2.
それから付き添った女性が彼を両親の元まで連れてくると、両親は信じがたいことを言ってのけた。
「キャシーがずっと欲しがっていた弟だよ」
キャシー・ワルツァーはずっと弟妹を欲しがっていた。
ある時、幼い子女を持つ貴族同士の交流を目的とした茶会へ両親と参加したことがあった。
そこで一緒に遊んだ子爵令嬢が、母親は弟を産んだばかりで来れないのだと寂しそうに言ったのがきっかけだ。
生まれて間もない弟のために母親と一緒に来れなかったと落ち込む彼女を、仕方ないからこの私が元気付けてやろうと、やや上から目線で励ましていた彼女だったが、途中から話は生まれた弟の話になった。
その子爵令嬢にはすでに妹もおり、新しく生まれた弟ともども、可愛くて仕方ないのだという。
優秀さに自信のあったキャシーだが、一人娘であるキャシーは弟妹自慢に対抗する術を持たず、そもそも対抗する必要もないのになぜか負けた悔しさを感じて両親へと抗議したのだ。
その日からことあるごとに両親へ弟が欲しい妹が欲しいと駄々をこねていた彼女だったが、ここ最近はとんと忘れていた。
それが今、両親は誕生日プレゼントだと言って弟だという男の子を連れてきたのだ。
そのときのキャシー・ワルツァーに前世の倫理観が影響したのかは分からないが、彼女は激しく動揺した。
これはアカンやつや、と。
この天使のような男の子を、両親が一人娘の駄々のために拐かしてきたのではないかと心配したキャシーだったが、両親は笑って否定した。
「彼はね、親戚筋から引き取ることにしたデイビッドだよ。これからはデイビッド・ワルツァーだ」
父親がそう言う。
「彼はキャシーみたいに優秀な子よ。彼の家では十分な教育を与えられないから、ワルツァー家で引き取ることにしたの」
母親もそう続けると、「きっと優秀な子同士、キャシーと仲良くなれると思ったの」と笑いかけた。
キャシーはええんかこれ、と思った。
前世が関西の大学生だったことなどまだ自覚のなかった当時のキャシーは、謎の訛りでもって狼狽えながらも、天使のように可愛らしい男の子がずっと不安げにそこに佇んでいるのを可哀そうに思った。
両親は明日のパーティーで義弟のお披露目もすると言い、パーティーの準備のためにデイビッドを置いて部屋を出ていった。
二人仲良くしなさい、と言われたものの、キャシーの混乱はいまだ続いており、では遊びましょうなどと男の子に声をかける余裕もなかった。
目の前で不安そうなままのデイビッドには、初めに一緒に入室してきた女性が支えるように手を添えている。
二十代半ばに見える彼女はキャシーに挨拶をした。
彼女はデイビッドの生家の使用人であった女性で、デイビッドの乳母であり、共にワルツァー家へと移ってきたのだと言う。
「お嬢様、少し坊っちゃん、デイビッド様のことをお話させていただいてよろしいでしょうか?」
彼女は混乱しているキャシーにも分かるよう、ゆっくりとデイビッドの事情を説明してくれた。
デイビッドは男爵家の六人いる子のうちの末子だった。
キャシーはほとんどの貴族の名前がまだ分からず、その男爵家の名前にも聞き覚えがなかった。
両親が親戚筋だと言っていた男爵家だが、実際はかなり遠い血縁であり、交流もこれまで全くなかったそうだ。
しかし、あまりに弟妹が欲しいと言うキャシーのためにもと、引き取れる子がいないか周囲を探していたワルツァー侯爵家からの声がかかり、彼を引き取ることになったのだそうだ。
この時のキャシーは娘の駄々のために人一人引き取ってくるなんてと驚き、手放した男爵家に対しても複雑な気持ちになったが、前世の記憶が戻った今では納得もいく。
侯爵家の両親は子が娘一人であることに不安があったのだろうし、男爵の奔放なのか、子を六人も設けてしまって持て余していた男爵家にとっても渡りに舟であったのだろうと想像がつく。
貴族にとって子どもを育てるには金と時間がかかる。
学園へ行かせる前にも教師を付けねばならないし、社交にお披露目にと全うに育てるためにかかる費用は莫大だ。
年の近い子を二、三人もうけて一度に教師を付け、お披露目や社交もまとめてしてしまう家が多かった。
しかし前世の記憶に自覚もなく、突然の情報の数々を飲み込みきれないままだったキャシーに分かるのは、目の前の天使のように愛らしい彼が、自分の駄々で家族と引き離され連れてこられたことと、今まさに不安そうにしているということだけだった。
乳母の話が一段落したのを見たメイドが、先ほどまで最終調整を行っていたキャシーのパーティードレスを片付け、明日の準備のためだろう、部屋を下がろうとキャシーに許可を求めてきた。
それにキャシーはいつものように尊大な態度で頷くと、「あなた、フリル頼んだわよ」と忘れていればいいのにしっかりと無茶な要望をメイドに念押しした。
メイドが絶望したような表情になったが、キャシーはお構いなしだ。
いつもそうしてわがままを通してきた。
しかし、今日いつもと違ったのは、そこにキャシーの新しい義弟がいたことだった。
「フリル……?」
「あ、あら、声も可愛らしいのね。お姉ちゃんのキャシーよ」
か細く、甘い可憐な声でデイビッドが言ったのを聞き留めたキャシーは、すかさずデイビッドと親密になろうと話しかける。
「どうして?」
「え?」
「フリルどうして?」
不安げな顔のまま、乳母の足に隠れるようにしたデイビッドは、キャシーにそう問うてきた。
少し長い沈黙が落ちる。
ドレスを持ち絶望顔のまま退出しようとしていたメイドも、話題がドレスのことであると分かると部屋へ残った。
キャシーは問われた意味とこの状況を、少しだけ落ち着いてきた頭で考えた。
デイビッドは眉を下げた情けない顔のままだったが、年の近いキャシーと慣れ親しんだ乳母だけの会話になったことで少し余裕が出てきているように見える。
この可愛らしい義弟と仲良くなるのは、きっと今良い印象を持ってもらうことが大切だと思った。
部屋にはドレスを持ったメイドが、このあとドレスへフリルを付けねばならないことを気にして、明日までの残り時間の無さに絶望した顔をしている。
キャシーは自分が言うわがままによって使用人たちを困らせてきたことは自覚していた。
もしかして、今わがままを言って人を困らせる嫌な姉だと思われたのでは、と至極真っ当な思考がキャシーに飛来したのは奇跡だったのか、前世の記憶の一端が影響したのか。
そして彼女は、そのときのキャシーにとっては驚愕の事実である、そのことに気付いた。
今まで困らせてきた使用人も、メイドも、一人ひとりが意思を持った人間であり、自分と同じように好き嫌いをするのだと。
そして、他人に嫌われるようなことをする姉を、この可愛らしい弟は好いてくれないのではないかと。
「今更フリルなんて馬鹿なことを言ったわ。そのドレスはそのままでとても素敵よ、ありがとう」
そう言い放ったキャシーは真顔だった。
とにかく嫌わないでくれと、デイビッドに意識のすべてを向けながらで、様々な思考を駆け巡らせながらの真顔のままではあったが、優秀なキャシーはその時の最適解のセリフをメイドへと放った。
「お嬢様……、よ、よろしいんですか?」
突然の撤回に、しかしにわかには信じられないといった様子でメイドがかろうじて言葉を返す。
「ええ、今まで困らせてごめんなさい。私、変わるわ、この子のために」
キャシーの瞳は真っ直ぐで、透き通っていた。
もしかしたら無我の境地のがらんどうであったのかもしれないが。
メイドが目を見開き、息をのんだ。
状況に付いていけないデイビッドと乳母は、しばしオロオロと事の成り行きを見守っていたのだった。