03−1
唐突に、話は過去へと遡る。
まだ僕に、兄という存在がいた日常の話へと──
その日もいつもと変わらない一日のはずだった。
だが、朝からいつもとは違っていた。
珍しくも僕が寝坊をしたのだ。
それも、大寝坊だ。
別に皆勤賞を狙っていた訳ではないが、それまで無遅刻無欠席を誇っていた僕にとって、それはとても残念なことだった。
慌てて学校に行く用意を済ませ、家を出ようとすると、突然、腕を掴まれた。
「こら、ナギ。まだ飯を食ってないだろう」
兄だった。
兄は僕の腕を強く握りしめていた。
学校に行かなきゃいけない、完全に遅刻だと、僕は兄に言い訳をする。
「完全に遅刻なんだったら、もはや手遅れだ。諦めて飯を食え」
そう言いながら、兄は強引に僕を食卓へと連れて行く。
抵抗を試みたが、ほどなく僕は観念した。
どうせ兄に歯向かったところで太刀打ちできる訳がない。
昨晩だってそうだったのだから……。
あれだけ拒否してもどうにもならず、結局、兄の命令を聞く羽目になった。
それに、どうせ遅刻するのなら、ご飯を食べて、きっちりと栄養補給をしてから行っても良い。
兄の声を聞いていると、そんな気分にさえなっていた。
いや、今考えてみたらメチャクチャな話なんだけど、当時はそれで納得してしまったのだ。
食卓には、今日の食事当番である兄の作った朝食が並んでいた。トースト、サラダ、そして………。
「なんだ、その目は? え? この黒い物体はなんだって? 決まってるじゃないか、卵焼きだ」
………とてもではないが、卵焼きには見えなかった。
ただの黒い塊だ。
兄はとても手先が不器用な人間だった。
人付き合いは器用にこなす癖に、手先の不器用さは傍から見ていても呆れるほどだった。
「いいから食ってみろ。見た目はこんなだが、味は………」
そう言って黒い塊を口に入れた瞬間、兄の表情が固まった。
「ナギ、これは食べなくていい。いや、食べるな」
そして、前言を撤回するや否や、僕のプレートから黒い物体を取り除き、自分の口の中に放り込んだ。
兄は涙目になりながらそれを咀嚼した。
そんなにまずいなら、食べなきゃいいのに。
「い、いや、まずくはないぞ。決してまずくはない。むしろ、うますぎるくらいだ。お前には勿体ない。だから、俺が食ったんだ」
兄は変な汗までかき始めていた。
そんな兄を眺めていると、僕は何故だか落ち着いた。
不器用ながらも、常に自信を持っているその姿に、僕はいつも安心させられていた。
「おい、俺に不器用人間という烙印を捺すんじゃない。俺は不器用じゃない」
この期に及んで兄は言い張った。
僕は、はいはいとだけ答え、早々に食事を終えた。
食器を片づけて、洗い物に取りかかろうとすると、兄が声をかけてきた。
「あ、ナギ、それは置いておけ。俺がやっといてやる。お前は学校に行け。大遅刻だぞ」
引き止めたのは誰だよと思いながらも、さすがにそろそろ登校せねばまずいとは感じていたので、有り難く食器は残していくことにした。
改めて荷物を手に取り、急ぎ玄関をくぐった。
いってきます。
時間こそいつもより遅いものの、いつも通りに挨拶をして外に出ると、真っ黒な車が家の前に停まっていた。
なんだ、この車は?
明らかに怪しい。
のんびりとした空気が漂う、この地域には不似合いなことこの上ない。
車体の色はあまりにも黒々しく、カラスを彷彿とさせた。
薄暗い森の中にたむろする、暗闇と同化した、漆黒のカラスを。
何か、嫌な感じだ。
そのような考えを浮かべながら、訝しげに見ていると、まるで僕の登場を待っていたかのようなタイミングで、車から一人の男が降りて来た。
サングラスをかけ、黒いスーツを纏った、スキンヘッドの男。
明らかに普通の人ではない。
男は僕の姿を見つけるなり、僕に近づき、尋ねてきた。
「ナギさま、ですね」
突然名前を呼ばれ驚いた。
そうだとだけ答え、相手の出方を伺ってみる。
「学校にお迎えにあがったのですが、いらしていなかったようなので、不躾ながらこちらへ寄らせていただきました。一緒に来ていただけますかな?」
見た目とは裏腹に丁寧な喋りをする男。
しかし、いきなり一緒に来てくれと言われて、おいそれはいと言える訳がない。
何の用なのかと尋ねようと口を開いた瞬間、僕の身体はグッと後ろに引っ張られた。
そして、兄が僕の肩を抱き、男と対峙した。
「何の用だ?」
兄が男に尋ねる。
「ミナカさま、お久しぶりでございます」
丁寧に腰を折る男。
敵意は全く感じられなかったが、兄は鋭い視線を男に投げつけていた。
「挨拶はいい。何の用だ?」
こんな表情の兄は、今までに見たことがなかった。
警戒心をむき出しにして、男を睨み続けていた。
それよりもこの男、何故、僕と兄の名前を知っている?
兄の知り合いなのか?
「まさかアレに関わることじゃないだろうな?」
僕の疑問を他所に、兄が話を続けた。
「左様でございます」
「アレに関しては、俺たちは一切関わらない、そういう約束だったはずだぞ」
「しかし、そうは言っていられない事態に陥りました」
「どういうことだ?」
「実は………」
男は兄に手紙のようなものを渡した。
兄を乱暴にそれを受け取ると、即座に読み始めた。
僕の位置からは全く中身が見えない。
だが、読み進める内に、兄の表情がみるみる変わっていくのはわかった。
「なんだ……、これは……」
兄の表情は怒りとも悲しみともつかない、凄まじいものとなった。
「それが、現状でございます」
男はあくまで丁寧に話す。
兄は歯をぐいと噛みしめ、何かを堪えているようだった。
「………わかった。ならば、俺が同行する」
しばしの沈黙のあと、兄は男に向かってそう言った。
「しかし……」
「お前等にこいつを預けるぐらいなら、俺が行く。それに、お前等にじゃじゃ馬のこいつが扱える訳がないだろう。俺の方が素直で、謙虚で、指示にきっちり従ってやるぐらいの器量はあるぜ? その方があんたらにとっても好都合なはずだ」
兄が言うと、男は手を顎に当て、思案顔を浮かべた。
少しして、軽く頷いてから、兄に向き直った。
「では、ミナカさま、ご同行願えますか?」
「ああ」
兄はそう言うと、かがみ込んで僕と視線の高さを合わせ、こう告げた。
「ナギ、俺はちょっと……、いや、しばらく出かけてくる。その間、この家のことを頼むな。お前にしかできないことだ。やれるな?」
兄は僕の肩をガッシリと掴みながら尋ねた。
だが、言いようのない不安に駆られ、僕は首を横に振った。
……どこに行くの?
…………行っちゃ嫌だ。
………………一人にしないで。
……………………もう、一人ぼっちは嫌だよ。
「すぐに帰ってくる。心配するな」
兄は笑顔でそう言うと、僕を抱き寄せた。
「大丈夫。お前は一人じゃない。いつでも、どこででも」
兄は僕を抱きながらそんなことを言った。
そして、僕を離すと、別れの言葉を告げた。
「じゃあな、ナギ。しばらくは留守にするが、俺がいなくてもちゃんと学校には行けよ。ほら、今日だって大遅刻だぞ、早く行け」
兄はそう言って僕の背中を押した。
僕は後ろ髪を引かれながら学校へと歩み始めた。
兄は僕の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
僕も、兄の姿が見えなくなるまで、何度も振り返った。
その時間は、刹那的でありながら、永遠であるかのように感じられた。




