第一話 邂逅
6月の最後の週、気持ちよく晴れたある日の事だった。僕は久しぶりに一人で公園を散歩していた。
長かった梅雨もようやく空け、そろそろ始まる本格的な夏に向けて、日差しは勢いを増し始める、今はちょうどそんな季節だった。
公園の新緑は目に眩しく、ふと上空を見上げれば、雲一つない青空の真ん中から、初夏の日がガンガンと照り付りつけていた。
僕はいつものお気に入りベンチに腰掛けると、うーーーーーんと思いっきり背を伸ばした。こうやって雲一つない空を眺めていると、昔々に空を飛んだ日々の事を思い出す。
そう、僕は今まで誰にも言ったことは無いが、空を飛んだことが有るのだ。しかも飛行機やヘリコブターでではない。生身のまま自由に空を飛んだのだ。
えっ、知りたい??
じゃあ、これからその話をしようかと思う。
・
・
・
時は今から20年近く遡り、僕が高校一年生の話。季節はちょうど今と同じく、六月の終わり頃だった。当時、僕は悩んでいた。入学して三ヶ月近く経ったのにも関わらず、友人が一人も出来ないのだ。
数少ない中学時代の友人とは、クラスが離れてしまい。もともと口下手な僕は、誰にも話し掛けられないまま、すっかりクラスの中で萎縮してしまっていた。
六月の終わり、つまり入学して3ヶ月ほど経つと、さすがにクラスの中にも、ある程度のグループが出来てくる。僕はそのグループのどこにも属せずに、何時もポツンと一人で居た。
授業中や休み時間はまだ良い。困るのは昼休みだ。談笑するクラスメート達に混じって、独りぼっちで取るランチは寂しすぎる。なので、僕は放課後や休み時間を使って、校内で一人で昼食を取れる場所を探し続けた。甲斐あって、間もなくその場所は見つかった。そこは学校の屋上だった。
僕の学校の屋上は、落下防止用のフェンスに囲まれ、給水塔とベンチが有るだけの殺風景な場所だったが、通常は人っ子一人居ないため、一人になりたい僕には都合が良かった。
忘れもしない空を飛んだその日も、僕はいつもと同じように弁当片手に屋上に向かい、特等席であるフェンス際のベンチで、昼食を食べようとしていた。
ただ、重たい扉を開けた先、初夏の日差しが差し込む屋上には、その日に限って先客が居た。制服姿の一人の女子生徒が、屋上ドアとフェンスのちょうど間くらいに佇んでいたのだ。
彼女はこちらに背中を向けているせいで、どうやら僕の存在には気付いてない様だ。ここで他の人間に逢うのは初めてなので、何をしているのか非常に気になる。
そう思っている間に逆光にも目が慣れ、僕はとんでもない事に気がついた。なんと彼女の足は、屋上フロアから1mほど浮き上がってたのだ
「わっ!!」
「きゃっ!!」
どさっ
僕が驚いて声を上げると、女生徒はその1mを落下して尻餅をついた。結構強く尾てい骨を打ったらしく、しばし三角座りをして痛みに耐えているようだ。やがて彼女は尻餅を付いた後ろ手のまま、顔を仰け反らして僕の方を向いた。
「「なんだ・・・君か。」」
僕と彼女はほぼ同時に同じ言葉を呟いた。
「よっと」
彼女は反動をつけて起き上がると、僕の方を振り向いてスカートについた埃をパラパラと払った。知っている娘だった。同じクラスの月山奇。彼女とはちょっとした因縁がある。
「あの・・・月山さん。」
「なに??」
月山さんは女子にしてはかなり背が高く170cm近くある。当時の僕の身長は160cm弱だったので、自然、僕が見上げる形になる。
「今ちょっと宙に浮いてなかった。」
「えっ、えっ、き、気のせいじゃないの。」
月山さんは明らかに動揺している。
「いや、絶対に浮いていた。」
「た、確かに私はクラスで浮いてるけど・・」
今度は誤魔化そうとしている。
「そういう意味じゃない。
どうかマジメに答えてほしい。」
僕は彼女の目をまっすぐ見つめて問い詰めた。
170cm近い長身にスラリと伸びた手足、整った目鼻立ちと栗色のロングヘア。月山さんは間違いなく学年でNo1の美少女だった。ただ、ある理由から彼女はクラスの皆に敬遠されていた。
「確かにさっきは浮いてたわよ、私。」
「ど、どうやって浮いてたの!!」
ついに白状した彼女に、僕は逆に動揺した。
「私が浮く原理を説明しても、
君は絶対に納得してくれないと思うけど・・」
「そんなことない。
今から飛びますって言われても絶対に信じないけど、
初めに宙に浮いたって事実を目にしたからには、
君がどんな説明をしても信じるよ。」
「本当に??」
「本当に本当!!」
「誰にも言わない?」
月山さんはぐぐっと顔を寄せてくる。
「言わない!言わない!」
性格に難が有るとはいえ、近くでみる月山さんは、やっぱり綺麗な女の子だった。
「そういえば君には借りが1つ有ったわね。」
「うんうん!」
「よし、そこまで言われたら仕方ない
とりあえず私が飛べる理由を説明してみるね。」
月山さんは少し嬉しそうだった。なんだ・・・結局喋りたいんじゃないか。
「じゃあ、最初に質問。人間は生身で飛べる飛べない。」
「絶対に飛べない。地球には重力がある。」
「つまんない答え・・・・」
月山さんは心底つまらなさそうに答えた。
「でも事実だよ。」
「まあ確かに通常の状態なら、
重力が邪魔をして飛ぶことはできないわ。
でも知ってる?
人体を構成する分子は実は色んな方向に動いているの。」
「知ってる。」
分子の振動が完全に停止するのは絶対零度の時のみだが、それは文字通り絶対にありえない。
「じゃあ、もしその分子の振動が偶然まったく同じ方向、
例えば真上の方向に向いて動いたらどうなると思う?」
「理論上は飛べるな・・・」
「でしょ、さっき私が飛んでたのも、
実は同じ原理なのよ。」
月山さんはしれっと答えた。ただちょっと待てい!!
「あのね。人体を構成する分子の数って知ってる?
銀河系の星の数より遥かに多いんだよ。
仮にその8割が同時に上を向いて動く確率なんてのは、
信じられないほど低い。
それこそ奇跡でも起きないと無理だよ。」
「なら、その奇跡を起こせばいいのよ。」
「はい??」
僕は面食らった。物理の話がいきなりオカルト話になったからだ。
「いい、貴女が今ここにいるのは
貴方のお父さんの持っていた何100兆個の精子と、
お母さんが持っていた百万個の卵子の内の一つが
結びついた結果なの。それは一種の奇跡なの。」
「それとこれとは話が違・・・。」
「違わないでか、人はみんな生まれる時、
その奇跡を使って産まれてくるの。
ただ普通の人は産まれた瞬間に、
その奇跡を使い果たしてしまうわ。」
「じゃあ、君はたまたまその奇跡を
使い果たさずに生まれてきた訳なのか?」
バカバカしいがそういうことになる。
「少し違うわ。どうやら私はその奇跡を
集めることが出来る体質らしいの。」
奇跡を集める?なんか奇妙な響きだ。
「じゃあ、どうしてさっきは落っこちたの、
もし奇跡で浮いてたのなら、
僕が見たくらいで落っこちるのはおかしいと思うけど。」
「それは貴女が奇跡を信じてないからよ。」
「はい??」
なんか話がまたオカルト臭くなってきた。
「さっき言ったように、
空を飛ぶには体内の分子の動きを揃える必要があるの。
ただ分子は光が当たると動きが変わってしまう。」
「その理屈だと君は光が当たるところでは
飛べないことにならんか??」
「通常の自然光なら問題ないわ。
ただ人の目から出る光は駄目。
意思を持ってる人の目から出る光は、
せっかく揃った分子の動きを
めちゃくちゃに乱してしまうの。」
なるほど・・・さっき彼女が落下した原因が分かった。
彼女の話を聞いて僕はある法則を思い出した。人は観測しないと事実を確認できないが観測するという行為が事実そのものを変えてしまう。ハイゼンベルグの不確定性理論だ。
「じゃあ、結局僕の見てる前では飛べんのか。
それじゃあなんの意味も無いな。」
僕はいささか落胆して言った。
「飛べるわよ!!」
「本当に!!」
「ええ、私も。貴方もよ。」
「マジっすか!!」
「いい、今から飛んでみせるから、
私をよく見てて。
ただし先入観を持っちゃ駄目よ。
人が空を飛ぶのは実は当たり前の行為だと思い込むの。
先入観の無い人の目は自然光と何ら変わりがないの。」
「わかった。」
そういえば彼女はさっき確かに落下したが、
「僕が見た瞬間」に落下した訳では無い。
「僕が見て驚いた瞬間」に落下したのだ。
「飛んで当たり前。飛んで当たり前。」
僕は実際に呟きながら、彼女の去就に注目した。
彼女は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。その息はなぜかキラキラと輝いて、彼女の体にまとわりつき、そして…
浮いた!!
確かに彼女の足はフロアから50cmほど浮いていた。僕は心の動揺を隠して、なるべく平常心で彼女を見続ける。彼女はそのまま徐々に浮かび上がると、宙に寝そべって僕と顔の位置を合わせた。
「次は貴方の番ね、悪いけど少し目を閉じていてくれる。」
僕は彼女に言われるままに目を閉じた。すぐに両頬を彼女の手で挟まれる。そして・・・
chu!!
いきなり唇に柔らかいものが触れ、
一瞬後、それが彼女の唇だと気付く。
!?!?!?
パニックを起こしてる僕に、彼女は平然と話しかけてきた。
「いい、今貴方に奇跡を注いだわ。
これで理論上は貴方も飛ぶことが出来るはずよ。」
彼女は僕の肩をポンと押して、そのまま体を起こした。
理論そのものが激しく怪しいが、僕はとりあえず飛び方を聞いてみる事にした。
「どうすればいいの?」
「鳥でも風船でも何でもいい、
とにかく空に浮かぶ物を想像してみて。
そしてそれと自らを重ね合わせるの。」
僕は空を見上げてみた。晴天の6月の空に、少し気の早い入道雲がぽつりと一つ浮かんでいる。ああ、あの雲みたいに自由に空に浮かべたら。
「僕は雲だ、僕は雲だ・・・」
僕は声に出して念じてみた。もちろん飛べやしない。ただ、しばらく念じていると、ふっと体が軽くなり、やがて僕を見下ろしていたはずの彼女と、視線の位置が変わらなくなった。間違いない、今僕は宙に浮いているんだ。
「なっ、なんでだ??」
心の何処かにあった冷静な部分が、現状に突っ込みを入れた瞬間、折角の奇跡が逃げてしまったようで、僕は無様に落下して尻餅をついた。
「痛てっ!!」
「ははっ、ざまーみろだわ!!
奇跡を信じないからそうなるのよ。」
どうやらさっきの意趣返しのつもりらしい。
「しかし情けないわね。それだけの奇跡があれば、
私なら少なくとも30分は飛んでられるわよ。」
「しょうがないだろ、
鳥のヒナだって最初っから旨く飛べる訳じゃあない。」
「まあ、確かにね。でも慣れたらこんなことも出来るわよ。
エイ!!!」
月山さんは反動も無しに宙に舞い上がったかと思うと、そのまま屋上の隅に有る給水塔の上に着地した。
「うおーーーー、すげーーーー!!
すげーーーーぜ!!」
給水塔の上で仁王立ちする彼女は、正直アホみたいだったが、ここは気分よく煽てておこう。
「さらに・・・・・・トウ!!!!」
今度は給水塔から飛び上がったかと思うと、宙でクルクルと2、3回転し、僕のすぐそばに着地した。
「月山奇ただいま参上!!」
「うおーーーー、すげーーーー!!
すげーーーーぜ!!」
回転中にパンツが見えたことは黙っておこう。
「はっはっは、どうだ参ったか!!」
僕の適当な称賛に彼女は気を良くしたみたいだ。
よし今がチャンス!!
「先生、お願いします。
僕に空の飛び方を教えてください。」
僕は彼女の前で深々と頭を下げてお願いした。
「何々?君も空を飛びたいの」
「飛びたいです。先生!!」
だって自由に空を飛ぶことは、人類長年の夢ではないか!!
その時の僕には、全然楽しい事が無い学校生活が、空を飛べさえすれば一変する様な気がしたのだった。
「タダでは教えられないわね・・・」
「頑張って月謝は払います!!」
「よし、じゃあ今日から一週間、
月山奇のスパルタ飛行講座
『あなたは空もとべるはず』を開催するわ。」
「よっしゃーー!!」
僕は文字通り飛び上がらんばかりに喜んだ。というかこの講座を終えると、本当に飛ぶ事が出来るのだ。
「で、費用は如何ほどで・・・」
僕は手もみして彼女に擦り寄った。
「スイス銀行の例の口座に100億円」
って、あんたはゴルゴか!!
「すみません、一介の高校生には無理です。」
「じゃあ、フルーツ牛乳で良いわ。今日の放課後、
学食で売ってるフルーツ牛乳を2本買ってココに来て。」
「解りました!!」
値切って良かった。100億円が160円になった。こうして僕は月山奇の飛行講座『あなたは空もとべるはず』を受講することになったのだった。
つづく