永遠の友へ
「永遠に今を支え励ましてくれるのは、今までの自分だけである」
小中学生時代。
私がこの時代を語るにあたって、私の地域が少々特徴的であることを説明しなくてはならない。私の地域には二つ保育園があり、ほとんどの家庭はその保育園に子供を預けている。その二つの保育園からのメンバーがそのまま小学校に上がっているといっても過言ではない。そして、地域そのものが広いため中学校は他の地域とは合併せず、中学受験をする人以外は小学校のメンバーのままなのである。
・・・何が言いたいか言うと、非常に閉鎖的な地域なのである。
私の場合は、地域の保育園ではなく地域外の幼稚園に通っていた。そのため、小学校に知り合いがほとんどおらず、すでに出来上がっているグループの中に入らなければならないという状況に直面した。
近所の同級生で関りがあったのは主に四人。ひとりは、家の近くに住んでいるA子ちゃん。A子ちゃんと一番仲が良かったB美ちゃん。その二人と仲良くなりたがり、後ろをついて回っていたCちゃん。時々、その三人グループに混ざっていたD奈ちゃん。
私もそのグループに混ざろうとするが、これがなかなかうまくいかない。一対一だと楽しく会話できるのだが、これが二人以上だとなぜか私をいじめだすのだ。それにつられるように、クラスのいわゆるヤンチャグループはそろいもそろって私を格下であると認識する。
身長が低く、運動勉強も不得意な私は小学生だった彼女たちの格好の餌食だった。
いじめる時は主に休み時間と下校中。時々体育の授業中にもいじめられた。
小学校の先生は、長い休み時間にクラスでのレクリエーション企画し生徒を強制参加させる。当時、バカが付くほどまじめで正直だった私は、もちろん参加していた。しかし、運動能力が劣っている私にとって鬼ごっこやドッヂボールは地獄である。
ドッヂボールでどんくさい私は格好の的で、わざと強めに当てられた。そのうえ、背丈が小さいのででボールが回ってきても敵のチームがわざと目の前に立ちはだかり投げられない状態を作られる。加えて、投げる力もセンスもないので敵チームにボールを渡してしまうのだ。
鬼ごっこでは即座につかまる。また、私が鬼の場合は私の足が遅いことをおちょくるために周りをわざとウロチョロする。最悪なのは氷鬼の鬼役だ。私を大人数でぐるりと囲み、私が触れようとした瞬間に素早く身を引く。運よくタッチできても隣の人がすぐに解凍してしまい元の状態になる。これが、昼休みが終わるまでの三十分間ずっと続いた。
こんな状態が楽しいわけもなく、私は先生に怒られようとも休み時間は図書室に逃げ込んだ。少なくとも、図書室で足の遅さをバカにする人はいない。毎日通いつめ、司書の先生と仲良くなったのはいい思い出である。
下校中は、私にとって本当につらかった。低学年の頃はほぼ毎日泣きながら家に着いた思い出がある。
「バカ」「チビ」「のろま」「菌」「雑草」「死ね」「消えろ」「ウザい」「くさい」「キモイ」・・・なんて悪口は日常的。「帽子の上に芋虫が乗ってるよ」と嘘をつかれたり、私の図工の作品を見て「材料がかわいそう。死んじゃえばいいのに」と言われたりもした。今思えばかわいいものだが。
雨の日は先頭を歩かせ、後ろから水たまりをけってびしょびしょにされたこともある。ランドセルの中に雑草や小石、砂を入れられそれに対して抗議しようとしたが逃げられたこともある。週末の下校中に両足入れたはずの上履きが片っぽなくなっていたこともある。ごっこ勝負で、圧倒的不利な設定をつけられたこともある。
もちろん、相手の親にそのことを伝えに行った。けれども、「そうなの? ごめんねぇ。今度本人に直接伝えておいてくれる?」と言われた。正直、今でも信じられない衝撃的なセリフである。本人に嫌だといっても聞かないから親に抗議をしたにもかかわらず、その親がこれか。
下校中の厄介なところは、下校時間がずらせないことである。それに、メンバーによっては普通に楽しく下校できるのだ。変な言い回しになるが、A子ちゃんとB美ちゃんが大喧嘩したときは今でも忘れないくらい平和なひと時だった。A子ちゃん単体では私をいじめることはない。むしろ楽しいおしゃべりを繰り広げる仲なのだ。
では、B美ちゃんがいじめの主犯かといわれるとそうではない。B美ちゃんは兄の影響で少々口が悪く、かなりおバカなのである。勉強ができる出来ないのバカではない。それがいいことか悪いことか判断ができないという意味のバカである。B美ちゃんはいじめることに対して・・・というよりかは、普段兄に下に見られていたことが影響しているのか、相手より上の立場にいると感じることが楽しかったようだ。中学生に上がるころに「あ、こいつ本当にただのバカだった」と気づくまで、私は彼女のことが大嫌いだった。
その二人が出会うと、まるで化学反応のようにいじめは起こった。
また、Cちゃんはその二人のグループに混ざりたいのか、痛々しいほどに必死に二人の真似をして私をいじめていた。時々「ごめんね」と私に謝罪してくることもあった。だが、二人はそれが気に入らなかったらしく彼女もまたいじめの対象。二人に「ゆうなって、うざくてきもいよねぇ?」と同意を求められた私は自分可愛さから曖昧に同意をした覚えがある。でも、やはり二人のターゲットは私で、Cちゃんはしばらくの間宙ぶらりんな関係を続けていたようだ。後に腐れ縁という名のヲタク(黒歴史)友達になるのを、低学年だった頃の私はまだ知らない。
一番厄介だったのが、D奈ちゃん。彼女がいじめグループに加わると何故かいつもよりいじめが過激になるのだ。でも、この子も単体ではいい子なのである。一緒にお泊り会をしたり、お月見をしたりもした。彼女はさまざまな理由で転校していってしまったが、楽しかった思い出とつらかった思い出が半々なので少々複雑な気持ちだ。
そんな彼女たちが行ったいじめで一番覚えているのは、簡単な裏切り。
いつもの通りいじめられて泣いて帰宅をした日、玄関のチャイムが鳴った。親が出ると、例の二人が申し訳なさそうに手紙を渡してきたという。その手紙の内容は、「さっきはごめんね。またいっしょにあそびたいので、こうえんにきてください」というものだった。素直な私は公園に向かう。待ち構えていた四人組。始まったのは鬼ごっこ。じゃんけんも弱い私は鬼になってしまう。後はお察しの通り、バカにされて泣いて帰宅というオチ。
今思えばこんなことに引っかかる私も私である。
学校の授業では失敗を笑われた。小学四年生のころだったか、ことわざの例文を作りなさいという課題に対し「私はやっぱり花より団子!」と答えた。私の持っている辞書には「花より団子」はことわざの類に入っていたが、教師曰くそれは慣用句であり間違っているとのこと。それの何が面白かったのか、その日から複数人の男子は私が近くを通りかかるたびに「私はやっぱり花より団子!」とからかうようになった。
体育の着替えの時間に「絶対に秘密にするから、好きな子を教えてほしい」といわれ、「好きではないけど、気になっている子」と言って教えたら、その日のうちに学年中に知れ渡っていた。小学二年生のころの話だが、その噂は中学校を卒業するまで続くこととなる。
学級委員に誰もなりたがらないのでとりあえず引き受けようと立候補したが、推薦が多く多数決になった。それは伏せて行われ、私は自分自身に一票を入れた。だれも入れてくれないだろうとどこかで悟っていたからだ。予想通り私は自分自身が入れた一という事実が目の前の黒板に書かれていた。そこまではよかった。教師は私の名を呼び「立候補をしてくれた上に、自分に一票を入れるという勇気や自信は素晴らしいものです。みなさん、拍手をしましょう!」と言い放った。それは、私にとってただただ恥ずかしいだけの拷問であるにもかかわらず。
またある日は、女子トイレの個室で用を足していると「めっちゃ音が聞こえるね」「臭いするわぁ」と個室の外からクラスメイトの笑い声が聞こえた。もちろんただの冗談だったのだろうし、他にもトイレに入っている子はいたので私のことを言っているわけではないのだろうけど、当時小学二年生だった私にとってそれはトラウマ。それ以来、私はほとんどトイレを利用しなくなった。それは体に悪いと知っていながら、今でも変わらない。また、それに比例するかのように水も飲まなくなった。なので今でもたまに友人や恋人から心配される。
そのかわり、少々特徴的な子には好かれた。恋多き乙女ではあるが両親に甘やかされているせいかどこか自分に甘く努力をしようとしない子や、自分が気に入った人に好かれようと態度をころころと変化させ周囲の反感を買うような子、爬虫類大好きで誰にもわからないような爬虫類の物まねを披露し周りをドン引きさせる子、おそらく精神的な発達に障害を抱えている子などなど・・・。もちろん、みんなどこかしらいいところはあった。かわいい小物を見つけるのが得意だとか、私を見るとかわいい笑顔で駆け寄ってくるところだとか、面白い話をいっぱいしてくれるところだとか、優しいところだとか・・・。
でも、みんな自己主張が激しく、私の話をまともに取り合ってくれるような子は本当にいなかった。唯一、爬虫類好きな彼だけは話を聞いてくれたが、そんな彼も親の都合で転校してしまう。
学校ではもちろん、いじめについてというアンケートがあった。もちろん、私はいじめの現状に気が付いてほしく事細かに記載した。だがしかし、教師はその人たちを叱り私と対面させて形式だけの謝罪をさせた。それだけだ。根本的な解決は一切しない。しばらくは平穏な日常だが、またすぐにいじめは再発した。
教師は見る目がなかった。三者面談では私の親に向かって
「この子はクラスの輪を乱す子です」
などと抜かしたらしい。
ことの真相はこうである。
社会科見学で学校付近の工場を見学に行く途中、A子ちゃんが当初流行っていた曲を歌いだしクラスメイト達もそれにつられて歌いだした。「一緒に歌おう」と誘われるも流行に疎い私はその曲を知らない。クラスメイトは私をバカにするようにわざとその曲を繰り返して歌い続ける。当然のごとく私はすねるが、みんなが楽しそうに歌っている姿がうらやましくも思え、私は別の曲を口ずさんだ。
それが教師の目にはそう映ったらしい。
そんな中でも、私はいじめを理由に学校を休んだことは一度もなかった。親には「そんなにつらいなら、休んじゃえばいいのに」と言われていたにも関わらず。理由はいろいろあった。もともと苦手な勉強に対し学校を休むことによってさらに後れを取ることが怖かったこと。図書室の本の続きが読みたかったこと。何より、いじめを理由に休んだらあいつらに負ける気がしたこと。
私はとんでもないくらい負けず嫌いで意地っ張りでまじめだったのだ。
そんな私の支えは、本と図書室と習い事と家族。
本は私を傷つけずに新鮮な世界をくれた。
図書室は私の唯一の安全地帯だった。
週に一度の習い事では幼稚園時代の友達といっしょにふざけあえた。
家族はちょっと特殊だが、結果的には私のそばにいてくれた。
きっと私は運がよかったのだ。これがどれか一つでも欠けていたら、私は今の私ではなかった。きっと、もっと精神的に病んでいる人間になっていたであろう。最悪、自死していたかもしれない。
これが、小学五年生になるころ徐々に転機が訪れ始めた。先ほどの話に出てきたCちゃんにとある漫画を紹介したところ彼女はその漫画にはまったのだ。その時から二人で下校することが増えた。そして、彼女は漫画家を私は小説家を夢見てまねごとをするようになったのだ。これがいわゆる、黒歴史時代の始まりである。
ちょうどその年、図書室にあるシリーズ本が並べられた。その本は、とある高校生がちょっと特殊なアパートで繰り広げる成長と青春の物語。そこには、私の琴線に触れる言葉がたくさんちりばめられていた。たった全十一巻の物語は、私の原点であるといっても過言ではない。その時から、私はからかわれても平気になり、むしろ、うまい対処法を見つけた。
何を言われても、笑顔とお礼と誉め言葉で返すのだ。
「デブ」
「指摘してくれてありがとう。そういう君はスリムだよね、うらやましいな」
こんな調子で、つかみどころのない不思議ちゃんを演じた。すると、次第にからかいの対象から外れていくようになった。
後に、とあるベストセラーとなった本の「嫌な人への対処法」として同じようなことが記載されていたことを知り、私は思わず大爆笑をしてしまった。当時小学生だった私ができていたのに、世の中の大人はこれができないのか、と。
そして、メンバーがほとんど変わることはなく中学生になった。
彼彼女らの中では未だに私を下に見るという考えが根っこにあるらしく、私は相も変わらず一人で行動することが多かった。特にさみしいと感じることはなく、むしろ小学校よりも広い図書室にウキウキして過ごしていた記憶しかない。
中学校では少子化のため選べる部活はほどんどなく、文化部は吹奏楽部の見であった。入部するつもりはなかったが、部活動紹介での初めの一音に衝撃を受けたのだ。私は、これが吹けるようになったら楽しいしかっこいいな。と思い、入部をした。
そこからは、部活三昧で吹奏楽部は万年銅賞(考え方的には参加賞)だったが、なんだかんだ理不尽なんかを乗り越えて後輩から尊敬される程度には成長できた・・・と思いたい。
体育祭では誰もやりたがらない応援団を引き受けたこともあった。そのほかにも、面倒なことは大体引き受けそのせいでスケジュールが大変なことになったことも。なんだかんだで楽しかったことのほうが多かったように思えるのは、クラスメイトに一切の関心が無くなったからだともいえる。
親戚の友達の妹の友達のいとこの兄のネッ友の親の親戚の養子の娘になついている馬に悪口を言われても、だれが傷つくだろうか。うるさいだけである。それぐらい関心が薄かった。
中学校の卒業式ほど清々しい気分になった日はない。私は、それはもう心の底から笑って卒業をした。
私は、九年間。九年間の戦いを、勝ち終えた。
そんないじめと戦い抜いた私だが、あえて言おう。いじめは時に人を強くする・・・と。
これを頭ごなしに否定するような大人は、ただの子供大人である。私はそんな人間にはなりたくない。だからこうして、一つの物語として書き留めたのだ。私が間違いなく戦い抜いたことを。そしてこれは、過去の私からのメッセージ。
永遠の友へ。
大丈夫なんて言わない。頑張れなんて言わない。でも、君は自分が思っているよりも強いから、きっとなんとかなる。転んで落ち込んで下を向いたらどこかに花が。涙を流し空を仰げばいつかは星が。いっぱい泣いて、怒って、笑って、食べて寝て、さあ、君はもう歩けるよ。
過去の私より。
この物語が本当にあったことなのかどうかは、
読み手である皆さんのご想像にお任せいたします。