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爆発音が轟いた。天井が裂け、瓦解し、木の屑となって雨のように降る。空が見える。青い。太陽を背にする、小柄な影が見えた。とん、とその影が梁の上から屋内に飛び降りる。
「あんだ!?」
「っておい、火が回ってんぞ!」
「いま、契約を——」
言いかけた術者が吹っ飛んだ。侵入者に殴られたのだ。男たちは次々と蹴り飛ばされ方々に散る。野太い悲鳴と打撃音が交互する。
リシェリアは眉をひそめ、ヴィフィスからさりげなく逃れようとした。
「へえ、意外とくるのがはやいな」
「!」
視界がぐるんと回ったと思えば、気づくと無理に立たされ、喉に短剣の刃を当てられていた。
「おい、そこのおまえ。止まれ。これを見ろ」
侵入者が停止する。リシェリアと目が合う。彼は舌打ちした。ヴィフィスが口笛を吹く。
「対象がガキかと思えば、護衛もガキかよ。ボウズ、他には?」
ひたひたとリシェリアの喉元を叩く刃のみねを見やり、ナスティは忌々しげに答えた。
「……いない」
「ふーん? まあ、状況は分かるよな。おまえが暴れれば、こいつを殺す。最悪死んでも構わんそうだからな。おまえら起きろ。そのボウズ殴っていいぞー」
「なっ……!」
目を剥くリシェリアをよそに、男たちは歓声をあげる。ぞろぞろと寄り集まり、ナスティを囲い出す。
「やめ……」
ヴィフィスの空いた片方の手はリシェリアの下肢に入り、内股の肉を抓った。不快感と痛みと恐怖で頬が引き攣る。男は声もなく笑った。
「おいボウズ、抵抗すんなよ。大人しくいたぶられろ。ちょっとでも避けたらこのガキを刺す。少しずつ刺す。いいな?」
ナスティはヴィフィスを睨みつけたが、雪崩のようにやってきた男たちの暴力にまったく逆らわなかった。
わたくしのせいだ。
リシェリアははじめて、表情から血の気を引かせた。自分が、助かりたい一心で彼にこの場を教えたから。ナスティは、従者なのだ。リシェリアを見捨てるなんてできない。……違う。彼の良心が、それをさせないのだ。
「さあ、続きをしようか」
腕をひったくられ、床に放り投げられる。そしてすぐさま馬乗りにされた。裂かれてぼろぼろの下着を剥ぎ取られる。仰け反ったリシェリアの視界に、暴行を受けるナスティの姿が映る。カッと目の奥が真っ赤になった。
「……っあ、れを……やめさせ、て……!」
「はは、そんなことするわけないだろう」
「なぜ——必要、ない。動きを、止めさせるだけで、」
くっ、と彼は笑みを洩らす。ものわかりの悪い子どもを見る目で。
「それじゃあつまらん。それにあいつらも殴られて腹が立っているだろうからな。鬱憤も晴らせる。それに、粋がる子どもが絶望する様を見るのは嫌いじゃない。自分の無力によって、アンタが犯される様を、殴られながら見守るしかない。かわいそうだなあ」
リシェリアは。
リシェリアは、声も返せなかった。この男は、いったい、何を言っているのだ。意味が、分からない。意味が分からない。なぜ。なぜナスティがそんな理解不能な理由で、暴行を受けなければならないのだ。
リシェリアの、せい?
本当に、そうか。
この男が。
愕然と言葉を失っていた彼女は、沸々と、今まで感じた憤りなどちっぽけに思えるほどの瞋恚がわき起こってくるのを感じた。怒りが渦を巻く。意識の全てを持っていく。
この、男が、いなければ。
(祖よ)
力を寄越せと心が叫ぶ。この男を殺せるだけの力を。
(許さない)
許せない。このままにしてなるものか。仰向けにのしかかれた身体は、怒りに伴ってひどい熱を持ち出した。あつい。それに、なんだ、この、激痛。
頭痛がする、骨が軋む、喉の奥が焼ける、腹の底がどろどろと醜い火で燃え盛る。
けれど胸のあたり——心臓が、まるで凍りついたかのように冷えきった感覚。
これは、なんだ。
「……大いなる、我が、祖、よ……」
唇が勝手に動く。けれど意志はきつくおのれを縛る。力を寄越せ、門よりいづる異霊ども。わたくしの意志のすべてを成せ。この怒り、この衝動、この殺意。あまさず呑み干して、いいからさっさと、
(わたくしの命をきけ!!)
——刹那、世界が青く凍った。
心臓を一突きされ、そして砕け散った、そんな衝撃が走ったと同時だった。凍る、いや——青く、燃えたのか? 呑まれたのか?
呆然としていると、どこからか轟音とともに濁流が押し寄せてくる。暴力的な水がヴィフィスを押しのけ、リシェリアを攫う。ごぽ、と泡をこぼす口を慌てて塞いだ。なんかわかんないけど死ぬ! と青ざめたリシェリアだったが、どういうわけかまったく息苦しくない。それに、自分は溺れているわけではないようだった。
(なに、これ……)
怪訝に思ったとき、すいと半透明の筒みたいなものが脇をすり抜けた。いや、擦り寄せられた。
「え……?」
筒は、胴体だ。頭の上部から流れるやわらかな毛は途中から水になっている。鱗は複雑なきらめきを放つ。巨大な蛇のよう。いかめしい造りの顔が、リシェリアの頬をつついた。耳らしきあたりには立派な氷の角がある。
リシェリアはぽかんと、その異霊を見つめた。
「……まさか、水竜?」
ご名答、というように水竜は目を細めて緩慢に首を振った。機嫌のよさそうな仕草だった。
(こ、これが……うちの、祖たる大異霊!? えっ、蛇じゃん! 大蛇じゃん! 竜じゃなかったの!?)
ていうかなんかこれ、前世で覚えがあるっていうか……ファンタジー世界の青龍みたいな……なぜアジアン。あ、でも翼もある。不思議だ。
「えっと……ご、ご先祖、さま……? お助けくださり、ありがとうございます……。でも、なぜ出ていらしたのですか」
水の中で喋るという離れ業に現実感がログアウトである。しかしとりあえず聞いてみる。水竜は何やら微笑ましげにリシェリアを見つめてくる。言葉はなかったが、どうしてか言いたいことは伝わった。これも彼——彼女? ——の力だろうか。
「わたくしが、喚んだ、のですね……」
しかし、リシェリアの霊力は高い方だが、能力はそれほどでもないと自覚しているつもりだ。まさか祖を呼び出せるなんて、ありえない。なんか状況と条件が合っただけの気がする。あと火事場の馬鹿力。というか、十の儀式しなくても呼び出せるんですね……ますます儀式の意味。
「あ! わたくしの従者がいるんです。このままじゃ溺れてしまう……!」
心得ている、というように水竜は頷いた。はたして、彼の示す方にナスティはいた。ぐったりとしているが、きつい眼差しで周囲を警戒もしている。
「ナスティ!」
リシェリアが叫んだ途端、ふっと水が引き、ナスティは顔をあげた。
「そいつら縛りあげなさい! 骰子結界に閉じ込めて!」
ナスティは即座に動いた。ふと、リシェリアは自分にかかっていた術が完全に切れていることに気づいた。おそらく術者が気絶でもしたのだろう。
ぽたぽたと髪の先から水がしたたる。びしょ濡れだ。寒い。
……でも、これだけの異霊を呼び出して力を使っているのに、ほとんど負荷がない。疲れもない。腐ってもドッグワーズの直系ということなのだろうか。
考えていたとき、ガッと黒い手が伸びてきた。間一髪で避ける。水でなぎ倒されたと思っていたヴィフィスだった。なんつう体力だ。
「この、ガキ——っぐあ!」
短剣を振りかぶったヴィフィスをナスティが踵の先で蹴り飛ばした。男が落ちた先にナスティは飛び乗り、容赦なく踏む。ヴィフィスの呻き声を冷徹に無視し、彼の胸ぐらを掴み上げて何事か囁いた。目を見開いたヴィフィスはあっという間に骰子結界の中に放り込まれる。
これで一段落、のようだ。
リシェリアは疲れた声でナスティを呼んだ。従者はすぐ駆け寄ってくる。傷だらけの姿が痛々しい。罪悪感が胸を締める。
「ナスティ、ごめ……」
「——」
「……ナスティ?」
従者はなぜか真っ白になって硬直した。かちんこちんだ。
「ちょっと、どうしたの……ああ、傷が痛むのね……? ナス、」
「——り、シェリア、様。汚れてぼろっぼろで大変申し訳ないですが一刻も早くこれ上に着てください今すぐ」
「おぶおっ」
蒼白な顔をあらぬ方に向けながらぐいぐいと彼の上着を顔に押し付けられた。いや、あの、わたくし一応おまえの主人よ、まだ、主人なんですけど。むすっとしつつ、上着をはおる。その段階になってようやく自身の姿を把握できた。ああ、確かにこれは酷い。布切れを肩にかけてるみたいな、ほぼ裸状態だし、痣だらけの傷だらけ。胸元も首元もうっすら切られている。汚い身なりにもほどがあった。ドッグワーズ家にはふさわしくない恰好だろう。
「ありがとうねえ」
「いえ……、あの、リシェリア様」
何か言いたげに、彼は主人を窺う。なんとなく察して苦笑する。
「……たぶん、大丈夫よう。触られただけ」
ナスティは泣きそうな顔になった。彼にしては珍しい、表情豊かな顔だ。ついついじっくりと眺めてしまう。大丈夫じゃないですよ、と彼は呻いた。
「申し訳、ありません。僕は、何のお役にも立てなかった」
リシェリアは瞬く。
「……いいえぇ? おまえがこなかったら、わたくしは十の儀式の資格を失う身にされていたわよう。おまえがいたから、祖も呼び出せたのだろうし、おまえは充分役に立ったわぁ。巻き込んで申し訳ないとは、思うけどねぇ……」
「僕は、腐ってもあなたの従者です。巻き込むとかではないです」
思いがけず強い調子で反論された。なんだそれ。真面目か。
「そ、そう? もっと、自分を大切にした方がいいわよう」
「それは! 僕が! あなたに申し上げたい!」
「はあ……でも今回は不可抗力というか、わたくしが自らこんな目にあったわけじゃないしねぇ。許してちょうだいな」
ひらひらと片手を振ると、ナスティは嘆かわしいといいたげに大きなためいきを吐いた。心外である。
と、彼はごく自然に滑らかな動作で跪いた。小さなリシェリアより、さらに低いところに頭がくる。
「——我が身我が心、すべてはあなたのもの。この命尽き果てるまで、身命を賭していかなる敵からもあなたを守ると誓約致します」
リシェリアは唖然とした。
これは、たぶん、主君に捧ぐ誓い、なのだろう。以前家庭教師に教えられたような……こんなことをされるわけないと当時は聞き飛ばしたのだが。ええと、どうすればいいのだろう。ていうか、なんか同情というか憐憫というか責任感というかそういう、それっぽい気持ちで、こういうことしてナスティは後悔しないのだろうか。これ、駄目なんじゃないかな。だってもっと仕えたい主人を見つけたときとか困るよね。ああ——でも——ナスティは、じっとリシェリアの返答を待っている。
ごくり、と彼女は唾を呑み込んだ。
「……では、誓いましょう。わたくしをおまえを庇護し、持てる力すべてでおまえを生かします」
ぎょっとしたようにナスティは顔をうち上げた。
「は……!?」
「よいですね」
「いえ、」
「よいですね」
「……はい」
項垂れる従者に手を差し出す。ナスティはそっとリシェリアの手の甲をいただき、ひたいに押し当てた。ふー、とリシェリアは息を吐き、
「……そろそろ無理」
どさ、とナスティに向かって倒れ込んだ。