少女の目覚め①
暗い穴がぽっかりと開いていた。
あたりには立っているだけで飛ばされてしまいそうなほどの強い風が吹き、夜空は暗い雲に隠れている。
渦巻く穴の縁に立ち、その中心をただ見つめていた。
ここに身を投げれば、あの時、“あの人”が私に語ってくれたことのヒントが持ち帰れるかもしれない。
今はもう、“あの人”には必要が無いのかもしれないけれど。
でも、これが最後のチャンスかもしれないから。
何か持ち帰ることさえできれば、きっと、気が付いてくれる。思い出してくれる。
純粋にみんなのことを考えてくれていた“あの人”を。
そう。これは、“仕える者”としての責務。
望まれてはいないのだとしても、最後まで私はそれを果たす。
……いや、いいわけ、なのかな。
“あの人”のことをもう見ていたくないのかもしれない。
ただ、逃げたいだけなのかも。
それでもいい。
逃げるにしたって、前向きな可能性が一握りでもあるのなら、それを掴みたい。
だから……。
黒い穴へと一歩、踏み出そうとした時、私の名前を叫ぶ声が聞こえた。
もう振り返らないと決めていた。
それがどんなに、聞き馴染んだ声でも。
心から慕っていて、尊敬していて、憧れでもあった声でも。
そして、私を裏切った声でも。
構わず、身を投じた。
落ちていく世界の果て、遥か彼方からまだ私の名前を叫ぶ“あの人”を思いながら、そっと目を閉じた。
………………。
…………。
……。
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石のように重い瞼をゆっくりと開く。
ぼやけた視界。定まらない視点。
少しずつ光が集まって来て、世界の輪郭がはっきりしてきた。
…………。
見覚えのない天井がそこにはあった。
何度か瞬きをして見直してみるけれど、やっぱり分からない。
ベッドの上にいる、というのは分かった。だけど、このベッドも知らない。寝たままで辺りを見回しても、部屋の雰囲気に家具のどこれもこれも知らないものばかり。
岩のように重い身体を起こしてみると、やけに大きなノースリーブのブラウスを着ていることに気が付いた。
明らかに私のものじゃない。
誰のだろう。この部屋の人のものなのかな……?
そもそも、ここはどこなんだろう。
私は、どうしてここに?
なにも思い出せない。思い出そうと記憶の箱の中を探してみようとしても、空っぽで真っ白な空間をあてもなく彷徨っているようだった。
どうしよう……。ひとまず、私にこれを着せてくれた人はどこに……?
大きな窓から差し込んでくる日差しが、ゆらゆらと揺らめいて、時間がそっと流れていくのだけが分かった。
困り果てていると、扉の向こうから足跡が近づいてくる。
もしかして、この部屋に住んでいる、人?
なんて話しかけたら……。まずはお礼、だと思う。でも、それから……。っというか、そもそも怖い人だったらどうしよう。売り飛ばされたりとかするんだろうか。だとしても、私なんて二束三文にすら……。
あれこれ頭の中を駆け巡って考えがまとまらないまま、部屋の扉がゆっくりと開いた。
中に入って来たのは、女の子だった。
肩よりも少し長い薄紫の髪は肩のあたりで二つにまとめられている。頭の上に乗った夜空のような濃紺の三角帽子は、途中でくにっと右に折れている。帽子と同じ色の前が開いた短い丈のローブの下には、白いブラウスと黒の短めのプリーツスカート。そして、脹脛の半分ほどを覆う黒い靴下が、その先に延びる女の子の綺麗で健康的な足と鮮やかなコントラストを描く。背中には、三日月を象った、きらきらと光を反射する紫色の石が先端に乗った木の杖を担いで。
少し、ホッとした。
その一方で、女の子は、私の方を見て動かなくなってしまった。
黒のくりっと丸くて大きな瞳が私を捉えたまま。
私も見つめ返して、なんとか彼女のことを思い出そうとする。
だけど、どんなに思い出そうとしても、何一つ記憶に残っている者は無かった。
私が、真っ白の記憶の箱の中で立ち尽くしていると、突然、女の子の薄紫のおさげがふわっと浮きあがった。そのまま駆け寄ってきて、抱き着かれて、ベッドの上に押し倒されて。
えっ。えっ!?な、何事……!?
「目が覚めたんだねっ!良かった、本当に良かったよぉ……。」
ぽろぽろと大粒の涙が彼女の頬を伝っていた。
「あ、あの。私……。」
「湖のっ、ほとりでね、倒れてたからっ……。あたしの部屋まで運んできたの。なかなか起きないからっ、……もしかしたらって。」
私から離れた女の子は、腕で涙を拭う。いつの間にか私の手の甲に落ちていた涙も、ローブでそっと拭いてくれた。
「すみません。心配をかけてしまって。あの、あなたは私の……、お知り合いですか?」
おかしな質問だとは自覚しつつも、女の子の顔色を窺いながら聞いてみる。
女の子は大きく首を横に振った。
「ううん。さっきあなたをここまで連れてきただけだよ。」
「そう、ですか……。」
私の知らない人だったことに少し安心してしまった。
もしも知っている人だったら……。
「……あなた、名前は?」
名前……。
空っぽな記憶の箱の中を彷徨う。
あちこちを手探りで歩き回って、ようやく落ちていたものを見つけて拾い上げた。
「確か、フィルカ、だったと思います。」
「確か……?」
「はい。すみません。その、私、思い出せそうなことがあまりないみたいで……。」
落ち着きつつあった女の子の目じりが徐々に下がっていく。
「そ、そんな……。」
またぽろぽろと泣き出してしまい、ベッドの上に突っ伏してしまう。
「あ、あの。私は大丈夫です。大丈夫ですから。」
「で、でもっ……。な、何もっ、覚えてないとかっ……。」
ひぐっ、と息を詰まらせる女の子。
「その、助けてもらえたので、身体は問題なさそうですし。」
そう訴えても突っ伏したまま泣き続ける女の子。
なんとか慰めようと、目の前にある女の子の頭をそっと撫でてみる。
すると、徐々に落ち着きを取り戻してくれて。
「大丈夫そうですか?」
「うんっ……。ごめん……、ね?い、いきなり……。」
涙を拭きながら顔を上げてくれた女の子。
「いえ。こちらこそありがとうございます。その、助けてくれたみたいで。それにこれも……。」
私が来ているぶかぶかのブラウスに目をやると、女の子はまだ目を潤ませながらも微笑んでくれて。
「何も着てなかったから。予備から引っ張り出した間に合わせなんだけど。」
「助かりました。本当にありがとうございます。えっと……。」
そういえばまだ名前を聞いていなくて、そこで言葉が詰まってしまう。
そんな私の様子に気が付いてくれた女の子は、まだ残っていた涙を拭ってから。
「私、メルティエ。魔法使いです。よろしくねっ。」
メルティエさん。
彼女が見せてくれた満面の笑みは、部屋に差し込んでくる日差しよりも明るくて、私を照らし出してくれるほどに眩しくて、この世界で初めて触れた温かさだった。




