心の内で燃えるもの
本話投稿後、シリーズをR15とさせていただきます。とはいえ、刺激的な内容を書く予定は一切ありません(笑)ただ、そろそろ結婚の現実に踏み込むため、念のためのレーティングです。婚約期間編はあと一話の予定です。
「――先日もお伝えしましたが、結婚式とその後のパーティーの準備は滞りなく進んでおりますわ、ウェクスフォード卿。それから、ハネムーンの後には領地の村人向けの祝宴も計画していますの」
「有難いことです、ミセス・グレンロス。この結婚において最も重要なのは、言うまでもなく、我が息子がメラヴェル男爵家の一員として、男爵家の家族はもちろん、使用人や村人にも受け入れられることですから。領地で行われる一連の行事が試金石となりましょう」
1911年12月、メラヴェル女男爵ことアメリアとウェクスフォード侯爵家の三男、アルバートの結婚式が数か月後に迫った頃――。
クリスマスを迎える前に、ウェクスフォード侯爵はこの新郎である息子のアルバートを伴って、バークシャーのメラヴェル男爵家のカントリー・ハウス<メラヴェリー・マナー>を訪問していた。
<メラヴェリー・マナー>の応接間で彼らに応対しているのは、もちろん、新婦のアメリアと母ミセス・グレンロスだ。
彼ら――というより侯爵とミセス・グレンロス――は、結婚式やその後のパーティー、ハネムーン、それに、新居や結婚の贈り物など、結婚にまつわる仔細について話し合っていた。
といっても、今回は既に決定していることの最終確認をするだけではある。
「ハネムーンは南仏のご親戚のヴィラに滞在させていただけるということでよろしいのでしたわね?」
ミセス・グレンロスは鋭い口調で言った。
母の傍らに座っていたアメリアは少しどきりとして白いブラウスに合わせている深いグリーンのスカートに視線を落とした。
母はハネムーンの良し悪しがその後の結婚生活の良し悪しを左右すると固く信じている。
一方のウェクスフォード侯爵は彼女の意図を完璧に理解していることを示すように厳粛に頷いた。
「ええ、エクスにある我が妹レディ・クレメンタインのヴィラです。年寄りが言うのもなんですが、新婚夫婦にとっては最適でしょう。それに二人にはニースに立ち寄って、社交もしてきてもらいたいのです。あそこにはいつも英国社交界の要人が誰かしら滞在していますからな。わかっているな、アルバート?」
「はい、父上。わかっていますよ」
父の言葉に穏やかに応じたアルバートは、明るいブラウンのスーツの襟を一度だけ撫でた。
そして、彼は、侯爵とミセス・グレンロスの視線が逸れている隙に、アメリアだけにわかるよう僅かに肩を竦めて見せた。
アメリアはつい口元だけ微笑んでしまった。
婚約者同士になって、彼について今まで知らなかったことが段々わかってきた。
実は彼は親しくない人々との社交を好まないというのもその一つだ。
二人が視線でのやりとりを楽しんでいるうちに、侯爵とミセス・グレンロスの話題は結婚祝いの贈り物のことに移っていた。
「――我が侯爵家から二人への贈り物については今申し上げた通りですが、加えて、息子に当家の蔵書の一部を与えたいのです。とはいえ、家の財産なので、息子が生きている間の一代使用権にはなりますがね」
「素敵ですわね。侯爵家にはきっと貴重な本がおありなのでしょう」
「いやいや、ほんの慎ましいコレクションですよ」
侯爵はそう言いながら上着のポケットを探って、一枚の紙を取り出した。
「こちらに息子が使用権を希望している本の目録を作ってきました。男爵家の方でもお持ちのものがあるかご確認いただけますか?」
受け取ったミセス・グレンロスは、早速目録を開いて上から下へと視線を走らせた。
その間に侯爵はアメリアに向かって語り掛けた。
「レディ・メラヴェル、私としては全て持って行ってもらって構わんのですよ。ただ、アルバートは、先日生まれたばかりのジョンの息子が将来読むかもしれないので、持ち出すのは最小限にしたいと言い張るのです。そうだとしても、最近は本など、パン屋の息子でも気軽に買えるような値段ですから、買い足せば良いと思うのですがね」
それを聞いたアメリアは柔らかく微笑んだ。
秋の初めに、アルバートの長兄ジョンことロスマー子爵に第一子マスター・エドワード――通称エディ――が誕生し、アメリアもお祝いに銀のスプーンを贈ったところだった。
ウェクスフォード侯爵にとっての初孫であり、侯爵家の将来の後継者でもあるその男の子は、今や侯爵家の家族の愛情を一身に受けていることが窺われた。
そして、どうやらアルバートもすっかり良い叔父になっているらしい。
アメリアが彼に視線を向けると、彼は控えめな苦笑を浮かべていた。
すると、目録に目を通し終わったらしいミセス・グレンロスが言った。
「貴族の家でもあまり見かけない著作を中心にお選びになっているようですね。後で当家の執事に確認させて――」
そこで言葉を切ったミセス・グレンロスは考え込むように視線を落とした。
ややあって、視線を上げた彼女はそのまま侯爵に何やら目配せをし、侯爵も彼女に向かって僅かに眉を上げた。
「アルバート卿、よろしければ、今から図書室で蔵書を確認なさいます?娘がご案内しますわ」
母の言葉にアメリアは少し眉を上げた。
これまで未婚のレディとして、特に室内では男性と二人きりになることを固く禁じられてきたが、これは一体……。
アメリアが戸惑いながらそっと侯爵の方を窺うと、彼はアルバートに向かって頷いていた。
そして、それを受けたアルバートがアメリアの方にやって来て、腕を差し出した。
「レディ・メラヴェル、ご案内いただけますか?」
アメリアは彼の腕を取りながらも、この急展開に心がついていかなかった。
***
「――『法学提要』はこの<メラヴェリー・マナー>の図書室にはありませんけど、ロンドンにはあります。亡き父の持ち物でしたの」
アメリアは目録を見ながら微笑んだ。
在りし日の父がそれを使って彼女にラテン語を教えたことがあったのだ。
今から思うと、どう考えても初学者には向かない教材だったが、それがいかにも父らしかった。
アルバートは書棚の前を歩く彼女のどこか楽しげな足取りを見て、穏やかに微笑んだ。
二人はこの少し前に図書室に着いたが、アメリアは暫くはこの急展開に戸惑っていた。
しかし、図書室の扉は当然のように開け放たれているし、彼らがここにいる以上は使用人が何らかの世話を焼くために定期的に姿を見せるだろうことに気が付き、すぐに落ち着きを取り戻した。
――何より、私たちはもう正式な婚約者なのだから。
彼らが親の了解の下、短時間二人きりになったとしても何の問題もないのだった。
そう考えたアメリアは、今は寧ろアルバートと共に、目録と蔵書を照合するこの作業ができることを楽しんでいた。
とはいえ、読書好きのアメリアには、照合するまでもなく有無を特定できるものも多かった。
「次が最後ですわね。アリストパネスの『騎士』……これはないと思いますわ」
そう言いながらアメリアはギリシャ古典の著作が並べられている本棚の前に移動し、端から端まで見てみたが、やはり『騎士』はなかった。
「ありがとうございます。そうすると、父に使用権をもらうのは目録の半分ほどで済みそうですね」
アルバートはそう言って微笑んだ。
アメリアはその微笑みを見てふと思いついたことを言った。
「そうだわ。もし、思い入れのある著作があれば、当家にもあったとしても、お持ちになってはどうかしら?例えば、お小さい頃に繰り返し読んだ本だとか、特に影響を受けた本など」
彼女の提案にアルバートは顎に手を当てて考え込んだ。
「そうですね。目録には入れなかったのですが、『エティオピア物語』と『友情について』、それから『饗宴』あたりは……でも、やはりエディのために残して置いた方が良いだろうか……」
アルバートの呟きにアメリアは眉を上げた。
ヘリオドロスの「エティオピア物語」とキケロの「友情について」はアメリアも翻訳版ではあるものの、読んだことがあった。
しかし、「饗宴」――おそらく、プラトンの著作だ――はこれまで読んだことがなかった。
それどころか――。
「今、『饗宴』とおっしゃいました?亡き父に読むのは結婚してからにしなさいと言われていた本だわ。これまですっかり忘れていたけれど、何故お父様は――」
アメリアは言い終える前に、ギリシャ古典の翻訳版が置かれている棚の前に移動した。
そこには「饗宴」の翻訳版が置かれているはずだ。
すぐにそれを見つけたアメリアは手を伸ばしたが、アルバートに先に取られてしまった。
「……お父様の言いつけを守った方がよろしいかと」
「饗宴」を自分に引き寄せながらそう言ったアルバートは妙に歯切れが悪かった。
アメリアは思わず首を傾げた。
父に禁じられたということは、何らかの刺激的な内容が含まれるということなのだろうが、これまでアルバートはアメリアが多少刺激的な著作を読んだとしても何も言わなかった。
寧ろ彼女がどんな感想を持つか興味を持っているようだった。
それなのに、この「饗宴」についてはなぜ――。
「そんなに刺激的なのかしら?」
「刺激的と言えばそうなのでしょうが……それよりも……」
アルバートは少し躊躇った後に続けた。
「私はこの『饗宴』で説かれている愛のあり方に共感しているのです。もちろん、友愛のような穏やかな愛のことではなく……まあ、いずれにしても、あなたがこれを読んでしまうと、私が何を抱えているかが明らかになってしまうのですよ」
そう言いながら彼は特に乱れてもいないタイを直した。
それを見たアメリアはくすりと笑って言った。
「わかりました。あなたがそうおっしゃるなら、読むのは結婚してからにします。……でも、ほんの一行だけでもだめなのかしら?」
アメリアはそう言って彼が持ったままの「饗宴」にそっと手を掛けた。
彼は苦笑しながらそれを自分の方に引き寄せたが、アメリアは手を離さなかった。
「だめです。どうか許してください」
「まあ、ますます内容が気になりますわ」
アメリアがからかうように言うと、彼の方でも可笑しそうに笑った。
そして、そのまま二人は冗談半分に「饗宴」の取り合いを演じていたが――その内にアルバートの瞳に何かが過った。
それを見たアメリアは動きを止めた。
――あら?今のは一体?
アメリアは一度瞬きをして、彼を見つめた。
すると、彼は彼女を「饗宴」ごと抱き寄せ、そっと腕の中に収めた。
彼の上着が頬に触れたとき、ほのかに白檀の香りがした。
二人とも何も言わなかった。
静かな図書室に暖炉の炎が燃える音だけが響いていた。
その内に、彼がその腕を解こうとする気配がした。
しかし、アメリアは彼の腕から逃れたいとは思わなかった。
寧ろ、何時間でもここに留まっていられる気がした。
彼女はその身を彼の胸に預けるように、ゆっくりと力を抜いた。
彼は一瞬躊躇ったが、それでも、彼女の体をしっかりと受け止めた。
「……あなたは私が心の内に燃やしているものを知らないのです」
そう言って彼は彼女の背中に回した腕に少し力をこめた。
「それを知ったらあなたは私を軽蔑するかもしれません」
その言葉にアメリアは顔を上げて彼の瞳を見た。
彼の青みがかった灰色の瞳の奥で何かが燃えていた。
それは暖炉の炎の明かりが反射しただけかもしれないが、それだけではないようにも思えた。
彼女はその揺れる炎から目が離せなかった。
「どうかしら?私も同じものを燃やしたいと思うだけかもしれませんわよ」
アメリアが答えると、彼は少し目を見開いた。
彼は何か言いかけて口を開いたが、結局は彼女のヘーゼルの瞳をただ見つめ返した。
そして、彼らは、もう無いに等しい距離を更に縮め――静かに唇を重ねた。
***
それから数十分後――。
「春には私たちが<ウェクスフォード・ホール>に伺いますわね」
侯爵とアルバート卿が屋敷を辞去するのを玄関で見送りながら、ミセス・グレンロスがにこやかに言った。
アメリアも母の隣で礼儀正しい笑みを浮かべていた。
侯爵とアルバートも優雅に挨拶をして自動車に乗り込んだ。
この少し前に図書室から応接間に戻ったアメリアとアルバートは、すっかり普段通りの節度ある婚約者同士に戻っていた。
ただ、アルバートの手には、先ほど図書室で彼がアメリアと共に抱き締めた「饗宴」があった。
アメリアが彼にそれを持って帰るように頼んだからだった。
「侯爵家にある版と比べていただきたくて」とアメリアが述べた間に合わせの理由を母と侯爵がどう捉えたのかはわからなかった。
しかし、少なくとも、誰も何も言わなかった。
侯爵家の自動車が遠ざかって行くのを見送りながら、アメリアは結局一行たりとも読まなかった「饗宴」の内容を想像し始めていた。
――彼に持って帰ってもらって正解ね。
アメリアは内心で苦笑した。
どうにも内容が気になって仕方がない。
あのまま図書室に置いておいたら、父の言いつけにも彼の望みにも反して、本を開いてしまっただろう。
――でも、やっぱり文字で読むより、直接知った方が良いのだわ。
彼の愛について、彼が心の内で燃やしているものについて。
アメリアが知るまでそう遠くないのだから。
本話で言及のあるプラトンの「饗宴」の中で古代ギリシャ人たちが検討している愛は、愛の中でもエロース(恋愛や性愛に当たる愛)です。




