溶ける境界
ようやく現代の感覚で「付き合っている」状態になった二人です。
ちなみに、正餐会でペアになるとどうなるかは、第3部本編「<キャヴェル・サークル>の正餐会」(3話、4話)に詳述しています。
1911年9月初め――。
エルデンハースト伯爵家の長男ハルバートン子爵とその夫人が主催するハウスパーティーに招かれたメラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスと、ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート・モントローズ=ハーコート卿は、親しい友人たちと穏やかな秋の日を過ごしていた。
しかし、二人の内心は穏やかであるばかりではなかった。
というのも、その数週間前に、二人の婚約が正式に発表されたからだ。
彼らの心は静かに、だが、確かに高揚していた。
社交界は、その婚約に特段驚きはしなかった。
華やかさには欠けるが、似た者同士の堅実な組み合わせだというのが人々の共通した見解だった。
レディ・メラヴェルの方は、二年前にメラヴェル男爵位を継承したことにより、上流階級の社交界に正式に出入りするようになったレディだ。
彼女が知的なレディであることは、二年かけて社交界でそれなりに知られるようになっていた。
一部では、ウェクスフォード侯爵家で発生したダイヤモンドの指輪の盗難事件の解決に関わったとも噂されていたほどだ――もっとも、これはレディにとっては”悪い評判”だと捉える人の方が多かった。
アルバート卿についても、彼が非常に高い知性を持つことは、昔から社交界ではよく知られていた――しかし、これもまた良い評判ではなかった。
なにせ人々は彼を”知的過ぎて変わった紳士”と評価していたからだ。
他方、二人の親しい友人の間では、彼らの関係の基礎をどう捉えるかについて見解の対立があった。
一つは、彼らは恋愛により結びついているのだという見解――アルバート卿のプレップスクール時代からの友人セッティンガム男爵はこの見方を支持している。
もう一つは、彼らは理性により結びついているのだという見解――侯爵家の遠縁でもあるベルモント子爵家の双子の姉弟(姉の方はつい数か月前に結婚してクランフィールド伯爵夫人となった)はこちらを支持している。
そんなわけで、二人とその親しい友人たちが招かれたエルデンハースト伯爵家のハウスパーティでは、皆、二人の観察に余念がなかった。
二人はそんな周囲の視線などまるで気にしていないように見えた。
彼らの関係性の実態がどうであろうと、二人はやはり知的で落ち着いたカップルなのだ。
少なくとも他人の目にはそう映っていた。
***
そして、ハウスパーティーの四日目、暖かな日。
ハウスパーティーに集った若者たちは、エルデンハースト伯爵家自慢の人工湖にボートを浮かべていた。
季節は既に秋めいてきているが、誰かが是非今期最後のボート遊びをしようと提案し、皆が面白半分に賛成した。
そして、一同は、暗黙の了解で婚約したばかりのレディ・メラヴェルとアルバート卿を二人で一つのボートに乗せた。
社交の場で男女が公に親しくできるのは婚約期間のみの特権だ。
例えば、婚約者同士は慣習に従って正餐会で確実にペアになることができる。
(婚約前は主催の女主人の采配次第だし、身分に差があると可能性は低い。結婚後に夫婦がペアになることは絶対にありえない。)
例えば、婚約者同士は舞踏会で続けて踊っても文句は言われない。
(婚約前は顰蹙もの。結婚後は踊る機会自体が少なくなる。)
そんな事情もあり、同じボートに乗せられたレディ・メラヴェルとアルバート卿には、特段遠慮も照れもなかった。
二人のボートは、他のボートから少し離れて湖を一周しようとしていた。
ボートの片側に優雅に腰を下ろしたアメリアは午後の光に輝く湖面の美しさに少し目を細めた。
向かいでボートを漕ぐアルバート卿にそっと視線を移すと、ボーターハットから見え隠れする青みがかった灰色の瞳はいつも通り少しも揺らいでいなかった。
一方のアルバート卿もまた慣れた手捌きで櫂を操りながら、向かいに座っているアメリアを盗み見た。
彼女の日傘が秋の陽光を遮り、その白いドレスに影を落としていた。
光そのものを見たわけでもないのに目が眩む感覚を覚えた。
「あなたが私の妻になることがまだ信じられませんよ、アメリア」
そう言ってしまってから、彼は視線を落とした。
彼女のことをこれまで名で呼んだことはなかった。
正確には、心の中では……あった。
しかし、口に出したことはなかった。
彼は、気まずい沈黙を避けるため別の話題に移ろうとしたが、その必要はなかった。
「あら、私には、あなたの妻になることほど確かなことはありませんのに、アルバート」
そう言った彼女のヘーゼルの瞳は、湖面と同じように輝いていた。
彼らのボートは何事もなかったかのように、滑るように湖面を進み続けた。
思えば、その瞬間からだった。
二人の境界が溶け始めたのは――。
***
湖を一周した二人のボートは、一番最後に桟橋に辿り着いた。
マナー通りの自然な流れで、先に桟橋に移ったアルバートの手が差し出されたので、アメリアは迷わずクロシェの手袋を着けた手を重ねた。
そして、アメリアが彼の手に支えられて桟橋に移ったとき――彼女の手の甲を彼の親指がそっと撫でた。
それは彼女を支えるための必要な動きだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
いずれにしても、クロシェの手袋の細かな編み目越しの一瞬の動きだった。
それなのに、アメリアが感じたのは、手の甲の彼の指の感触だけではなかった。
彼の指が触れた場所から境界が溶けだすような感覚。
彼女は微かに息を呑んだ。
これまでそんな感覚を覚えたことなど一度もなかった――。
それから、若者たちはディナーまでの時間を思い思いに過ごした。
アメリアは主催者の子爵夫人や他のレディたちと一緒にカントリーハウスの庭を散策した。
遠くに見える黄金色のブナ林、生垣に赤く実ったサンザシ、花壇を彩る薄紫色のミカエルマス・デイジー。
そのどれもアメリアの心を通り過ぎて行った。
彼女は他のレディたちに気づかれないよう、そっと自分の手の甲をもう片方の手の親指で撫でてみた。
しかし、先ほどの、あの感覚はなかった。
自分の境界を失うような、あの感覚。
――あれは一体何だったのかしら……。
いくら考えを巡らせたところで、答えを見つけることはできなかった。
暫くして、ディナーの時間が近づくと、レディたちは解散した。
ディナー用のドレスに着替えるため、一度各々の部屋に戻らねばならない。
アメリアが自分のゲストルームへと続く廊下を歩いていると、廊下の反対側からアルバートがやってきた。
彼はアメリアを見つけると微笑んだ。
そうして、二人は自然と廊下の隅に立ち止まった。
「レディたちとの散歩はいかがでした?」
「お屋敷の美しいお庭を堪能できました。もうすっかり秋ですわね。リスを見た気がしましたの」
アメリアがそう言って微笑むと、彼の灰色の瞳が微かに輝いた。
その輝きを見た彼女は、今なら少し思い切った"お願い"をしてみても良い気がした。
「アルバート卿、一つお願いしてもよろしいかしら?」
「何でしょう、レディ・メラヴェル?」
アルバートは微かに眉を上げた。
アメリアは周囲にそっと視線を走らせて、廊下に人影がないのを確認してから囁いた。
「私の手をとっていただけないでしょうか?」
彼女はそう言って手袋で覆われた手を彼の方に差し出した。
先ほどの感覚の正体を突き止めたかった。
一方のアルバートは僅かに首を傾げたが、躊躇いなく彼女の手をとった。
「こうですか?」
もちろん、今度は先ほどのように彼の指が彼女の手の甲に触れることはなかった。
それでもやはり、アメリアはあの感覚を覚えた。
彼女は咄嗟に手を引こうとした。
しかし、彼の手が動いたのが先だった。
彼は手をゆっくりと滑らせ、互いの手のひら同士を合わせると、そのまま彼女の指に自分の指を絡めた。
アメリアが反射的に顔を上げると、彼の青みがかった灰色の瞳が彼女を見つめていた。
絡んだ指先から彼の体温が伝わる。
そして、その熱は今や彼女のものでもあった。
その熱は彼女の体の内側を侵し、やはりあの感覚へと変わった。
境界が溶けていく――。
アメリアはすぐに手を引かなければいけない気がした。
しかし、絡んだ指を解くことができなかった。
「アルバート卿、私たちはこれからどうなるのでしょう?」
代わりに唇からそんな問いが漏れた。
それを聞いたアルバートはいつも通りの少し皮肉な笑みを浮かべながらも、穏やかに答えた。
「あなたは私の妻になり、私はあなたの夫になる――そういうことでしょう?」
アメリアは自分の鼓動が速くなるのを感じた。
先ほどまでは、不確かなのは彼で、確信していたのは彼女だったはずなのに。
そのうちに、どちらからともなく絡んだ指先が解かれた。
「では、後ほどディナーの席で」
「ええ、ディナーの席で」
そう言い合ってすれ違った彼らは、お互いに背を向け、廊下を反対方向へと歩いて行った。
とっくに手は離れているのに、アメリアの指先にはいつまでも彼の指の感触が残っていた。
ようやく自分のゲストルームに戻ったアメリアは、閉ざされたドアに背中を預けながら自分の指先を見つめた。
名前を呼び合い、指先から溶け出した二人の境界。
いつかそれが完全に溶けるときが来るのだろうか。
それこそが自分が望んでいるものなのかもしれない。
そして、きっと、彼の方でも――。
その不確かな確信が彼女の心にいつまでも残っていた。
本話で言及のあったセッティンガム男爵ことスタンリーは、番外編には既出で、本編第3部の外伝「アルバート卿に必要だったもの」にも登場しています。
外伝では派手な暮らしをしていた彼ですが、本話の1911年時点では既に結婚しており、(彼にしては)落ち着いています。




