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ハルチ  作者: あみるニウム
01「日常の終焉」
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01−1

 朝一番の校舎というのは、ほとんど人がいない。

 凛と張り詰めた空気だけが存在し、人の気配はほとんどない。

 とはいえ、グラウンドや体育館には、もう間もなく部活動に勤しむ学生が溢れてきて、活気に満ちていくことだろう。

 しかし、何の部活にも所属していない僕にとっては、どちらの領域も体育の授業以外には縁のない場所である。

 僕が朝一番に来るのは、ただの習慣だ。

 僕は優等生でもなければ、劣等生でもない。

 輝かしい才能を持っている訳ではなく、しかし、だからと言って何もできない訳でもない。

 少なくとも日常生活に支障が出るような欠点がある訳ではない。

 至って普通の、ひっくり返しても通常の、逆立ちしても一般の、ただの学生である。

 それ以上でもなく、それ以下でもない。

 ただのどこにでもいる人に過ぎない。

 その日も、いつもと変わらない一日だった。

 いや、そのはずだった。

 そうとばかり思い込んでいた。

 この世の中に、全く同じ日なんてものは、一日として存在していないのに、そんな単純明快なことにも気づかずに、その日もいつもと同じ一日だと勘違いしていた。


「おい、そこのロリコン。こちらを向いてはくれぬか」


 朝一番で聞き慣れない声を聞いた。

 この時間帯に僕以外の人間が、この空間に同時に存在していたことなんて、ただの一度たりともなかったのに。

 その日だけは違って、明らかに僕以外の誰かがその場に存在していた。

 声の主は女性のようだ。

 どちらかと言えば、いや、どちらかと言わずとも幼い印象を受ける声。

 アニメなどによく出てくる萌え声と呼ばれる類いの声だった。

 現実世界でそのような声に遭遇するなんて、滅多にないこととはいえ、実際にアニメのキャラクターも声優さんが声を出している訳だし、ということは、そのような性質の声をしている人がいても、何らおかしいことはない。

 ただ単に、僕がそういう人と直に接したことがなかったというだけである。

 ならば、そのような人に出会ったからと言って、特別な行動をするのは、常識人である僕としてはありえない。

 幸い、僕にこのような声をしている友人知人はいないから、僕に話しかけているという可能性は皆無であって、僕が何か特別なアクションを起こす必要は微塵もない。

 ただ聞き流し、やり過ごせばいいだけだ。

 いつものように無関心を装って、赤の他人として振る舞えばいいだけだ。

 しかし、声が聞こえるということは、その声の主が存在するのは言わずもがな、呼びかけられた人物もこの空間に存在しているはずである。

 つまり、僕と声の主、そして、話しかけられた人の三人が、今、この場所に存在していることになる。

「珍しいこともあるもんだな。他に一人いるだけでも珍しいのに、二人もいるなんて」

 僕は誰に言うでもなく独りごちて、外靴から上履きに履き替える。

 それにしても、朝からロリコンと呼ばれるなんて、なんと可哀想な人なのだろう。

 他人事ながら、僕はロリコンと呼ばれた人を哀れんだ。

 それも、あの声の主にロリコン呼ばわりだもんな、これは相当にきついぞ。

 ……いや、待てよ。

 ロリコンなんだったら、あんなアニメでしか聴いたことのないような声に罵倒されるのは、むしろ本望なのか。

 何せ自分の好みにぴったりな訳だしな。

 嬉しすぎて涙が出そうなのかもしれない。

 あれ、それだと、ただのマゾ気質な人間ってことになってしまうのか。

 ということは、やはり嬉しいとは限らないのか。

 そんなどうでもいい思考を巡らしながら、僕は外靴をしまいこんだ。

 ロリコンと呼ばれた人はまだ返答をしていない。

 予想通り悶絶しそうなほど喜んででもいるのだろうか。

 あるいは、好みの相手から罵倒され、言葉を失うほどに落ち込んでいるのだろうか。

「おい、こら、無視をするでない。それとも何か? そなたはショタコンか? 可愛らしい少年を目にするとついつい目が離せなくなってそのまま凝視してしまい、それだけに飽き足らずその少年に抱きつこうとしては付近の住民に通報され、最終的には警察のご厄介になる類いの人間か?」

 おめでとう、ロリコンはショタコンに進化した。

 って、話が飛躍し過ぎだろっ。

 何一つ応えてないのにも関わらず、ただの犯罪者の扱いじゃないかっ。

 たとえマゾ気質の人間だったとしても、そこまで言われたらさすがに傷つくだろっ。

 本当に散々な言われようだな。

 きっとこの声の主に相当ないかがわしいことでもしようとでもしたのだろう。

 これだけのロリボイスだ。

 現実にはお目にかかれないほどのロリ体系にロリフェイスなのに違いない。

 とはいえ、第三者である僕には関係がない。

 確かに関係はないのだが、そのような人間が近くにいるのなら、ぜひとも一目見てみたいものだな。

 いや、接触するつもりは決してないのだが。

 しかし、この場にいるということは学校の関係者だろうし、いつかは僕と接する機会があるかもしれない。

 その時はいつか来るかもしれないし、来ないかもしれない。

 たとえ、どちらであったとしても、僕ごときの小さな人間の力でどうこうできるようなことではない。

 僕はただ、流れに乗るだけだ。

 川を流れる木の葉のように、時という名の波に揺られて、流れていくだけだ。

 さも運命論者のような台詞を頭に浮かべながら、僕は声の主を勝手に想像していた。

 アニメやマンガのキャラクターのような、見た目は小学生サイズの女の子、ただし本当は成人女性。

 そのような人物を脳内に描いていた。

「ふふふ」

 想像してみると、思わず声が漏れてしまった。

 そんな人物がこの世に存在しないことはわかっている。

 しかし、僕の脳内は僕だけのものだ。

 何を想像したっていいじゃないか。

 いや、今回は妄想という方が正しいのかもしれないな。

 実際に、妄りに想い浮かべているのだから。

 決して淫らな思いを抱いている訳ではないが、妄想であることには変わりないだろう。

 僕がそんな思考に耽っている間にも、未だ呼びかけられた人は返事をしようとない。

 完全に無視を決め込んでいるようだ。

 ここまで来ると、一種の意思めいたものを感じる。

 何か信念に基づいてだんまりを決め込んでいるのだろうか。

「いい加減にこちらを向かんかーっ!」

 先程までの声の数倍はあろう音量が響くと共に、ものすごい勢いで僕の体は後ろへ引き摺られた。

「うわっ」

 あまりの力の強さの反動で、思わず声が出てしまった。

 そして、大きくよろめきながら後ろを向いた。

 そこには、衝撃を受ける映像が広がっていた。

 僕の目の前には、180センチはあるんじゃないかという長身の女性が立っていた。

「やっとこちらを向いてくれたか、フルノどの」

 呆気にとられていた僕に、彼女は先程まで辺りに響き渡っていた声と同じ声で話しかけてきた。

「……えっ?」

 少し間を置いて、僕は間の抜けた声を漏らした。

 女性の声は、確かにこの耳に聞こえていたものに違いない。

 だが、あまりにも想像していた像とは違う容姿の人物がそこにいた。

 長身であることがまず一番に目についたが、よくよく見返してみると、端正な顔がモデルのようなプロポーションの上にしとやかに乗っていた。

 長い黒髪は一つに括り、後頭部からその髪を垂らしている。

 いわゆる、ポニーテールと呼ばれるものだった。

 高い位置で括ってあるにも関わらず、その髪は彼女の膝の辺りまで垂れ下がっていた。

 そして、私服校であるはずのこの学校では珍しく、制服を着用している。

 校章が生地に縫い込まれていることからして、制服はうちの学校のもので間違いないだろう。

 その左腕には「生徒会長」と印字されている腕章が巻かれていた。

「僕……ですか……?」

 僕は戸惑いながらも、生徒会長と書かれた腕章を付けた女性に尋ねてみた。

「そうじゃ。そもそも、この場所には私とそなた以外は、誰もおらんであろう?」

 そう言われて辺りを見回してみると、確かに、僕と彼女以外には誰も見当たらない。

 それどころか、物音一つ聞こえなかった。

 いつもの自分が登校するときの、あの静けさが辺りには拡がっていた。

 ……いや、ちょっと待て。

 と言うことは何か?

 さっきまで散々ロリコンだとか、ショタコンだとか罵倒され、挙げ句の果てには、犯罪者扱いまでされていたのは、この僕だったというのか?

 声の主の呼びかけに返答がなかったのは、対象である僕自身が声をかけられていたことに気づいていなかっただけであって、それで無視をするような形になってしまっていたということか。

 なるほど、通りで返答がないはずだ。

 話しかけられている当人が、話しかけられていることに気づいてすらいないのだから、返答のしようがない。

 いつもの静けさを感じ安堵したのか、僕の頭は急激に回転し始め、冷静に疑問点に対する解答を導き出した。

「って、僕ら初対面だろっ。見ず知らずの人間を犯罪者扱いしてたのかよっ」

「そうじゃ」

「あっさりと肯定したっ? ていうか、人を見た目で判断するなよっ。それに、僕はショタコンではないぞっ」

「ロリコンは否定せんのか?」

「それは否定できない」

 僕は勢いで堂々と言ってしまった。

 女の子に面と向かって言うようなことではなかったと言ってから気がついた。

 しかし、言ってしまったことは仕方がない。

 認めよう、僕はロリコンである。

 だが、決してショタコンではないと、ここに宣言する。

 そもそも、ロリコンだというのは、若干正しくない。

 僕はロリ系の人が好きなだけであって、決して年下が好きな訳ではない。

 むしろ、年上の方が好みである。

 年上でなおかつロリータ気質、これこそが僕の求める理想像だ。

「何を言っておるのだ?」

 どうやら、僕は脳内の思考を、全て口に出してしまっていたらしい。

 目の前の女性は軽蔑するような眼差しを僕に向けていた。

「まあ、そんなことはどうでもよい。他人の好みや信条にはてんで興味などないのだ。それよりも、そなたがフルノどのであろう?」

 彼女は、本当にどうでも良いという口調で僕の理念を一蹴し、再度尋ねてきた。

「私は生徒会長をしておる、天原あまはらという者じゃ。実はそなたに話があってな……」

 よくよく耳を傾けてみると、随分と古風な話し方だった。

 それこそ、マンガなどでよくいるキャラクターのような。

 声の質も相俟って、僕のツボを刺激し続ける。

 しかし、そこでようやく重要なことに気がつき、僕は話を続けようとする彼女の言葉を遮った。

「ちょっと待って下さい、天原さん。話を始めようとされているところ申し訳ないのですが、僕はフルノじゃないですよ」

 そう言ったところで、彼女の動きが止まった。

「なん……じゃと……?」

 これまたマンガなどではよくありそうな返答だった。

 王道中の王道の返答だ。

「そなた、フルノではないのか?」

 声が若干震えていた。

 僕がフルノで間違いないと踏んでいたらしく、相当な動揺が見られる。

「違いますよ。本当に申し訳ないですけど、僕はフルノではありません」

 その言葉に、彼女はこの世の終わりを見たかのような表情を浮かべた。

「なんたることじゃ……。絶対に逃さぬために、五時から待ち構えていたというに……」

「五時って……、もう一時間以上待ってたんですか……?」

「いや、違う。昨日の午後五時からじゃから、もうかれこれ十二時間以上待っておった」

「馬鹿だろっ、一旦家に帰れよっ!」

 もしかして、この人は相当な天然なのだろうか。

 ていうか、その時間から待っていたのなら、帰る時を狙えよ。

「いや、あまりに人が多くてな……。どの生徒がフルノなのか判別がつかなかったのじゃよ」

 僕はまたもや思考を外に漏らしていたらしい。

 彼女は僕が思い浮かべていただけのつもりの思考に合わせて、そのまま返事をしてきた。

「でも、それじゃ、今朝もわからないはずじゃ?」

「いや、フルノなる人物が朝一番に登校しているという話は聞いておったのじゃ。じゃから、放課後に見つけられなかった私は、そこで機転を利かし、そのまま朝まで待つことにしたのじゃよ」

 機転が利いているどころか、完全に空回りだった。

 自分が空回っている事に気づいていないのか、彼女は自慢げな表情を浮かべていた。

「しかし、そうか、勘違いじゃったか……。すまんかったのう。よもや人違いとは……。こんな時間に登校するのはフルノなる人物だけじゃと思っておってのう」

 確かに、この時間帯に登校する人間はとても珍しい。

 部活動に勤しむ人ですら、もう少ししてから登校し始めるのだ。

 部活に所属していないのにも関わらずこんな時間に来るのは、僕以外にはほとんどいないだろう。

 しかし、彼女が探しているのがフルノであるならば、あと十分ほどで出会えるはずだ。

 僕ほどではないとはいえ、フルノも登校はとても早いのだ。

 ただ、フルノは僕と違って、部活動に勤しむために朝早く登校している。

 そこだけが、僕とフルノの違いだった。

「すみません。では、僕はやることがあるので、ここで失礼しますね」

「あ、ああ。こんなに早く登校しているのだものな。何かやることがあって当然じゃった。引き止めてすまんかったな。それに罵倒もしまくってしまって……。気を悪くせんでくれ」

 そう言うと、彼女は至極バツの悪そうな顔をこちらに向けた。

「気にしてないですよ。それじゃ」

 そして、僕は彼女の元を去った。振り返ると彼女はガクッと肩をうな垂れて佇んでいた。

 余程ショックだったのだろう。

 まあ、昨日から張り込んで待っていたと言うのだから、それも仕方がないか。

 長身という要素のせいもあってか、その落ち込み様が一層激しく感じられた。

 そんな彼女を後ろ目に見ながら、僕はその場から遠ざかった。

 僕が悪い訳ではない。

 だから、僕が引け目に感じることは何もない。

 しかし、僕の心には、何故か心苦しさが芽生えていた。

「嘘はついていないんだけど……、悪いことしちゃったかな……?」

 彼女が探していると言うあいつとは知らない仲じゃないし、せめてもうすぐ登校するということぐらい教えておいてあげれば良かったかもしれない。

 しかし、僕は早く教室に行きたかった。

 あいつが登校する時間から、部活動の朝練のために、次々と学生たちが登校してくる。

 僕はその人波に飲まれるのが嫌だった。

 だからこそいつも、誰も登校していないような朝一番の、人気のない時間帯に学校へ来るのだ。

 本当は、それだけが理由ではないけど、それが一番の理由だ。

 たった、それだけのことなんだ。

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