想い影
人々を、空に昇った太陽が一日で一番高い場所からのぞき込む。この近辺では大きな方に入る町は、昼になりさらに賑わっていた。
パン屋の軒先から香る焼きたてのパンにつられて、腹を空かせた人々が足を止める。日に焼けた健康そうな肌の娘が、開け放たれた窓越しに香ばしく焼けたパンをかざす。それが合図のように一人、また一人と店に客が入って行った。とたんに店は人でいっぱいになり、焼きたてのパンを手にした笑顔で溢れる。
そんな活気溢れる町から少し離れた病院の庭、大きく葉を生い茂らせた木の根元に一人シシィはいた。シシィの他に患者の姿は見えず、病棟の真っ白い壁が全てを拒んでいるようだった。
柔らかな日の光さえ避けるように、淡い黄色の寝巻きの上から白い上着を羽織っている。肌は白く、服の裾からは細い手足がのぞく。まだ十代も半ば程に見えるが、その瞳は年に似合わぬ重みを感じさせ暗い。黒く少しつやを失った髪はくしを通しただけで、年頃の少女に見られる着飾った様子はなかった。
「私はいつ、ここから出られるのかしら」
やけにきれいな白い壁が嫌で、病室を出てはよくこの庭で一日を過ごしている。今日もまた一人、庭に出てぼんやりと過ごしていた。
髪と同色の瞳で、地面に咲いた花に目をやる。雑草であろう花は、シシィの影になっていたが白く輝いて見えた。
「変わらない日常が一番だなんて、本当にばかばかしい」
いつだか看護婦が話していた言葉を思い出し、嫌悪するように吐き出す。変わらないことを良しとするなら、ここから出れないことを受け入れるのと同義だ。
「誰かが変えてくれたら。……そんなの調子がよすぎるわよね」
心に浮かんだ小さな期待を、首を振ってすぐに打ち消す。他人にすがるなど、普段のシシィならしないことだ。すがったところで、病気がよくなるわけではない。それを嫌と言うほどシシィは小さな体で体感していた。今日は頭の中に異物があるように思考が乱れる。
気を紛らわすように視線を上に向けた。空では鳥たちががさえずり、舞い飛び、今を楽しんでいる。ぼんやりとその様を眺めていると、ふいに草を踏む音が近づく。音は一定のリズムで続き、シシィの前で止んだ。
「こんにちは」
聞きなれない落ち着いた少年の声がして、シシィは音のする方を見る。そこには、焦げ茶色の髪をした、優しく微笑む少年がいた。シシィよりはるかに高い体を、視線を合わすように屈める。
少年は白いシャツに髪と同色のパンツ姿で、こざっぱりとした印象を受けた。何が楽しいのか表情は笑顔のままだ。
突然の見知らぬ少年の来訪に驚くことなく、シシィは冷たい黒の瞳を向ける。
「君、よくこの場所にいるよね? 患者さん?」
「そうだけど」
シシィは、二つの問いに一つの言葉で答える。シシィが他人に興味を持つことは、この病院に来てからほとんどなかったので、それはごく自然な対応だった。
そんなシシィの返答に、気を悪くした様子もなく少年は続ける。
「僕はノイ。町の食料品店で働いているんだ。食材の配達に来る度、君のことが気になってて」
ノイは目を細め子供のように笑う。シシィよりいくつか年上だろうが、笑うとぐっと幼く見えた。
そんなノイとは対照的に、シシィは無表情を貫く。長く一人で過ごしてきたシシィは、こんな時どんな表情をすればいいのか忘れかけていた。だから、ノイの意図も掴めず不信感を強める。
「君の名前を教えてくれないかな?」
「何で?」
冷たく突き放すようなシシィに怯むことなく、ノイは言葉を続ける。
「友達になりたいから。名前が分からないと、何て呼べばいいか困るだろ?」
意外な返答に、シシィは驚いて言葉をなくす。友達になりたい、本気で言っているのだろうか。瞬時にそんな考えが過ぎる。しかし、真っ直ぐな目を向けてくるノイが、嘘を吐いているようには見えなかった。
「嫌かな?」
「……シシィ」
シシィはそっぽを向いて小さく告げる。これ以上この目を見ていたら、心がのみ込まれてしまいそうで。だが得体の知れない感情は、不思議と嫌ではなかった。
「え?」
「だから名前。教えろって言ったのはそっちでしょ」
目を丸くして間抜けな声を発したノイに、出来るだけ素っ気なく告げる。緊張していたのだろう、心臓がうるさいほど脈打って、頭が急に軽くなって揺れているようだった。
ノイを受け入れた自分自身に驚いて、シシィは手を強く握る。感覚がおかしくなったと思ったが、手に食い込む爪の痛さは本物だった。痛みが現実を強く感じさせ、シシィは動揺する。
他人と関わりを持つことを避けるシシィが、初対面の人に心を開くのはいつぶりだろう。それに、こんなにも純粋な好意を向けられたのは久しぶりだった。
「よろしくね、シシィ」
「変わってるのね」
無邪気に喜ぶノイとは反対に、シシィは顔をしかめる。動揺を悟られたくなくて、少し突き放すような言い方になってしまった。
「そうかな?」
「ここに来てから、みんな私と話そうとしないわ」
シシィは悲しげに瞳を揺らすが、それは気がつけないほどの変化だった。
この病院に来てから、誰もがシシィに必要以上に関わろうとしない。看護婦も医師も話せる言葉が決まっているみたいに、いつも言うのは同じことだけ。
今日は天気がいい、安静に、そんな当たり障りのない会話。最初こそ寂しいと思ったが、今はそれが当たり前になっていた。
見舞いに来る者もここ数年いないだろう。だがら自分に関わろうとするノイの思いが、少し胸をうずかせた。
「みんな何て声をかけたらいいか分からないだけだよ。話せばきっとは仲良くなれる」
シシィの目をしっかりと見て話す様は、どこか心を落ち着かせた。根拠のない言葉だったが、シシィの胸に温かい感情をもたらす。それは、シシィが久しぶりに感じる嬉しいという気持ちだった。
シシィは、いつもは感じることのない感情がすすぐったくて身動ぎする。
「やっぱり、変わってる」
「そうかな?」
それ以上は相槌を打つだけだけだったが、心はどこか弾んでいた。
* * *
「シシィ、いい天気だね」
病院の庭木の根元、いつもの指定席に座っているシシィにノイは声をかける。あれからノイは、仕事の休憩時間に時たまシシィに会いに来るようになっていた。
いつもシシィは一人でいて、まるで捨てられた人形のように空っぽに見えた。だがどこか、不安定ながらも力強さを感じさせる。そんなアンバランスな印象がノイを惹きつけた。友達になって話がしたい、そう思うようになったのは自然だったのかもしれない。
だからシシィと話せた時は、とても嬉しかった。黒い瞳に少しだけ色が映ったようで。
この無愛想な友達と話す時間が、ノイの楽しみになっていた。シシィと会うようになってから数週間。最初はシシィの表情から感情を読み取ることが出来なかったが、最近では少し分かるようになっていた。
シシィの横に座ると、手に持っていた花を手渡す。
「はい、これ。今日は少し顔色がいいみたい」
シシィの顔を見て、ノイは子供のように笑う。シシィはそれには言葉を返さず、差し出された花を受け取った。黄色い花弁をつけた小さな花を顔に近づけ、その香りをかぐ。ほのかな甘い香りに、シシィはわずかに表情をほころばせた。
「いい香り。……ありがとう」
「どういたしまして」
シシィは花が好きなのか渡すと喜んでくれた。なので、会う時は必ず花を持っていくことにしている。
相変わらず、視線をあまり合わそうとしてくれないが、多分それは照れ隠しだろう。その証拠に、今も優し表情をしている。わずかな変化だが、それが分かる程度にはシシィと仲良くなれたと思っていいだろう。
「いい天気だね」
「そうね」
何も考えず、空を見上げる。同じ空は二度となく、毎回変わる空の表情を見つめるのは楽しい。それに、時折シシィが花を見つめて微笑むのが嬉しかった。
この感情が恋なのかと聞かれれば、ノイは首を横に振るだろう。好きだとか、嫌いだとかではく、ただシシィと友達になりたかった。恋と言うよりは、憧れの方がしっくりくる。細い体の内側に生への純粋な思いを持ったシシィは、誰よりも強くてもろい。そんなシシィの側にいたかった。
「ねえ、シシィ。君は、この先何をやりたい?」
ふと、視線を空に向けたまま聞く。シシィは考えているのかそうでないのか、黙って空を見たままだ。
「僕は、もっと勉強がしたいんだ。お金を貯めて、高等の勉強が受けれる学校に行きたい」
瞳に力を込めて、熱っぽくノイが語る。少し頬を染め、見えない未来を夢想する様は夢に溢れていた。十五歳まで町の学校で勉強したが、それ以上学ぶには高等の学校へ行かなくてはならない。高等の学校へ行く者は少なく、ノイも今の仕事に就いて二年ほど経つ。
「まだまだ、僕の知らないことはたくさんある。特にこの国の歴史は面白くて、知れば知るほど好奇心がかきたてられるんだ。もっと知りたいし、他の誰かに伝えていけたらな。それには頑張って働かないと。シシィは?」
「私は、町に行って買い物がしたい」
意外な返答に、ノイはそのまま聞き返す。
「買い物?」
「町に行って、何かすてきな物を探すの。ブローチなんていいかもしれない。そう、色は青がいいな」
「モチーフは?」
きれいな物が好きなのだなと思い聞けば、シシィは側らに置かれた花に目を移す。
「花がいい。青い花のブローチ。きっとお母さんに似合うわ」
そこで、シシィは悲しげに少し眉を下げた。そんな些細な変化を見抜いて、ノイは言葉を選んで尋ねる。
「お母さんとは、離れて暮らしてるの?」
「私がこの病院に来てからずっと。遠くの町に出稼ぎに行ってるわ」
細い体が一瞬震えた気がして、ノイは安心させるように優しく微笑む。少しでも元気付けてあげたかった。強がっていても、シシィはまだ少女なのだと改めて実感する。
「シシィのお母さんも、そんなすてきなブローチをもらったら喜ぶよ」
その表情を見て、シシィもぎこちなくだが頷く。
「うん」
「その時は、僕が町を案内してあげる。友人が働いているすてきな雑貨屋があるんだ」
「うん」
「楽しみだね」
「……うん」
友人と他愛もない話をしてこなかったせいか、照れくさいのか最後は小さく頷く。シシィの返答を聞いて、ノイは満足そうに顔をほころばせる。シシィと町で買い物が出来たら、とても楽しいだろう。シシィに見せたい物が、聞かせたい話がたくさんある。その時、シシィはどんな表情をするのだろうか。
「それじゃあ、僕は仕事に戻るね」
昼の休憩時間も、あと少しで終わってしまう。名残惜しいが仕事に戻らなくてはならない。
「またね」
その言葉には返事をせず、シシィは黄色い花を見つめていた。どうやら気に入ってくれたようだ。そのことを嬉しく思い、ノイは手を振ってその場を後にする。
しかしそんな他愛もない別れの後、ノイがシシィを見ることはなくなった。
* * *
ノイはその日も、町外れの病院の庭を訪れていた。手にはピンクの花弁をつけた花を持っている。空は今にも雨が降り出しそうな鈍色で、ノイの心をそのまま映したようだった。
シシィと会えなくなってから、半月が経った。重たい息を吐き、シシィの指定席へと向かう。
草を踏みしめる音だけが虚しく鳴り、心をさらに重くさせた。今日は鳥の鳴き声さえ聞こえない。そんな中、うつむいて歩いていたノイの視界の端に誰かの足が映り、勢いよく顔を上げた。
「シシィ……」
驚き、嬉しさ、そして動揺。様々な感情が溢れ、ノイは小さく呟く。
「何よ」
病院の庭にある大きな木の下、いつものように何食わぬ顔で座っているシシィが返す。
「もう会えないかと思った……」
「今日は何もないの?」
つんと言う様子は、紛れもなくいつものシシィだった。ノイは呆然とした後、慌てて手に持っていた花を差し出す。
「あ、これ」
ピンクの花弁をつけた花は、生き生きと甘い芳香をさせる。シシィは花に手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「いらない」
伸ばした手をだらんと下ろすと、シシィは不機嫌そうに言う。
「え? 何で?」
普段と違うシシィに聞けば、ふいっと顔を背けられる。
「いらないったら、いらないの。次はもっとましな物を持って来てよね」
頑なに拒否するシシィに、少し困ったように笑って見せる。
「じゃあ、シシィは何が好きなの?」
隣に腰かければ、シシィはそっぽを向いたまま黙り込む。
「何でもいいよ。そうだな、好きな食べ物は?」
「……チョコレート」
シシィがぽつりと答える。それを聞いたノイは優しく笑う。
「分かった。次は、チョコレートを持ってくるね」
その言葉にシシィは返事をせず、ただ頑なにノイと顔を合わせようとしなかった。拗ねているようにも、拒んでいるようにも取れるシシィの横顔をそっとうかがう。小さな鼻も、横に結ばれた口も、白い肌も、何もかも以前と変わらなかった。だが黒い瞳は、心なしか力をなくしたようにも見える。そのことが、ノイの胸を締め付けた。耐えられず、そっと名前を呼ぶ。
「シシィ……」
ノイの呼びかけに、シシィは少しだけ体を震わせた。安心させるように、ノイはもう一度名前を呼ぶ。
「シシィ。また会えてよかった」
ノイは持っていた花に目を落とす。
「これからも会えるよね?」
不安と、少しの期待を込めて聞く。その問いに、シシィの瞳が陰るのをノイは見た。心臓が激しく脈打つ音がうるさくて、シシィの言葉が聞こえないのではと心配になる。
しばらくの沈黙の後、シシィは大きく息を吐くと口を開いた。
「当たり前よ」
わずかに瞳に力が込められたが、その表情はどこか悲しげだった。
「よかった」
シシィとこうしてまた話せたことが何よりも嬉しかった。ノイは泣きたい感情を抑えるように無理やり笑う。それを見たシシィは不満気に眉を寄せた。
「何笑ってるのよ」
「嬉しいから」
「変なの」
「そうかもね」
手にしていた花を、シシィに分からないように握り締める。独りよがりな感情が、シシィの重荷になっているのではないか。そう思わずにはいられなかった。それでも、また会えてたことが、話せたことが、暗い気持ちから目を逸らせようとさせる。
ノイは深呼吸をして肩の力を抜く。鈍色の空を瞳に映すと、やがて涙のような雨が降ってくる。しばらく、シシィの横で雨が葉を打つ音を聞いていた。
* * *
お昼過ぎの病院の庭、シシィはいつもの指定席に座りながら重苦しいため息をつく。まずノイを見て一回、その手の中の物を見て一回。ゆっくりともったいつけた後、形のいい唇を開く。
「チョコレートなんて子供の食べ物じゃない」
耳に心地よい声音は、少し怒っているのか棘がある。眉間には、小さなしわが寄せられていた。
「この前はチョコレートがいいって言ってなかった?」
持ってきたチョコレートを差し出すことも出来ず、ノイは困ったように立ち尽くす。
「とにかく、別の物がいいの」
シシィは顔を背けると、それ以上口を開かなくなった。
「気に入らなかったなら仕方がないや。次はもっといい物を持ってくるよ」
ノイは眉を下げ、笑って見せる。次こそはシシィが喜ぶ物を持って来よう、心の中でそっと思う。
「ばか……」
苦しそうに声を絞って言われた言葉は、ノイに対してか自身に対してか。そんなシシィの呟きに気づくことなく、ノイは次は何を持って来ようかと考え込む。シシィの笑った顔が見たい。それが、ノイの原動力になっていた。
楽しそうに思案する横顔に、シシィは顔を歪めてうつむく。
「日差しが強くなってきたな」
今日は気持ちよく晴れ、午後になると気温も上がってきた。雨が降った翌日のなで湿気が多く、少し蒸し暑いくらいだ。そんな日でも、シシィは寝巻きの上からカーディガンを羽織っている。
「シシィ」
じんわりと額にかく汗を拭って、ノイは腕まくりをした。シシィは呼びかけには答えず無言を返す。その黒い瞳には、真っ青な空が映っている。
「僕には兄弟がいるんだ。末っ子だから甘えん坊だって、よく兄さんにからかわれたな」
懐かしむように、少し恥ずかしそうにノイが話す。シシィは聞いているのか、そうでないのか視線を空へ向けたままだった。
「姉さんは結婚して、なかなか会うことはないけれど。気立てのいい人で、僕にもとても優しくしてくれた。兄さんは、町の仕立て屋で働いているんだ。最近では、色々と仕事を任されるようになったって張り切ってたな」
ノイは楽しそうに話しを続ける。優しさを帯びた瞳は、楽しそうに輝く。
「母さんは勝気で、頑固なところは僕もそっくりだって言われる。そんな母さんを温厚な父さんが、いつも笑って見ているんだ」
視線を上げると、青々と茂った葉が目に映る。そこからこぼれ落ちる光に、ノイは目を細めた。
「シシィにも会わせたいな」
「無理よ。私はここから動けないもの」
「うん。それでも、もしも。もしもだけど、会ったらきっと仲良くなれてたと思うんだ」
視線をそらして硬い声で言うシシィに、ノイは少し笑って見せる。
「ノイ、もうここには……」
「僕はね、さっきも言ったけど頑固なんだ。だからシシィが会いに来るなって言っても、またこうやって君のところに来るから」
シシィの言葉を遮るようにして、ノイが口を開く。口調は優しいが、反論を許さない頑固さが見えた。考えを見透かされシシィが驚いたように顔を上げると、子供のように笑うノイと目が合った。
「勝手にすれば……」
根負けしたようなシシィの横顔を、ノイは満足そうに見つめた。
* * *
「いらっしゃいませ。ああ、ノイか」
「やあ、グラウ」
木製の飾り彫りがされたドアを開けると、癖のある赤毛の少年が出迎えてくれた。町の雑貨屋に寄ったのは、友人のグラウに会うためでもあるが、一番はシシィが喜びそうな物を選ぶためだ。店内には日用品から、女性が好みそうな雑貨まで幅広く陳列されている。
「最近、顔を見せなかったけど元気だったか?」
「見ての通り。新しい友達が出来て、その子に会いに行ってたから」
グラウは幼い頃からの友人で、気が置けない仲である。陶器の置物を手に取って眺めながらそう言えば、グラウの瞳が好奇心から輝く。
「友達って、どんな子なんだ?」
「町外れの病院にいる女の子なんだけど、何て言うか気難しいところがあるかな」
シシィを思い出し話すノイの表情には、優しい笑顔が浮かんでいた。シシィ聞いたら、嫌そうに顔しかめるのが容易に想像が出来て少しおかしかった。
「町外れの病院か……。でも女の子に会いに行ってたなんて、ノイも隅に置けないな」
「そんなんじゃないよ。シシィは、友達だから」
からかうような色をはらんだ言葉に、ノイは苦笑を返す。つれない返事に、グラウはわざとらしくため息をつく。
「いつになったら、ノイから浮いた話を聞けることやら」
「僕より、グラウの方がそういった話は多いんじゃない?」
惚れっぽい友人にからかいを込めて言えば、何やら真剣な表情で黙り込まれてしまう。
「実は、ノイに相談があるんだ」
「もしかしなくても、誰か好きな人が出来た?」
「そう! 花屋の売り子なんだけどな、とっても美人でさ。飾らない性格をしてて、そこがまたいいんだけど」
グラウは、頬を赤く染め熱っぽく語る。予想が当たったノイは、少し苦笑いをする。
「ずいぶん想い入れてるようだけど、花屋の売り子って言ったら、言い寄ってくる男性も多いんじゃない?」
グラウの話す人物には心当たりがあった。町でも評判の美人だが、男性に興味がないのかいつも笑顔でかわしている。確かシシィと同じ、黒い髪と瞳をしていたはずだ。少女と女性の間である彼女には、咲きかけの花のような一時だけ見られる輝きがあった。
「そうなんだよ。ルーナには何度もアプローチしてるんだけど、うまくいかなくてさ……」
ノイも以前、ルーナが言い寄る男性に、「そんなことよりお花はいかが?」と満面の笑みで返しているのを見たことがある。
「まあ、ルーナ相手だったらそうかも」
「だからって諦められないだろ。そうだ、ノイからその友達に聞いてくれよ!」
それまで浮かない表情をしていたグラウが、弾かれたように言う。その様子に驚いて、ノイは目を丸くする。
「聞くって、何を?」
「女の子は、どんな物が好きかだよ。うん、それがいい」
「いいけど、参考になるかどうか」
ノイはシシィを思い浮かべ、ためらいを顔に見せる。相手はシシィである。グラウの期待しているような助言が返ってくるか分からない。
「頼れるのはノイしかいないんだ。頼むよ」
「……分かった。でも、あまり期待しないでね」
両手を合わせて頼み込むグラウに、ノイは了承の意を伝える。これからシシィに会いに行くつもりだったので聞いてみよう、そう思いノイは店を後にした。
* * *
「いらない」
ノイが差し出したクッキーの包みを一瞥して、シシィはそう口を開いた。
「おいしいよ?」
「お菓子なんて甘いだけじゃない」
病院の大きな庭木の下、ずっと昔からそこにいたような堂々たる姿でシシィが座っている。悩んだ末に町でおいしいと評判のクッキーを購入したが、今回も拒否されてしまった。
「そっか。次は期待してて」
目を細めて笑うノイに、シシィは口角を下げ不機嫌そうな表情をする。
「何で、笑えるのよ……」
眉間に小さなしわを寄せたまま、シシィの口が小さく動く。音としてしか理解出来ないほどの呟きに、ノイは屈託なく笑う。
「だって、僕たち友達でしょ? 喜んでもらいたいと思うのは当たり前だろ」
聞かれていたことと返答に驚き、シシィは目を大きく見開く。瞬きすることをすら忘れたように、しばしノイを観察するように見つめる。暗い茶色の瞳は澄んでいて、嘘を言っているようには見えない。やがて、言葉の真意を探ることを諦めたのか、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「やっぱり変わってる」
「そうかな?」
いつの日かと同じやりとりをするが、ノイの横顔はどこか楽しそうだった。
「そうだ、シシィに聞きたいことがあるんだけど」
グラウからの頼まれごとを思い出し、ノイがそう切り出す。シシィは、聞く気はあるのか眉がわずかに動く。
「僕の友人に想い人がいるんだけど、全く相手にされないらしくて。何か喜ぶ物を渡したいらしいんだけど、女の子ってどんな物が好きなのかな?」
「そんなことが聞きたかったの?」
「え、うん。シシィのことを話したら、ぜひ聞いてくれって頼まれて」
少し棘がある口調のシシィに、戸惑いながら返す。シシィが素っ気ない態度を取ることはあっても、ここまで冷たい口調で言う時はなかった。探るように見やれば、つっけんどな言葉が返される。
「私はずっとここにいるの。町の女の子のこと何て知らないわ」
「もしかして、すねてる?」
シシィの表情を窺いながら聞けば、怒気を含んだ声がする。
「すねてない」
その言葉とは反対に、下を向いた顔は少し赤くなっていた。ノイは困ったように眉を下げると、優しく語りかける。
「シシィ、ちゃんと言ってくれなきゃ分からないよ」
「……私は、普通の女の子じゃないから」
「そんなことない。みんなと何が違うの?」
「元気な、町にいる子たちと違って、私はずっとここにいるから。だから流行も、何を好むのかも知らないし……」
そこまで言うと曲げた膝に顔を押し付けて、口を閉ざしてしまった。
「シシィ」
表情を和らげて、ノイが名前を呼ぶ。シシィはそれには応えず、顔を埋めたまま動かない。
「シシィ、僕は君に相談してるんだ」
はっきりとした口調で、側らの少女に告げる。
「普通とか、そうじゃないとか、そんなのどうだっていい。シシィに聞いてるんだ」
その声に、言葉に、シシィは顔をゆっくりと顔を上げる。子供のように笑うノイと目が合って、気まずそうに視線をそらす。
「人にもよると思うけど、きれいな物とかは好きかも……」
怒りとは違う感情から、シシィは頬を赤くする。多分、気恥ずかしいのだろうと思い、ノイは黙って続きを聞く。
「大げさな物は、逆効果だと思う。気を遣わないですむような……」
そこで黙り込み、しばし思い見る。
「リボン。そうね、例えばリボンとか」
「リボンか。ありがとう、伝えておくよ」
それを聞いたシシィは、小さく頷いただけでまた話さなくなってしまう。そんなシシィに合わせるように、ノイもそれ以上話すことはなかった。
* * *
「ねえ、グラウ。女の子が喜びそうな物って何かないかな?」
「おれにそれを聞くのか」
グラウが働いている雑貨屋に立ち寄ったノイは、陳列された色鮮やかな商品を前に考え込む。グラウは呆れたように、大きく息を吐く。
「友達に持って行ってるんだけど、なかなか気に入ってもらえなくて」
「この前話してた子か。何を渡したんだ?」
店内にはノイとグラウしかいなく、気兼ねなく話しが出来る。ノイは指を折りながら言う。
「最初は、花。これは受け取ってもらえたんだけど、今はいらないって。次はチョコレート、それからクッキーかな」
「食べ物がだめなら、楽しんでもらえる物はどうだ?」
グラウは壁際の棚から一冊の本を手に取ると、それをノイに手渡す。厚みはないが、小さな図鑑ほどの大きさがある。その表紙には、装飾品や花が描かれていた。
「女性向けの見本誌なんだけどさ、アクセサリーとか洋服、それからきれいな食器も載ってるんだ」
本を開いて見ると、きらびやかな絵が説明書きと共に載っていた。
「これなら、シシィも喜ぶかも。これにするよ」
「役に立ててよかった。包装もするだろ?」
「うん、お願い」
グラウに本を手渡し包んでもらっている間に、シシィから聞いたことを話す。
「ルーナに何を渡したらいいのかって話だけど」
「聞いてくれたのか!」
手は動かしたまま、興奮した様子でグラウが返す。
「大げさな物じゃなくて、リボンとかどうかって」
「リボンか。ルーナはあんまり着飾らないから、それくらいの物の方がいいかもしれない。きれいな黒髪だから、淡い色が似合うだろうな」
頬を染めながら思案する間に、本はきれいに包まれていた。
「その友達に、ありがとうって伝えてくれ」
「伝えておくよ」
歯を見せて笑うグラウに代金を支払って、ノイはシシィの元へ向かった。
* * *
「何それ」
「女性向けの見本誌だよ。きれいな物がたくさん載ってるんだ」
シシィは、差し出された包みを訝しげに見つめる。病院の庭には、シシィとノイの二人しかいない。
「いらない」
「僕も見たけど、楽しいと思うよ?」
一応言ってはみたが、シシィの気持ちは変わらないだろう。
「分かった。次を楽しみにしてて」
いつものやりとりが、変わらないことが、少し嬉しく思うのはおかしいだろうか。ずっと、こんな日常が続けばいいのに。ノイは側らに座る少女を見て思う。
小さく微笑むノイから視線をそらして、シシィは虚空を見つめていた。ノイも同じように、ただ空を眺める。
若い緑色だった草木も、深緑へ変わろうとしていた。ノイは目に緑を映しながら、口笛を吹く。昔、父親から教えてもらった曲は、ゆっくりとしたリズムで穏やかな気持ちにさせる。隣をそっと見れば、シシィは目を閉じて聞いていた。その柔らかな表情に安堵して、口笛を吹き続ける。
確か、悲しい歌だった気がする。離れ離れになってしまった、恋人への想いを込めた歌。またいつか会えるはず、いつまでもあなたを想っています。歌からは、二人がまた再会出来たのかは分からないが、きっと会えるだろう。だって、こんなにも優しい音色なのだから。
曲が終わり、また静寂が訪れる。シシィはゆっくりと目を開くと、しばらくぼんやりとしていた。
「ねえ、もう一度吹いて」
「気に入った?」
「うん」
珍しく興味を持ったシシィに嬉しくなって聞けば、肯定の言葉が返って来る。シシィに催促され、ノイはまた口笛を吹く。
あなたを想っています
二人の影が再び重なったら
そう願わずにはいられない
歌詞が頭の中に浮かぶ。確か、タイトルは『想い影』だったか。いつも寄り添っている想いがこもった影、恋人の重い影にはなりたくない。そんな意味だったと思う。
自分はシシィにとって、「重い影」なのだろうか? それとも「想い影」でいられているのだろうか?
ノイの頭に浮かんだ考えは、すぐには消えてくれない。ただの自己満足なのではないか。シシィは、本当はどう思っているのだろう? 友達だと思っているのは、自分だけだったら?
不安を抱えながらシシィに視線を移せば、とても優しい顔をしていた。それを見たノイの中から、暗い感情が消えていく。
シシィがいる限り、何度だって会いに来よう。シシィにも言ったではないか、シシィが何と言っても会いに来ると。簡単に手放したくはない、この小さな宝物のような友達を。
それから、ノイはシシィが飽きるまで口笛を吹き続けた。
* * *
「ノイ!」
「グラウ、こんなところで会うなんて珍しいね」
食材の配達途中、慌てた様子のグラウと町で会った。普段ならこの時間は、雑貨屋で店番をしているはずだ。よほど慌てていたのだろう、肩で息をするグラウを見て何か嫌な予感がする。
「ノイ、落ち着いて聞けよ」
「うん、何かあったの?」
「町外れの病院が取り壊されることになった」
「え……」
町外れの病院、それはシシィがいる病院のことだろう。ノイは視界が一瞬揺れたような気がした。
「どう言うこと」
「おれも聞いた話だから詳しくは分からないけど。最後の患者さんが、ずいぶん前に亡くなったらしくて。それで、病院を閉鎖するらしい」
「じゃあ、シシィは……」
シシィの顔が思い出される。シシィが亡くなったと聞いて、手向けの花を持って行った日。空は重たい鈍色で、今にも雨が降り出しそうだった。もう会えない、そう思っていたノイを迎えてくれたのは、幽霊となったシシィ。いつもと同じ表情で、「今日は何もないの?」とつんとして言う様子が懐かしくて、嬉しくて。だから、シシィの死に鈍感であろうとした。いつか、この日が来るのは分かってても、まだシシィと一緒にいたかったから。
罰が当たったのかもしれない。シシィに会いたいと言う、エゴを押し通したから。だとしたらシシィは、いなくなってしまうのだろうか。もう一度、もう一度だけ会いたい。まだ受け取ってもらってないのだから。
「会いに行かなきゃ……」
「ノイ、病院がまだ遺品を保管しているらしいぞ!」
走りだすノイに、グラウが大声で伝える。それに片手を上げて応え、ノイは真っ直ぐに町外れの病院へと向かった。
「こんな時間にどうしたの」
「シシィ……」
病院の庭、大きな木にシシィはもたれかかって立っている。息を切らしてやって来たノイに驚くことはなく、その表情と口調は冷たかった。近づこうとするノイを制するように、手を前に突き出す。
「来ないで」
断固として拒否するシシィに、ノイはそのまま動きを止める。
「シシィ、君に渡したい物があるんだ」
「いらない!」
「きっと、気に入ってもらえる」
そう言って、一歩シシィに近づく。シシィは駄々っ子のごとく、首を横に振って拒絶する。
「いらない!」
「シシィ、受け取って」
ノイは優しい手つきで、持っていた人形をシシィに差し出す。
「これ……」
それを見た瞬間、シシィの目から涙がこぼれ落ちた。
「シシィの遺品がまだ保管されてるって聞いて、さっきもらって来たんだ。これ、大事な物なんだろ?」
「お母さん……」
次々と流れる涙を拭おうとはせず、シシィは人形へと手を伸ばす。黒い髪と瞳をした女の子の人形は、シシィにそっくりだった。人形を掴もうとしたシシィの手が、そのまますり抜ける。
「もう、抱いてあげることも出来ないなんて」
手で顔を覆い、声を上げて泣きじゃくる姿は、小さな子供のようだった。
「受け取ってもらえてよかった」
涙をこらえて、ノイは無理やり笑って見せる。
シシィの遺品はほとんどなく、病室はこざっぱりとしていて胸が痛んだ。その中から黒い髪の人形を見つけた時、シシィの大切な物だとすぐに分かった。人形の靴の裏に、シシィの名前と共に別の女性の名が書かれていたからだ。それは多分、シシィの一番大切な人の名前。離れて暮らしている母親のものだろう。
「ごめんなさい……」
嗚咽に混じって、小さな声がする。ノイは分からないと言った風に、眉を下げ首をかしげる。
「今まで、色々と私のために持って来てくれたのに……。本当は、嬉しかったの。でも、受け取れなかった。だって、それは全て手向けられた物だったから」
同じ贈り物でも、生者と死者ではその意味は変わる。ノイも薄々、シシィが頑なに拒否する理由が分かっていた。それでも、生きている時と同じように接し、気づかない振りをし続けた。そうしていないと、シシィがいなくなってしまいそうで。怖かった、たまらなく。
しかし、それらは一方的な思いだ。やはり、重い影だったのだろうか。そう思いかけた時、シシィの明るい声がする。
「それでも、ノイはいつも笑っていてくれた。側にいてくれた。変わらず接してくれたことが、嬉しかった」
「シシィ……」
「ありがとう、ノイ。こんな素敵な物をくれて。消えちゃうのは怖いけど、もう大丈夫」
目元をこすり、シシィが無邪気な笑顔を向ける。それは初めて見る、シシィの本当の笑顔だった。独りよがりだと思っていた感情は、シシィにちゃんと届いていたのだ。よかった。心からそう安堵する。
「また会えたら、友達になってね」
「もちろん」
こらえていた涙が、ノイからこぼれ落ちる。ああ、これで本当にお別れなんだ。その思いが胸を締め付けた。それを見たシシィからも、涙がこぼれる。
「町を案内してくれる約束、忘れないでよ」
「忘れないよ。シシィが喜ぶ物を、たくさん見せてあげる」
シシィが覚えてくれていたことが嬉しくて、溢れる涙を拭うこともせず笑う。シシィの表情を、言葉を、全てを心に焼き付ける。
「友達になれてよかった」
「僕も、シシィと友達になれてよかった」
シシィが、とても幸せそうに笑う。人はこんなに辛くて苦しくても、優しく笑えるのか。シシィに応えるように、ノイも精一杯笑う。それを見たシシィの目から、一筋涙がこぼれる。それは、とてもきれいだった。
「またね」
そう残して、シシィは風に流されるように消えた。主を失った木は、こんなにも大きかったのかと思う。木の幹に手を当て、溢れそうになる涙をこらえる。
「シシィ、またね」
黒髪の人形をきつく抱きしめて、そっと呟く。見上げると、木々が風に吹かれ葉を一斉に揺らす。まるで、シシィが返事をしているようだった。木と自分の影が重なっているのを見て、ノイは顔をほころばせる。
またね、最後にシシィはそう言った。ならば、何も悲しくない。シシィは見えなくなっても、会うことは出来る。目を閉じれば、シシィの表情が、仕草が思い出される。ほら、大丈夫。
「君が喜ぶ物を探して来るね」
人形を木の根元にそっと置くと、ノイは涙を拭って歩き出した。