1-18 ……こんばんにゃ?
戻って直ぐに、依頼をした件を報告。その後は書類仕事に忙殺されたかと思うと、ちょっとした民間のトラブルに呼ばれ、仲裁の仕事もした。
気がつけば窓の外からは太陽が消え、微細な月明かりが街を照らしていた。
そんな忙しい状況であっても、何とかテロペアさんに頼んだ夕食が来る前に書類を終えられたのは、協力してくれる上司や同僚や部下、それからリリウムさんと、カサブランカ様の従者の片割れのおかげだろう。今日もリリウムさんはふらふらとやってきて、ネモフィラ様を邪魔にならない程度に使い、それを追うようにしてやってきたカサブランカ様の従者――今日は双子の兄であるウィリアム・ヴニヴェルズムさんも手伝ってくれたのだ。
普通課の方の仕事は良いのか、と一応尋ねたが、「大丈夫大丈夫。このくらい余裕だよ」「ブラン様の能力もさることながら、自分達の能力も高いんで」と、自慢なんだか気遣い何だか判断に困る回答を貰ったので、ありがたく手伝ってもらった。
バンクシアさんからも、手伝いを受ける許可は貰っているし。
帰り支度を整えて、寮へと向かっていると、丁度いいタイミングでテロペアさんと合流出来た。
舌っ足らず……という設定の口調で「ジシュしゃん、こんばんは」と挨拶をされ、「こんばんは」と返す。その後、寮の入り口で、中にテロペアさんが入れる日付と時間帯を設定する手続きをして、そのままナスタチウムさんの部屋へと向かう。
「この時間までお仕事らったにょ?」
「はい」
「おちゅかれしゃま」
「こちらこそ、この時間までお付き合い頂き、ありがとうございます」
お願いしておいてなんだが、無理をさせてしまってはいないだろうか。
「いいにょいいにょ。家の店、この時間はまだお仕事の時間らし、たまにジジィと離れないとイラっとするってゆーか」
「イラッと」
「にゃい? ジジィとか……父しゃんにイラっとすゆ事」
祖父……は、父方も母方もあまり関わりが無いので除外するとして、父にイラッとする事、か。俺の父はバンクシアさんに当たるわけだが、確かに苛立つことはある。
が、それは父として苛立つのだろうか? それとも、上司として苛立つのだろうか?
どちらとも取れず、俺は閉口した。
「……ま、おれはたまにイラっとすゆから、ちょっとスッキリってゆーか」
「そう、ですか」
イラッとするのか。
俺が何とか相槌を打って少し。ナスタチウムさんの部屋の前にたどり着く。
ノックをしたが返事がないので、借りっぱなしになっている鍵で開けて入った。
「……こんばんは、ナスタチウムさん」
中では、ナスタチウムさんが半身を起こして視線を宙に漂わせていた。
「ジギタリス・ボルネフェルトさん、お疲れ様です」
俺に気が付くと、いつも通り長ったらしくフルネームで呼び、挨拶をしてくる。
「何をされているのでしょうか?」
「そろそろ来るであろう書類の内容の回答を考えていました」
えー……ぼーっとしながら脳内で仕事もするのか。俺なら、休んでいる時までそんな事を考えたくはないが。
「結果はどうでしたか?」
「そうですね。タイム・チェルハの案件がそろそろ片付くと思うので、もしも捕縛で済むのなら……」
「タイム・チェルハの件は片付きました。捕縛したようです。書類も終わっています」
「そうですか。お疲れ様です」
俺は端的に答えながらも、視線を彼のベッドサイドに移した。今朝飲ませた筈のスープは、未だに並々と注がれている。
どうやら俺が怖かったから一口だけ飲んだが、後は放置したらしい。傷つく。
「ところで、そちらの方は?」
俺が視線を移している内に、ナスタチウムさんはテロペアさんの存在に気が付いたようだ。
「こんばんにゃー。シュープの宅配れす」
「……こんばんにゃ?」
「こんばんは、です」
これ、絶対「こんばんにゃ」が何なのか理解していない反応だな。一応通訳しておく。
「……シュープ?」
「スープの事です」
どうやら「シュープ」も分からなかったらしい。一応通訳しておく。
「おれ、暫くここにシュープの宅配すゆにょ」
「すゆにょ?」
「するの、です」
「すゆにょ」も……通訳しておいた。
これで全てを理解し終えたらしいナスタチウムさんは、俺の方を見ると、こてっと首を傾げた。
「何故?」
「貴方が私の作ったスープを飲まないからです。逆に私が問いたいくらいですよ。何故飲まないのですか?」
「……な、なんとなく」
これが建前であるのは、更に小声で続いた「怖い……」により、明確になってしまった。傷つく。
「とりあえじゅー、保温容器に持ってきたやつ、飲む?」
「とりあえじゅー?」
「とりあえず、です」
一応通訳しておいた。テロペアさんの滑舌と、ナスタチウムさんの生真面目の相性は悪そうだ。
「すみません、では受け取って」
俺はテロペアさんから保温容器を入れたバッグを受け取った。
開ければ中には、深めのスープカップに蓋をしたような物が四つ程。このカップに蓋をしている物が携帯型の保温容器だ。
これの場合は、一定時間、中に入れた物の暖かさを保つことが出来る。容器にもよるが、冷やし続ける事も出来る。どちらも魔法の力が働いているのだ。
俺はその中から一つ取りだすと、ついでにナスタチウムさんの台所からスプーンを拝借してきた。
台所に用意していた軽食にも手がついていなかった。傷つく。
「ジシュしゃん、これ美味しいよー。家庭的って感じ」
拝借して戻ってくると、テロペアさんは、ベッドサイドに置いたまま殆ど飲まれる事の無かった俺の作ったスープを啜っていた。何故。
「えぇと、ありがとうございます」
「ねー、何でこれ、駄目だったにょ?」
「だったにょ?」
「だったの、です」
あぁ、この二人のやりとり、相性が悪い。俺は一応通訳しておいた。
というかそれ、さっき聞いたけど答えて貰えなかったやつ……。
「恐怖は味覚を消します」
「すみませんね、恐怖の対象がスープを差し出して」
「……あ、いえ……こ、怖くないこともない……事も無い……かも……」
どっちだ。俺はため息を飲み込んで、保温容器のふたを開けた。
スープは日替わりなのだが、今日のスープはクリーム系だ。野菜や出汁などの濃厚な香りが鼻孔を擽り、うっかり俺の腹の虫が鳴きそうで困る。俺も夕食はまだ、なのだ。
「……では、夕食のスープを飲んで下さい。今回は、ヴァイスハイトというレストランの名物スープを注文して来ました」
「ヴァイスハイトのスープ」
ぴく、と、ナスタチウムさんが反応した。どうやらスープが美味しい噂くらいは知っていたようだ。あるいは、行った事があるのかもしれない。