3
「あ、ヴィフィスさん。このガキ起きましたよ。どうします」
「おう、ご苦労さん。ま、仕上げは誰がこれを食うかだが……ヤりたい奴いるかあ」
一段低い声が面倒そうに呼びかけると、どっと笑いが広がった。
「ちょ、性癖暴露させないでくださいよお」
「おれガキはそんなになー、今こいつきたねーし」
「いやでもけっこうきれーな顔してたじゃん。顔だけ洗う?」
「おい、そんな時間ないぞ。誰かが見張ってなきゃいけねえし、その間こいつのこと押さえつけとく奴もいる」
「えっその役って見てるだけっすか? それはつらいなー」
そうだそうだとブーイングが起こる。どの世界でも、不満が弾けるとこうなのかと、そんなことを思った。次の仕事の話をする彼らを目だけで見上げ、リシェリアはこいつらを殺してやりたいと思った。八つ裂きにして焼き払って心臓を突き刺して足の骨を砕いて腹の肉を裂いて眼玉をくり抜いて腐ったことばかり言うその口を剥ぎ取って喉の先まで剣で貫いてやりたいと思った。
『リシェリア』も、こうだったのだろうか。
こんなふうに扱われ、犯され、絶望したのか。世界を憎んだのか。殺してやると誓ったのか。
ああ、復讐したい。その気持ちが、よく分かる。
「……あ? んだ、その目ぇ」
男のうちのひとりが、酷く不快そうにリシェリアを見下ろした。蔑んでいる。この男は、クズの分際で、リシェリアを愚弄している。死ね。死ね、死ね、死ね。こんなに痛いのに、意識も飛びそうなのに、リシェリアの腹の底はマグマのように煮えたぎって、火よりも暗く熱い殺意でいっぱいになる。この、我が身ばかりを愛おしむ激情。
確かに自分は『リシェリア』だ、と理解した。違和感などない。キャラクターに引き摺られたなんてとんでもない。この怒りは、苛烈さは、確かにリシェリアのものだった。
「おい、聞いてんのか糞ガキ!」
「おまえちょっとうるさい。蹴りすぎて耳壊れたんじゃねえか」
「けどヴィフィスさあん……」
何甘えた声出してんだよクソが。きもいんだよ死ね。胸のうちで怨嗟を吐くリシェリアの前へ、ヴィフィスと呼ばれた男がしゃがみ込む。彼女に対して欠片も興味を抱いていない、冷めた眼差しが降ってくる。彼は民間で流行りの細い煙草を取り出して口に銜えた。
「おい、火ぃくれ。あと、こいつ喋れるようにしろ」
「へ? あ、はい」
男のうちのひとり、術者が頷いた。すぐさま、じゅぼっと煙草の先端が燃え上がり、ヴィフィスはふうっと煙を吐く。リシェリアの顔面に。思わず咳き込んでハッとする。口が——喉が動く。
ヴィフィスが片頬を歪めた。
「どーも、かわいそうなお嬢さん。アンタも不幸な子どもだねえ。かわいそうな子どもって、俺は嫌いじゃないがね。ま、幸福から突き落とす方が楽しいんだが……アンタはそういう点じゃ、いたぶり甲斐がない」
そんなこと知るか。どんな文句だ。声が出せるようになっても、身体の消耗が激しいのでろくに言い返せない。そもそも言い返してもろくなことにならないだろうから、視線だけを向ける。ヴィフィスはひょいと腕を伸ばしてくると、リシェリアの頬を片手で掴んで引き寄せた。ものすごい力だった。割れそうなほど、容赦のない力加減。間近で腐った息がかかる。
「いいこと教えてやろう。アンタの家は、アンタが消えてもさほど気にしていないようだったぞ。数人、人を探しにいかせて終わり。母親サマは顔に泥を塗ってと激昂していたようだが」
それは、予想通りだ。目的がリシェリアの考えた通りなら、連絡、すなわち身代金の要求や何かの取引を持ちかけたりなどしていないのだろう。ならば、家の反応はそれで普通だ。十の儀式は、主役とはいえ、リシェリアひとりいなくなったとしても困りはしない程度の儀式だ。一族のものは集められるが、大々的に客を呼ぶようなものではない。せいぜい、長老を待たせることに気を揉むくらいだ。
何を当然のことを言っているのだろうと訝しむ彼女を、ヴィフィスは嗤う。
「哀れだなあ。仕事とはいえ、同情を禁じ得ないよ」
下卑た嗤い声が部屋中に充満する。なんて不快なのだろう。けれど、牙など見せてはいけない。隙がほしい。ほんの少しでもいい。リシェリアが、彼らを痛めつけることは、できるだろうか。
「……ど……して……?」
掠れてひび割れてか細い声。意識なんてしなくてもそんな声が出る。暴行のあとがまだ身体を蝕んでいる。
「うん?」
「……どう、して……わたくし、を……」
「ああ」
ヴィフィスは笑った。どこかそら寒い、純朴とさえ思えるような笑顔だった。
「占が出たのさ」
アンタが、ドッグワーズの祖を呼び出すってな、と。
あんまりにもあっさりと答えられ、思考が停止する。
「ちょおっと言っていいんですかあ」
「ま、これくらいはな。土産ってやつだ」
「ヴィフィスさん子どもに甘いなあ」
「まーおれらは金さえ貰えればいいしなー」
にわかに騒ぎ出す男たちの声を、リシェリアは聞いていなかった。せん、と口の中でつぶやく。
(占……って……——星喚ばいか! え? っていうことは……)
星喚ばい、というのは術の中でも特殊で、先予視の異霊と脳内で交信して予知をする。のだが、未来というのは一秒ごとに変動を繰り返し、また幾筋もの分岐先が同時間軸に提示される。ゆえに、占をまともに行えるものは少ない。数分後などならともかく、二日以上は大きな未来だ。
しかし例外はいる。
ショーンズウィン家の傍系も傍系のアヴエスウェル。数代前からほぼ独立状態にあり、何十年か前に星喚ばいの天才を輩出して以来めきめきと頭角をあらわしている、新興一族だ。
舌打ちしたくなった。なるほど、薄いとはいえ僅かには六家の血を持つという、他家とは違う自負と、滅多に現れない天才の保持による自信。普通なら手なんて出さないだろう六家に六家以外で噛みつくにはまあなくはない立ち位置だ。それに、せっかく星喚ばいの使い手を旗手に新進気鋭で突き進んでいたところを、もし祖を呼び出せる天才が六家なんかから出てきたら霞んでしまうと焦るのも分かる。今の自分はただのドッグワーズ家の恥さらしだが、『リシェリア』はこの時点ではまだ家族に期待を抱く努力家だった、と過去回でそんなモノローグがあった気がする。そもそも本編では天才というか天災みたいな強さを得ていたのだ、順当に行けば祖も呼び出せたのかもしれない。今はポンコツだが。繰り返す。今はポンコツ。
(……アヴエスウェル。勢いづいてはいるけど、たぶんまだそんなに土地は持ってないはず。で、ショーンズウィンの傍系。室内が僅かに明るいということは、まだ夜じゃないってこと。うちの屋敷から離れた場所だとしても、まだ王都の中なんだろう。じゃ、ショーンズウィン家周りが多いのは——北東部のジャスラン地区?)
疲弊した顔を装いながら、光速で頭の中身を回す。
(でも、武器庫……じゃないかもしれないけどそれっぽいし、さっきからだいぶうるさくしてる。でもざわめきも何も聞こえない。いや、消音を使ってるのかな。けど術者はあのひとりだけっぽいし、あのひとにそんなに平行して使えるとは思えない。ジャスラン地区は商業区だし人の通りも多いから、消音できてないならこんなに自由にはできない、よねえ。でも……)
ショーンズウィンとは袂を分かったからまったく別の場所に移ったのか?
(そういえば、こいつらの靴は、真新しい軟らかな土で汚れてる……)
となれば、外は石畳ではない——街区ではないのか。ドッグワーズ家から離れて、数時間経ってもさほど暗くならないところ。
獣の声も虫の声もしない、土ばかりの場所。
あ、とリシェリアはこぼれそうになった声をこらえる。もしかして、ジャスラン地区の外れにある関門付近の貧民窟か。あそこはまだ未開発で、道も敷かれていないし、金を握らせれば人払いなど簡単だ。路地も多いから、隠れ家になる建物もあるだろう。違法行為に精を出す人間が集っているから、武器庫があるのも納得だ。
とはいえ、証拠も何もない、完全な推測だ。これで間違っていたら目も当てられない。
「家族に恵まれないとはいえ、美味しい暮らしをしていただろうに、不幸だなぁ。ま、恨むならアンタの家に生まれたことを恨むんだな」
まるでごくふつうの、そこらにいる大人のように良識めいた喋り方をする。そのことが、他の男たちよりもさらに腹立たしく感じる。何をまともぶってやがる。仕事だがなんだか知らないが、引き受けていたぶろうとしているのはおまえらだろう、と。
そもそも、リシェリアは不幸などではない。そんなふうに思ったことなどない。家族に恵まれないとこの男は言うけれど、そんなことはないのだ。ドッグワーズの家族は皆、リシェリアに対する愛情など持ってはいないだろう。それはものごころついた頃にはとっくに理解できていた。ドッグワーズの血に役立つ駒としてしか求められていなかった。けれど、リシェリアだってそう変わらない。愛されていないと分かって、愛されようとはしなかった。しようとも思わなかった。それならそれで良いと諦める——いいや、切り捨てたのはリシェリアだ。努力も見せなかった。そんな子どもを疎んで恥じてないものと扱いはすれど、べつだん躾と称した乱暴をふるってくることも、きょうだいによるいじめもない。それは、リシェリアにとっては素晴らしいことだ。とても楽である。
だから、リシェリアは不幸ではなかった。今、ここで狼藉を受けるまでは。
ヴィフィスがリシェリアの胸ぐらを掴み、一寸の迷いなく短剣で衣服を切り裂いた。胸元あたりに刃が掠り、痺れるような痛みと同時に血が滲んだ。
「さて、お嬢さん。アンタはじっとしているだけでいいさ。すぐに終わる」
淡々と彼は言った。ふとい指がリシェリアの傷だらけの身体に伸びてくる。地獄がはじまるのだ、と思った。こいつらは、まだ十になったばかりの良家の少女には、そういう知識などないと考えているのだろう。彼らの顔は泣き叫ぶ少女を予期して醜悪に笑み歪んでいる。怒りが。恥辱が。憎悪が、心臓を焼く。恐怖よりもなお強く、このままでなるものかと負の感情が暴れ回る。なぜなら正義の味方など存在しない。努力を怠った自分は、たかだか消息が途絶えた程度で助けなどのぞめない。だから。
これは、賭けだ。
でもやるしかない。
「……を……に……」
「ん?」
両腕を男たちふたりに踏みつけにされ、足もまた同様に押さえられている。唯一自由な口を——悲鳴を望まれているだろう口を、必死に震わせる。
「……アグナ、運命よ……り、はや、く……我が、意思を……飛ばせ……」
きれぎれの声は聴き取り辛く、明瞭としない。だから男たちはただ奇怪そうにリシェリアを覗き込む。直接皮膚をなぞっていた手が気を逸らされてか、少しの間止まる。
「ジャスラン、ゴード、西日の木造……」
「! こいつ、術使ってやがる!」
ほお、と暢気な感心の声。
「伝令の術か。やるな。まあもう遅い」
「……っ!」
くつくつとさも憐れむように笑って、ヴィフィスの手がリシェリアの口を塞ぐ。息ができない。けれど続ける。喉が動くなら。唇が動くなら。
「い、け……!」
くぐもった声は、しかし確かに術を成した。胸の奥がじりっと熱く焼けて、異霊がリシェリアの望みを引き受けたことを伝えられる。次は——次は、ブラナ。伝達の契約異霊の他、常時契約を交わしている異霊を心に思い描く。
「ブ……ラ、ナ……化鳥の羽根……讃え……燃や、せ……、! ——っい、」
ぐいと足を棒のように雑に引き上げられ、思い切り頬を叩かれた。がは、と血を吐く。ひゅうひゅうと喉が鳴る。意識が朦朧としてくる。でも、駄目だ。まだ駄目。術は、今の術は成ったのだろうか。視線を走らせたが、火の手は上がらない——いや、そんなことはない! 微かにだが、燃える匂い。
「はいはい、そろそろ黙ろうな。大丈夫、死にゃしないさ」
ヴィフィスはリシェリアの抵抗などまったく脅威に感じないらしい。それは、そうだろう。たかが十歳児の術なのだ。身勝手に触れる手を怖気と焦りで、無理と分かっていても身をよじって避けようと——あれ?
動かせる。いや、そうか。さっき、両手両足を踏みつけにして押さえられた。あのときから少しずつ術が解けていたのだ。そして今、拘束以外の術を使わなければいけないから、ずいぶんと緩んでいる。
「うっわ、おれ水系とは契約してないんだよなー。今喚べっかなあ」
「はよしろよ、せっかくのお楽しみだぞ」
「いや火の中でやるのもなかなかオツ……」
「変態か!」
ぎゃははは、と男たちが笑い合う。このままでは、すぐ火は消される。リシェリアは犯される。そんなの、ぜったい、嫌だ。愚かにもまた、涙が滲みそうになる。まだしっかりとは動かない身体に鞭打ち、ヴィフィスの手をなんとか抗う。往生際の悪いリシェリアに、だんだんと彼は苛立ってきていた。じっとしろ、と腹を殴られる。くそ、痛い。無理か。自分は、結局『リシェリア』と同じ道を——
「リシェリア様」
声が、聞こえた。