殺人鬼はヤンデレに遭遇した。
気分の高揚を押さえつけて、ひと息ついた。まず片付けをして、それから。気分も良く振り返ったところで、コツ、と地面を叩く靴音がする。ぼくは、汚れた安物のナイフを拾った。
「……うん、やれる」
おまえはね、これを見た人を殺さないといけない。ご主人さまは、そう教えてくださった。人気のない行き止まりだから、来る方は決まっている。
そうして現れた人影に、目を丸くする。それは美しい少女の形をしていて、この光景に叫び声ひとつ上げず、むしろ口元には笑みさえ浮かべている。
「そこの貴女、今夜は冷えるわね。でも、まさか直に出くわすとは。計算違いだけれど、ともかく、——ご機嫌好う、殺人鬼さん」
少女は、固まっていたぼくからナイフを取り上げ、軽く礼をする。つまみ上げるのに作法などあったかと思わせるくらい、美しい所作。いっそ妖艶とまで言えるような一連の動作に、つい生唾を呑み込む。
それもつかの間、素っ頓狂な声で彼女を問い詰める声が出た。
「なに、ぼくを捕まえにでも来たの?」
「んなわけないじゃない」
と次を言わず物言わぬ死体を指差すので、むうと唸る。人を指差してはいけないって知らないのか。
「だったら彼を殺す前に捕まえているわよ」
「それもそうか。でも、そうじゃない。誰なのさ」
彼女はキャップのつばを上げて、にぃっと笑った。
「俗にいう、追っかけ、ストーカー、あたりかしら」
「はあ? ……っ」
悪戯に笑うその目は、蜂蜜色にきらきらと輝いていて、すぐ魅了された。
しかし、犬歯がなんだか妙に鋭いのが印象的だ。これは気にならない。なぜって、彼女の目は美しい。惹かれる理由はそれで十分。
「きれいだね」
その蜂蜜色は、コレクションになかった。
ぼくは『その目をちょうだい』なんて口説き文句を言おうとした気になっていたが、いつの間にか予備のナイフが彼女の頭を突き刺そうとしていて、挙句には宙に飛ばされていた。生来付きまとう悪癖だ。
「すごいや、どうやったの?」
「刃先同士をぴったり合わせて絡め取るのよ」
「ふうん、大変そう。追っかけとかストーカーって、どういうこと?」
「殺されたくて来たわけじゃないのよ。連続殺人鬼が出るというから、それを見に来たの」
指先がするりと交わって、手袋越しに人懐こくすり合わされる。ぼくはなんだか拍子抜けして、ついでに妙なものを見てしまったと、後悔を覚えた。
「へんなひと」
彼女のいう通り、殺人鬼には違いないのだ。それも明白な訳(例えば復讐心だったり、苛立ちのような類の)がない、ようするに快楽を求めた殺しである。
通報されたら、コレクションを無くしてしまう。もう、殺せなくなるかも。
「でもね、もう遅いし館に帰るつもりなんだ」
「なら、付いて行くわよ。料理なら上手なの」
「え、通報、しないの……?」
「して欲しかったの? 言ったじゃない、見に来ただけよ」
それなら、殺さなくてもいっか。ぼくは血の海に沈んだ死体から、片方の目玉を拝借した。夜空みたいな深い碧眼の彼は、ホルマリン漬けになる予定である。
大きめのスナップ式遠沈管に入った保存液に、ぱちゃんと目玉が落ちた。
◆
「いつ見ても大きいわよね、この館。……お化け屋敷とか噂されているけれど」
蜂蜜色の目をした彼女は笑えない冗談を言った。
「そろそろ貴女のお父さんにご挨拶をしにいかなきゃ、結婚の」
ぼくは頭がおかしいかもしれないが、彼女はそれを上回っていると見える。そもそもぼくはご主人さまに拾われただけで、お父さんなんていないんだし。
「なんでぼくの館を知ってるのさ。というか今、いつ見てもって言った?」
「さあね、言ったかもしれないわ」
白々しいにもほどがある。ぼくは玄関の鍵を開けると、手招きする。
「お邪魔しまーす」
「こっちはご飯を食べるとこ。……こっちが、ぼくのコレクションルーム。触ったらダメだからね、みるだけだよ?」
コレクションルームには、テーブルと椅子に、鍵のかかった薬品棚だけがおいてある。ぼくはちょうど通風孔から風が吹き込む位置にある、テーブルに向かった。この薬品棚もこれから碧眼を迎えて、すこし賑やかになるんだ。
彼女はまじまじと瓶を眺めて呟く。
「これって公表されてる人数より多いわね、知っている?」
「しってる、新聞でみた」
困惑した表情で彼女は首を傾げる。円らな瞳が綺麗で、取り出したくなる。
「今どき新聞とか見る?」
彼女は乱雑に積まれた号外を拾い上げて、一枚ずつ目を通していく。
号外の刷られた日付はばらばらで、古いものでは数十年前のものさえある。
「新聞はわからないから、外で配ってる号外をもらうだけだよ」
テーブルには、手入れの行き届いた写真立てがいくつか置いてある。半分はご主人さまと友人たちの写真が収まっている。
彼女は一枚に興味を示し、思い返すように手に取って見つめていた。
「あのときはまだまだ可愛らしかったわね、ヴィンセント」
残念なことに、ご主人さまの名前を知らない。もしかしたら彼女はご主人さまの古い知り合いだったりするんだろうか。だとしたら、殺しかけるだなんて、申し訳ないことをしてしまった、と冷たい汗が伝う。
「……気まずいな」
「あら、私は楽しんでるわよ」
「そういうことじゃ、ない」
拗ねたようにテーブルへ向き直ると、ぼくは眼球の汚れを取り除いて、ホルマリンで固定を始める。やさしい気分になれる作業だけれど、彼女がじいと眺めているあたり、眠れそうにない。
「この数あると、展覧会でも開けそうね」
「ダメ、ぜんぶぼくの。こんなふうに見せたのも、君だけなんだから」
「私だけ?」
蜂蜜色の目を大きく見開いて、彼女はぼくを抱きしめた。成人していないぼくより若い見た目なのに、なぜか胸は大きい。ううっ、このままだと窒息死する。
「ふふふっ、ふたりだけの秘密ね!」
何かとてつもない誤解を招いたように思うが、誤魔化すのも面倒だった。
「気が狂ってるんじゃないのかな、君。……そういえば、お名前は?」
「シルヴィアよ。あなたは?」
ぼくは数分悩んだ。このところ、名前で呼ばれた試しがなかったから。
「うんと、猫みたいな。……そう、キティ」
「子猫? それは、愛称じゃなくて?」
「知らないよ。ご主人さまにはそう呼ばれてた」
ご主人さまは、ぼくに教え、与えてくれた。殺しを、仕事を、生き抜くためのノウハウを。彼がキティと呼ぶときは甘やかしてくれるけれど、おまえ、と呼ぶときには先生に変わる。
「キティと呼ぶときは、きまって撫でてくれるんだよ」
シルヴィアさんとは、独り言のようであったが話ができた。
ぼくは片方の目が欠落している。ご主人さまはよく『キティの目はとても美しいから、取っておきたいんだ』と言うので、ひとつあげた、とか。彼女は楽しそうに目を細めて頷くだけ。子供っぽくない仕草だけど、見覚えはある。
「似てるね、シルヴィア。ご主人さまがぼくと目があうと、嬉しそうに目を細めてくれるのが、好きだったんだ」
それから眼帯か義眼をつけて生活している。視界が狭いけれど、もう慣れた。
作った中では最古参のホルマリン標本瓶。ぼくのがひとつ、ご主人さまのがふたつ、入っているのを手に取って、見せた。
「この藍色はぼくので、こっちは——」
「——ええ、彼がお父さんね。挨拶してきてもいい?」
殺す気だったのに、シルヴィアは入館して長いぼく並みに溶け込んでいる。
でもまあ、ご主人さまをお父さんと呼ばれるのは、悪い気がしなかった。
「いいよ。ご主人さまは地下で眠ってる」
「ええ、行ってくるわ。ありがとうね、キティ」
彼女は眩しい笑顔を振りまいて、コレクションルームを後にした。
「あれ、地下がどこにあるか、教えたっけ?」
キティは首を傾げた。
◆
地下室へ続くステップを、一段ずつ下る。外より暗いけれど、ランタンは必要ない。この目を使えばはっきり明るく見えるから。
彼女は誤解していたけれど、シルヴィアは好奇心が高じたのではない。キティだから、打算も込みで会いに来たのだ、わざわざ。
「こんばんは、ミスター・ヴィンセント。カーテシーはいらないわね」
目玉以外のエンバーミングは教えなかったのか、両目のくり抜かれたミイラが眠っている。上等な洋服を着せられ、清められている彼。
「会わない間に老け込んだのね、ヴィンセント。私に取っては一も十もそう違わないけれど」
キティは殺人鬼に成長したけれど、シルヴィアは同じ鬼でも吸血鬼だった。
歳を取らないシルヴィアが彼に出会ったのは、今から数十年前。
「ねえ、ヴィンセントに聞きたいことがあるの」
洗い立てのシーツが張られたベッドのへりに座り、彼を見下ろした。
「キティって、あのとき拾った仔猫なのよね?」
死体に問答をするほど狂っちゃいない。当然だが、死体から答えは返って来ない。でもきっと、その通りなのだろう。
◇
最後に彼と会ったのは、五年か十年か前のこと。彼は捨て子を拾ってきた。
「なあシル、この子に名前を付けてくれないか?」
彼が人を殺す現場に出くわしたとき、彼の連れている小さな女の子がおずおずと顔を出した。じっと見つめると、怯えたように彼の背中へと逃げ込む。荒んだものが垣間見える深緑の目に、心を奪われた。もう片方の目には新品の眼帯をつけている。
「仔猫みたいね、可愛らしい」
彼女に見惚れてしまっていた。彼がもし育てきれないのなら、貰いたいくらいには。
ヴィンセントは勘がよく、そんな私の思いを察していた。
「いくらシルでもやらん。私の仔だからな」
こいつは親馬鹿だ、とすぐに思った。彼は私に弱いのに、拗ねたように口を尖らせても、断固として譲らない。しきりに撫で回され、菓子を積まれただけだ。
まあ、そんな所がヴィンセントらしいんだけれど。
「ヴィンセント、これは貴方の飼い猫なんでしょう? 名前は飼い主が付けなさい。拾ったなら、責任をもって育てること」
彼らは少し会わないだけで、すぐに死んでしまう。もし彼がこの仔猫を遺して逝ってしまったならば、私が新たな主人になると取り決めを交わしたのだ。
◇
「ヴィンセント、きちんと育てたのね。いい子だわ。……学は、なっていないみたいだけど」
シルヴィアは彼にローダンセの花を手向けた。過去にヴィンセントから贈られたこともある花言葉は、終わりのない友情、だったかな。
年月を経てなお友情を育むことのできる、希少な存在だった。
「また来るわ。次はキティと私の結婚生活を手土産にするから、楽しみにしていてね」
オッドアイのキティ。ヴィンセントの飼い猫だったこども。
「なんとしてでもおとしてやりましょう」
人を殺せるよう成長した彼女は目玉を欲しがる。その欲求は、血液を求めるシルヴィアと利益が相反しないのだ。正常に育てば飼いならすつもりだったが、今の彼女は恋人にこそふさわしい。
からかいついでにキティの血を味見しても、怒られやしないから。
「ふ、ふふ」
涎が溢れかける。シルヴィアは慌ててハンカチーフで口元を拭った。
「いけないいけない、私としたことが」
下心全開でにじり寄ると不審者扱いされそうだ。すでに不審者扱いされていることとは知らず、シルヴィアはていねいに笑みを作った。
「拾ってあげるわ、仔猫ちゃん!」
結婚式はどう挙げよう。キティにはドレスが似合いそうだ。
亡きヴィンセントに『嫁にはやらんぞ』と釘を刺されたような気がした。