1.
侯爵令嬢であるキャシー・ワルツァーがそのことに気付いたのは屋敷の中、今日もポカポカと日の当たる父親の書斎で、可愛がっている義弟に絵本の読み聞かせをしている最中のことだった。
「あ、私、前世の記憶あるわ」と。
侯爵令嬢キャシー・ワルツァー。
数代前には王家の血筋も混じったという、高貴な血筋のワルツァー侯爵家の長女で、五歳になって半年ほど経つ。
転生したことにたった今気付いた彼女だが、前世の名前は全く思い出せない。
今でこそゆるくウェーブした金髪を腰まで伸ばしたお嬢様然とした姿をしているが、前世の彼女は日本の女子大生だった。
高校までずっと校則を守っていた真面目な彼女は、きちんと制服を着て髪も染めず、化粧もほとんどしたことがなかった。
大学に入って両親の許しを得て一人暮らしを始めてからは、アルバイトも始めてメイクやオシャレにも興味を持ち、これから楽しいキャンパスライフを送るはずだった。
彼女に思い出せるのはここまでで、いつどうやって死んでしまったのかは皆目検討がつかなかった。
人生初めてのアルバイト、そのお給料のほとんどを注ぎ込んで買った、ひと揃えの化粧品や、もう少ししたら大学に着ていって友達に見せようと、まだおろしていなかった新品のワンピースはどうなっただろうか。
少し気持ちが遠いところへ行ってしまう。
「ねぇね?」
キャシーはハッとした。
そう、今は可愛い天使との大切なひとときだったのだ。
前世で一人っ子だった彼女には、今、天使のように可愛い弟がいる。
彼の名前はデイビッド・ワルツァー。
あどけないお顔で「う?」とこちらを不思議そうに見つめている彼は、まだニ歳になったばかりだ。
「ごめんなさい。デビー。どこまで読んでいたかしら」
「ねぇね、おなかいたい? だいじょぶ?」
ああぁ! 私の天使がどこまでも可愛い!
キャシーは内心で興奮した。
デイビッドは、ぷっくりまんまるほっぺのおちょぼ口を少しだけ尖らせるようにして、キャシーの心配をしている。
きゅきゅっと寄せられた眉根によって、彼の眉と眉の間には小さな富士山が作られている。
富士山は日本一高いが、ここにある小さなフジヤマは世界一可愛い、とキャシーは笑み崩れる。
彼女は欲望のままに彼の眉間へ指をぎゅむりっと沈めこむと、そのまま小さく尊い富士山をぐりぐりと揉みほぐした。
天使デイビッドは「あう、あう」とされるがまま、振りほどくこともできず目をつむって狼狽えている。
「お姉ちゃんは大丈夫よ。でも少し休憩をしましょうか。お部屋へ行きましょう」
「あい」
立ち上がり差し出したキャシーの小さな 手を、それよりもずっと小さなデイビッドの手が握るように掴む。
二人はメイドとデイビッドの乳母に付き添われながらキャシーの自室へと向かった。
+ + +
キャシー・ワルツァーは随分成長の早い子どもだった。
言葉こそ話し始めたのは他の子どもと変わらない頃だったが、その後、文字を書くのも数を数えるのも他の子よりずっと早くにできるようになった。
我が家では、学園に入学前の子どもに勉強や礼儀作法を教える家庭教師の女性が雇われているが、その彼女に言わせてもキャシーは他の貴族子女よりずっと優秀とのことだった。
実際、キャシーはまだ五歳だが、学園に入ってからするはずの読み書きや四則演算はもうおおよそできるようになっていた。
今になって思えば無意識でも前世の知識を駆使していたからだろう、とキャシーは思う。
しかし、どうせ前世知識は学生並みで頭打ちだ、とも。
小さな頃は優秀でも大人になれば凡人、なんてことはよくある話で、今ちやほやされたところで、成人するまでには凡夫に埋もれるような存在になるだろうと、前世を思い出した彼女はキャシー・ワルツァーの才能を冷静に理解した。
むしろ、これから前世の知識のあるまま初等教育から受け直すのかと考えて、七歳から学園へ通うのが少し億劫に感じる。
少なくとも半年前までの自身と今の自身では、物の見え方が明らかに変わったことを彼女は自覚する。
+ + +
今から半年ほど前、もうすぐ五歳の誕生日を迎えるキャシー・ワルツァーは鼻持ちならない嫌な子どもだった。
キャシー・ワルツァー本人である彼女が今思い返してそう思うのだから、よっぽどである。
小さい頃から蝶よ花よと育てられ、お嬢様は優秀ですと周囲に持ち上げられ続けた彼女は、完全に調子に乗っていた。
自身を特別な存在なのだと思い込み、使用人を道具のように扱ってはわがままを言いたい放題、少しでも気に入らないことがあれば「パパ!」「ママ!」と親を呼んで黙らせる。
そんなクソガキ☆キャシーちゃんにある日訪れたのは、そんな全能感も倫理観も何もかもが覆されるような出会いだった。
義弟であるデビッド・ワルツァーがワルツァー侯爵家へとやってきたのだ。
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それはキャシーの五歳の誕生日パーティー前日の朝のことだった。
自室でメイドに明日着るドレスにフリルが付いていなくては嫌と、今更とんでもない無茶振りをしていたクソガキ☆キャシーちゃん。
そこへ両親が揃ってやって来たのだ。
両親はとにかく一人娘のキャシーに甘く、望む物はなんでも与え、望む事はなんでも叶えた。
本来どんな貴族令嬢だって、人を呼んで誕生日パーティーを開くのは学園へ入る七歳になってからだ。
だというのに、「五歳になったキャシーをみんなでお祝いして!」と三日三晩駄々をこね続けたキャシーに折れてこの両親はパーティーを企画してしまった。
権威ある侯爵家からの招待とはいえ、一人娘を甘やかし開かれる誕生日パーティーに招待された方々もさぞ困ったことだろう。
「今日はキャシーにとっておきのプレゼントを用意したんだよ」
部屋へやってくるなりそう告げた両親は、嬉しそうな笑顔をキャシーへ向けると、「さあ、入りなさい」とさらに部屋へと誰かを迎え入れた。
部屋の中に控えていたメイドが扉を開くと、外にいた女性が少しかがみながら誰かを中へ入るよう促している。
開いた扉に現れたのは、扉の低い位置、そのフチにおずおずと掴まる小さな手だった。
小さな手とダボついたネイビーの袖。
それからサラリと濃紺の髪が見えたかと思うと、眉を垂らした男の子がこちらを伺うようにしながら女性に支えられ、よちよちと入ってきた。
濃い紺の髪に同じく暗い青の瞳。
サラサラの髪は耳の下あたりで切り揃えられている。
くりくりと大きな目はフサフサのまつ毛に縁取られ、小さなお鼻は冷えてしまったのか少しだけ赤い。
まんまるの柔らかそうなほっぺときゅっと結ばれたピンクの唇。
使用人に着せられたのだろう、おろしたてで少し大きめのダボついたネイビーの上下セットの室内着と、そこからのぞく小さい手足。
緊張からか、少し瞳を潤ませ、こちらを不安そうに伺うようなその姿を見たとき、キャシーは思った。
天使降臨、と。