01−2
下駄箱を後にした僕は教室に向かった。
辺りには、凛とした静けさが漂っている。
僕はこの空気が好きだった。
誰にも邪魔される事なくこの空気を味わえる、この時間帯の廊下を歩くのも好きだった。
教室までの短い時間だが、この空気とこの時間とこの場所を、僕はこよなく愛していた。
だが、至福の時間は一瞬にして過ぎ去り、教室へとたどり着いてしまった。
今日はここまでか……。
そう思い、教室の扉に手をかけようとすると、僕の手が取っ手にかかる前に、教室の扉が勢い良く開いた。
「あ、ぎいちゃん! おはよう!」
手を差し出すような間抜けな状態の僕に、少女は声をかけてきた。
背は決して高くないが、誰が見ても可愛らしいと思うであろう顔が、比較的引き締まった体の上の乗っている。
おかっぱの髪が妙に愛くるしく、数多くの男を魅了してきたであろうことが伺えた。
少女は明るい声で、もう一度僕に声をかけてきた。
「ぎいちゃん、お・は・よ・う!」
ぐいと顔を近づけ、僕の顔を覗き込むようにして挨拶を求めた。
「あ、ああ、おはよう。フル──」
「ナ・ミ!」
「……おはよう。ナミ」
「もう……、どうしてぎいちゃんはそうやって、他人行儀な振る舞いをしようとするのかな?」
少女は腰に手を当て、少し怒った声で話す。
「いや、他人だろ」
「幼なじみでしょ!」
「ていうか、ぎいちゃんはやめろって」
「や・だ!」
僕の言葉に間髪入れずに、彼女は返してきた。
このやり取りも何度目になるのか。
あのとき以来会う度にやっているのだから、数え切れないほど繰り返してきていることは間違いがない。
「そんなことだから、入学してだいぶ経つのに友達ができないんだよ? 昔はそんな子じゃなかったのに、どうしちゃったの?」
「別に……、お前には関係ないだろ……」
僕は俯き気味で応じた。
彼女はしまったというような表情を浮かべ、慌てて次の言葉を紡いだ。
「と、とにかくさ、私には他人行儀な態度は禁止! わかった?」
「…………わかったよ」
「よろしい」
彼女は満面の笑みを浮かべ、僕の方を向いていた。
僕は、そんな彼女に対しても、愛想笑いすら返せなかった。
僕は、まだ、あのことを引き摺っている。
もう過去のことだというのに、未だそれに縛られている。
そんな思いに駆られた瞬間、ふと気づいた。
「それより、何でこんな早く登校してるんだ?」
ナミが僕より早く登校する事なんて、過去に一度もなかった。
……いや、一度だけあるか。
あの日、僕の生涯で、唯一学校に遅れて行った日。
あの日だけは、ナミの方が僕よりも早く登校していた。
しかし、それは僕が遅れただけであって、ナミがいつもより早く来た訳ではない。
昔は一緒に登校することもあったが、僕が学校に到着する以前にナミがすでに学校という場に存在していたことは、未だかつてなかったはずだ。
だから、ナミが僕より早い時間に登校しているのは、実質、初めてのことなのだ。
「え、あ、その……、ちょ、ちょっと、気になる事があったんだよ」
突然慌て出すナミ。明らかに怪しい。
「気になる事?」
僕は怪訝そうな声で聞き返す。
「う、うん。でも、気のせいだったみたい。だから、今から部活の朝練にでも行こうかなって思ってドアを開けたら、ぎいちゃんがいたんだよ。び、びっくりだよねー」
ナミは明らかに挙動が不審だった。
視線も泳ぎまくっていて、明らかに何かを隠していた。
全く訳がわからなかった。
まあ、ナミの訳がわからないのなんて、いつものことだが。
それにしても、今日は珍しいことが起こる日だな。
雨は降っていないけど。明日にでも降るのだろうか。
それとも、これだけの珍しい事が続いたのだから、嵐でも来るのかな?
とりとめもない僕の思考をよそに、ナミは話を続けた。
「でも、ぎいちゃんと会っちゃったし、今日はサボって、ぎいちゃんとお話でもし──」
「朝練に行け」
僕はナミの言葉を遮り、朝練に行く事を促した。
ナミにサボらせないためというより、朝の自分だけの時間を奪われたくなかっただけだった。
何より、怪しすぎる。
「もう……、つれないなあ……」
ナミは至極残念そうな表情で呟いた。
「いいよ、いいよー。もう行っちゃうからね! 今更やっぱり居てって言っても遅いんだからね!」
「ああ、さっさと行け」
「ほ、本当に行っちゃうよ? こ、後悔しちゃうよ?」
「いや、後悔なんて微塵もしないから、早く行け」
「むう……」
ナミは恨めしそうな表情をこちらに向けて来た。
その表情ですら、どこか愛らしかった。
「そんな顔をしても無駄だ」
「どうしても……?」
「駄目だ」
「今日だけでも……」
「駄目。不可能。絶対無理」
僕はナミの言葉を遮り、追い打ちをかけるように言葉を放った。
「わかったよ……。じゃあ、また後でね……」
そう言うと、ナミは僕の脇を抜けて、教室から出た。
少し進むとナミは立ち止まり、引き止めてくれることを願ってか、チラと振り返った。
だが、僕は意に介さず、鋭い視線を投げかけ続けた。
ナミは幾度となくその行動を繰り返したが、ようやく無駄な足掻きだと悟ったのか、振り返ることを止めて体育館のある方向へと歩き去った。
「ふう……」
僕はナミの姿が見えなくなるのを確認すると一息を漏らし、教室へと足を踏み入れた。
「あ……」
いつもの癖でナミを追いやってしまったが、そこでようやく先ほど出会った天原さんのことを思い出した。
「しまったな……。あの人、ナミのことを探してたんだったよな……」
僕は教室から顔だけを出し、ナミの去った方へと目を凝らした。
しかし、当然のことながら、ナミの姿は影も形も見当たらなかった。
完全に姿が見えなくなるまで凝視していたのだから、当たり前の話だ。
まあ、過ぎてしまったことはどうしようもない。
どうせ、ナミは朝練から帰って来たら、いつもの如く話しかけてくるのだろうし、その時にでも伝えよう。
昨日から待っていたという天原さんには気の毒だが、今からナミを追いかけていくのも億劫だしな。
それにしても、今日は朝から予想外のことが多すぎだな。
それも、初めて尽くしだ。
まあ、もうないだろう、こんなこと。
これ以上起きたら、日常が非日常になってしまう。
そんなことを考えながら、僕は自分の席に荷を降ろした。
その時は、それで終わりだと、本気で信じていた。




