」
アメリアは首を傾げながら、アルバートの瞳を見つめた。
すると、間もなく彼女のヘーゼルの瞳に一つの閃きが走った。
「……もしかして、夜の暗闇のせいなのかしら?」
その無意識に核心を突く指摘にアルバートは眉を上げた。
「……まあ、"暗闇"というのは一つあるでしょうね」
――そう、理性の光が消え去った"暗闇"。
とアルバートは心の中だけで呟いたが、すぐに我に返って続けた。
「そうなると、あなたのお母様が与えてくださった『夫に従いなさい』という助言だけでは不十分な場面が出てきます」
「では、私はどうすれば……?」
アメリアのヘーゼルの瞳には戸惑いが浮かんでいた。
彼は一つ咳ばらいをしてから、穏やかに切り出した。
「その段になったら、あなたが感じていることや思っていることを正直に私に伝えてください。そうすれば私もそれに合わせて……行動することができます」
その言葉にアメリアは自然と微笑んだ。
それなら彼と過ごしているときにはいつも意識せずともできていることだった。
「わかりました。それだけでいいのですね?」
「ええ、あなたが『それだけで』と言ってくださることが私にとっての救いですよ」
アルバートはそう言って、再度ゆっくりと彼女との距離を詰め、アメリアもそれに倣った。
そして、彼らはまた唇を重ねた――何度も、何度も。
***
「――ところで、アルバート卿」
そろそろ帰るべき頃合いになると、二人は再度騎乗して<ウェクスフォード・ホール>を目指して馬をのんびりと歩かせていた。
ちょうど開けた野原に出たところで不意に名前を呼ばれたアルバートは、並走しているアメリアの方に一瞬顔を向けた。
「先ほどの話なのですが……」
乗馬用の帽子の陰になってはいるが、アメリアの頬にはまた微かに赤みが差しているように見えた。
「どうぞ、続けてください」
彼女が先ほどの"結婚式の夜"のことでまだ何か不安を抱えているのであれば、それはできる限り解消されなければならない。
アルバートの視線は進行方向に戻ったが、耳はしっかりと彼女の話に傾けられていた。
「先ほどあなたは"結婚式の夜"について『"苦痛"を全くなくすことは難しい』とおっしゃいましたね?」
「ええ、言いました」
アルバートは思わず眉を寄せた。
正直に真実を告げたことでかえって不安にさせてしまったかもしれない。
しかし、彼女は思いがけないことを言った。
「私、思い出したのです。その昔、私の大叔母が"結婚式の夜"に起こることについて、『結局、それが好きになって待ち遠しくなる妻もいる』と言ったことがありました。少なからず"苦痛"を伴うものなのに『好きになって待ち遠しくなる』というのはどういうことなのでしょうか?」
アルバートは急に鐙に掛けているはずの足の感覚がなくなったように感じたが、あくまで平静を装って言った。
「……それは……まあ、夫が上手くやればそういうこともあるかもしれません」
その言葉にアメリアは微かに首を傾げた。
「そうなのですか?だとすると、思慮深いあなたはきっと上手くおやりになるのでしょうね、アルバート卿?」
その問いを受けたアルバートは暫し考え込んだ。
――あくまで冷静で論理的かつ控えめな答えを……。
彼は自分に言い聞かせながら、何かもっともらしい回答を探した。
しかし、考えれば考えるほどわからなくなった。
誤魔化せば嘘になるし、真実を答えれば不適切になる。
そして、結局は――。
「レディ・メラヴェル……降参です」
彼は素直に認めた。
「どうか“結婚式の夜”まで待ってください。そこで全てをお話ししますから。無力な私にはそうお願いすることしかできません」
彼は神妙に言ったが、ややあって、堪えきれなかった微かな笑いが漏れた。
わからないことに真摯に向き合い、妥協を許さず追及する彼女の前に、彼は滑稽なほど無力だった。
やはり誰も彼女から真実を隠しておくことなどできないのだ。
「あら?今、お笑いになったわね?ひどいわ」
アメリアは咎めるように言ったが、口元には笑みが滲んでいた。
アルバートが厳しい制約の中で最大限努力してくれたことはわかっていた。
適当な答えで煙に巻くこともできたはずなのに、素直に降参した彼の誠実さが可笑しくも愛おしかった。
「ひどいだなんて言わないでください、レディ・メラヴェル。私はあなたを笑ったのではなく、あなたにすっかり追い詰められた自分を笑ったのですから」
そう答えたアルバートは遂に声を上げて笑い出し、馬に速足を指示してアメリアを追い抜いていった。
「もう、逃げないでちょうだい!アルバート卿!」
アメリアも笑いながら彼に続いた。
そうして、二人は笑いながらも、なんとか<ウェクスフォード・ホール>まで帰り着いた。
しかし、馬を馬丁に引き渡す頃には、彼らは完全に普段通りに戻っていた。
抑制的で、冷静で、あくまで理性的な二人――。
ただ、<ウェクスフォード・ホール>の大階段を上がり切ったとき、彼らは一瞬だけ視線を交わして頷きあった。
今日の遠乗りで思ったよりもずっと遠くまで行ってしまったことは二人だけの秘密だ。
そして、二人一緒ならこの先どこまでも行けるだろう。
それこそ、"結婚式の夜"を越えて、遥か遠くへと――。
引用出典
G. W. Hudson(1883)"The Marriage Guide for Young Men. A Manual of Courtship and Marriage" p.139
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日本語訳は作者による。
本話で婚約期間編はいったん終了です。今後、期間は空きますがハネムーン~新婚生活のエピソードも書きたいと考えています。




