九話
今夜は風がとても強い。クレアさんが作ってくれた寝間着は肌触りが良く、普段は夕食が終わるとぐっすりと朝まで眠ってしまうのに何故か目が覚めたままだった。
雲が物凄い速さで流れているのか、窓から入る月明かりが明滅を繰り返す。ガラスのガタガタと揺れる音が工房の中に響いていた。
怖い。人を相手にしている時とは違う怖さだ。
子供みたいだが、只の強風でもこの大きさだとひどく気に障る。ユアンに場所を移動してもらいたかったけれど、その前に扉が開けずユアンの部屋へ行くことも出来なかったので、私は布団にもぐりこむしかできなかった。
そのうち、風の音に混じって獣の咆哮のような音が聞こえてきた。遠吠えなんて優しいもんじゃない、低音で地響きを伴うような声が徐々に近づいてくる。のんびり寝ていられるような状態では無くなり、私は布団にくるまりながらガタガタ震えていた。
かちゃりと扉を開く音が聞こえユアンが明かりをつけながら工房に入ってくると、被っていた布団をバサッとあげて「ユアン!」と名前を呼んだ。
「ミコト、大丈夫か」
「ユアン、これは何の声ですか?」
「この時期になると冬眠を終えた魔物が目覚める。それを退治すれば安心して春を迎えることが出来るんだ」
この工房は町の中でも外れの方にあり、二時間も歩けば山道の入口へと着くそうだ。雪の解ける春先になると毎年いろいろな生き物が山から下りてくる。その中でも特に注意しなければいけない魔物が一匹。
ユアンや町にいる人は見たことが無いが、討伐した者の話によると白い毛の生えたドラゴンのような獣らしい。
ドラゴンは爬虫類のイメージの為いまいち具体的に想像できなかったが、強そうであることだけは確かだ。
「あの、逃げなくても?」
「大丈夫だ。武器を造った親方の腕は確かだし、戦っている者たちも私と違ってかなり強い」
「知っている方たちですか」
「……ああ」
ユアンは武家の生まれを気にしているのか暗い顔をしている。戦う事に向かない自分は足手まといになると後方支援を買って出たそうだ。万が一倒し損ねた場合の為に罠を仕掛けたり、けが人の治療に当たったり。
魔法が使えるものの、武器を持って動くことに長けていないので戦力にはならないと自嘲した。生まれを知っているのはエドワードだけで戦わないユアンを責める人は誰もいないけれど、それでも歯がゆい思いをしてしまうのだろう。
ぐるおおぉぉぉんと、また、咆哮が聞こえた。近くなって床が揺れた気もする。
物語の主人公が街の近くで戦う場面が小説や漫画、アニメなどでよくあるけれど、町の人たちはこんなに怖い思いをしていたのか。何だか足が震えてきた。
ユアンは作業台に置いてあった私の寝床を別の場所へと移動する。
「苦戦しているのか、やけに近いな」
「大丈夫でしょうか」
「何かあればうちに逃げ込むことになっている。騒がしくなるかもしれないから覚悟していてくれ。少し、様子を見てくる」
「気を付けて」
「ああ、ミコトはここで―――」
どぉんと言う地響きがユアンの言葉をかき消した。慌ててユアンが扉の方へと向かう。残された私は一人でじっと待つことしかできなかった。
こういう状態は時間が本当に長く感じられる。魔物が倒されたのか、それとも町へ入り込んでしまったのか。戦っている人達は、ユアンは無事なのか。人並みの大きさだったらこっそりと覗きに行くことも出来るのに、この体ではそれすらできない。
私、だんだん変わってきている?何もできることが無いなら仕方がないと前世なら考えていたのに、今はそれでも何かしたいと考えている。人に関わろうとするのはいらぬお節介かもしれないとか、私ごときがでしゃばって悪化させるのは目に見えているとか。何やかやで言い訳をして行動を起こすことは絶対にしなかったのに。
まあ、結局何もできなくて作業台の上をうろうろしているだけなんだけど。
ドアが乱暴に開かれてけが人が運び込まれた時には、作業台の隅の方で少しだけうつらうつらしていた。ユアンに先導された数人の男たちが、けが人の銀の鎧を外しながら作業台の上に寝かせる。息をするのも苦しそうで肩が上下しているそのけが人は、どうやらエドワードのようだった。
魔物がどうなったのか聞く暇もないほど緊迫していた。私のすぐ横にはくせのある金髪。耳に向かって「エドワード……」と呼びかけてみるが反応が無い。
「手持ちの回復薬も効かなかった。もっと上級なものをっ」
「回復魔法でも傷口をふさぐことは出来ないんだ。放っておくと広がっていく変な傷口で……」
「縫合も無理か」
一人冷静に見えるユアンが準備していたポーションを飲ませ、お腹にあるらしい傷口にも振り掛ける。作業台の隅にいる私からは見えない。部屋の中に充満する血の匂いが酷く懐かしいものに思えた。
優しい香り。煩わしい事の全てを放り出して眠りにつくことのできる誘惑。いつかの人生では出血多量で死んだのかな。
ユアンたちの声が遠くに聞こえる。必死な声は決して小さなものではないのに、耳がおかしくなってしまったのかぼんやりとしか聞こえなかった。
「おかしい、なぜ効かない。毒か?」
「魔力的なものだと思う。呪いか何か―――最後の一撃が凄まじかったから」
そう言った男が翳す手のひらからは、光が絶えずエドワードの体へ発せられる。淡い緑色の光。魔法らしい魔法を初めて見た。ずっと掛け続けているのか男の顔には疲労が滲んでいる。
けれど私は、そんなものよりもユアンたちの頭上に居る者を凝視していた。
―――死神。
フードをかぶった髑髏が巨大な鎌を持って浮遊していると言うのに、ユアンたちは何も言わない。気づいていないみたいにエドワードの方しか見ない。
続けてユアンも魔法を掛け始めるが死神は立ち去らず、とどまり続けている。
「かはっ、はぁ……はぁ……」
エドワードの口元から赤い筋が流れているのがここからでもわかる。息は笛が鳴るような音に変わった。ユアンが何度も名前を呼んで、意識を引き留めている。
今以上の手の施しようがないのか、だんだんと涙声になっていくユアン。
「おいっしっかりしろっ。まだ恩を何にも返していないんだ、死ぬな」
無情にも、胸の上下がほとんどなくなって呼吸が小さくなっていく。死神が鎌を振り下ろそうとするのを見て、私は慌ててエドワードの体によじ登った。
何が出来るわけでもない、でもまだこれから仲良くなろうとしていた人を、ユアンの大事な恩人を連れて行かせるわけにはいかなかった。
前世で自殺した私が言えることではないかもしれないけれど、そんなに簡単に死なせるなんて嫌だ。
傷口を踏まない様にして、エドワードの胸の当たりで死神の鎌からかばう様に両手を広げて立ちふさがる。
「あっちへ行きなさい、死神!」
「ミコト?」
人前でこんなに大きな声を出して叫ぶなんて、しかもみんなには見えていない様だから何やっているか分からないだろう。恥ずかしくて全身の血が沸騰しそうだ。ユアンたちもきょとんとした目で見ている。
それでも、多分私にできるのは死神に呼びかける事だけだった。魔法も使えない、回復薬も使えないこの小さな体では威嚇するのが精一杯だ。
睨みつける目は滲んできた。足元はがくがくと震えている。辺りに満ちる緑色の光はおそらくユアンたちの魔法の光だろう。
自分が死ぬことは怖くない。代わりに連れて行かれるならそれでも良い。
「ユアンが悲しむのは嫌だ。だから、どこかへ行きなさい」
じっと窪んだ眼で私を見ていた死神はやがて、ふっと姿をかき消した。
……あれ、これで終わり?
拍子抜けした私が虚空を見つめていると、いきなりエドワードが呼吸を始める。胸が上下に動き私の足場が悪くなって、コロコロと転がってしまった。元の位置、エドワードの頭の横で止まる。
「傷口が塞がっている。ミコト、いったい何をした?」
「えっと、あそこにいた死神に話しかけていただけです」
「そうじゃない。全身が光っていただろう……死神?」
「――――は?」
お互いに顔を見合わせて意思疎通を図っている。私は変なことを言っていると自覚しているから落ち込みはしないけど、何それいつの間に発光物体になっていたの?
ユアンと一緒に自分が認識していなかったことに考えを向けていたが、大勢にみられることに気づきわたわたと慌てて隠れる場所を探す。無理ムリむり。興味津々な視線が向けられていることに耐えられない。寝ているエドワードの首元にしゃがみ込む。
その場にいたうちの一人がユアンに話しかけるのが聞こえる。
「錬金術師の工房にいる小人なんて初めて見たが、他の小人とは違うのか」
「あ、ああ。本人も生まれたばかりでどんなことが出来るのか分かっていないみたいだから一緒に探っているんだ。それよりエドワードをどうするかだが」
「あ、俺なら大丈夫。歩いて帰るよ」
「そうか―――はあっ?」
驚くユアン第二弾。エドワードがすくっと起き上がって作業台から降りようとしている。血まみれで。
隠れ場所にしていた私は一人作業台の上に取り残された。こ、心の安定がっ。
「大丈夫なのか」
「ああ、鎧の修理をそのうち依頼するかもしれないが今日の所は帰るよ。できれば死にそうだった事は内緒にしておいてくれ」
エドワードがちらりと私を見る。釣られたのかその場にいる全員の視線も集中した。もう、いやだ。ちょっと涙目になってきた。
「小人が直にけがを治すなど聞いた事が無いからな。実際に見た俺でも信じられん。他に漏らさないよう、ユアンも気を付けろ」
治癒魔法を使っていた人が頷いた。あれ、大事になりそうな予感?人見知りな事も忘れてその場にいる面々を見渡す。けれど、それから誰一人言葉を発することは無く。
ため息をつきながら、皆はそのままやれやれと言った感じで帰って行った。