自信のない彼女の話
『自信のない彼の話』の彼女sideです。
これだけでも読めるように作ったつもりですが、念のため。
『飯島課長』
呼び止めようとした言葉は自分でも驚くほどか細くて、多分気付いてもらえないだろうと諦めたのに。
迷わず振り向いた彼が、彼女を見て浮かべた表情はたぶん驚きと戸惑い。
彼の表情だけが一年前とは違う、そんな再会だった。
営業の花形だった彼としがないOLである彼女の付き合いは、決して風当たりのいいものではなかった。
告白してきたのは彼の方で、付き合ってくれと言われた彼女は当時大いに戸惑った。
彼の告白を本気になんて取れなくて、最初は何度も断った。
彼女が嫌いで断っている訳ではないと彼も分かっていたのだろう、彼は何度も食い下がった。
どうして私に、と聞いた。
当時彼のことを好きな女性はたくさんいて、交際を迫る女性に彼はいつも囲まれていたのに。
君じゃなきゃ駄目なんだ、と彼は言った。
君はいつ見ても穏やかに笑っていて、つい君の方をいつも見てしまう。そのうち他の表情も見たくてたまらなくなって、我慢できなくなった。
俺と、付き合ってくれませんか。
了承の意を込めて頷いた彼女に、整った相好を崩した彼は、とても嬉しそうだった。
女の嫉妬はとても恐ろしい。
それは常に端のほうで暮らしていた彼女にとっての『それ』は、今まで見ているだけのものだったのに。
女性に人気のある彼と付き合い始めてからは、彼に気のあった女性の嫉妬は全て彼女に向けられた。
好きな人にそんな嫉妬を見せてはいけないという、くだらない矜持だけはあったらしい。
恋する女たちの嫌がらせは、部署の違う彼には気付かせないように。
巧妙に、巧妙に繰り返される。
『何であの子が?』
『どうせすぐに飽きられるんでしょう?』
繰り返される陰口に、仕事の妨害。
アプローチされても全くなびかない彼の不満もあったのだろう。
どんどん嫌がらせはエスカレートして、相手が先輩だから周りの同僚もあまり逆らえず、気まずそうに彼女の周りから離れていった。
彼女はひたすら耐えた。
優しい彼にくだらない告げ口をするのは嫌だったし、部署も違う彼に言うことで、嫌がらせが増すかもしれないと恐ろしかった。
嫌がらせは、一年も経つと自然になくなっていった。先輩方は見込みのある他の男性職員に鞍替えし、先輩たちの重圧がなくなった同僚たちも、彼女に自然と声をかけるようになった。
なんて現金なと呆れる彼女も、周りの態度の軟化にはホッとして涙が出そうになった。
彼女の中にいまだ残る周囲への不信感と、思いのほか大きかったダメージはあったけれど。
彼女はそれを忘れることにした。
忘れられると思っていた、のに。
彼と彼女の付き合いは、とても穏やかなものだった。忙しいはずの彼は、とても多く彼女の為に時間を割いてくれて、忙しいことをおくびにもださずに彼女の隣で微笑んでくれる。
どんくさいと散々言われて自分でも自覚している彼女のペースに付き合ってくれる彼のことを、彼女もだんだんと好きになっていった。
こうして彼が当たり前にそばに居るようになって四年目。
彼女はとても大きなミスをしてしまった。
大事な書類を紛失してしまったのだ。
当然上司はとても彼女を怒鳴った。
頭を下げて、ミスの後始末をひたすらする日々。
精神的にボロボロになったが、まだ耐えれる範囲だったのに。
まあ、須崎さんは飯島課長と結婚して辞めたら勤務評価なんて気にしなくていいしねー?イイヒト捕まえてる人は楽よねー?
予想外の一言、だった。
嫌がらせをしなくなったとはいえ、彼と付き合っていることで彼女を妬んでいる先輩の一人が言ったことは、彼女の最後の一線を超えた。
そんな目で見られていたのか。
今まで嫌がらせになんか負けるかと頑張ってきたのに。
彼女の仕事へのこだわりが消えて行くような気がした。
このままじゃ、もう、頑張れない。
気がついたら家に帰ってきていた。
自分は知らないうちに帰社していたらしい
。何もする気が起きなくて、放り出していた鞄から携帯を取り出して彼の名前を探す。
少しでも声を発したら、涙腺が崩壊しそうだ。
メールが来ていた。
おつかれさま。仕事詰まっているようだけど無理するなよ。仕事がひと段落したら映画にでも行こうか。
気付くと涙が何筋も頬をつたっていた。
「…っ」
ー私を必要だと言って欲しい。
1人だけでいいから、それだけで頑張れるから。
あの時。
あの発言で、空気が変わったのが分かった。
あの発言の後振り向くのが怖かった。
この中で何人が同じことを思っているだろうと思うと吐き気がした。
忘れられると思っていた記憶がまざまざと蘇ってきて、彼女は怖かった。
私はまたあのような嫌がらせに耐えられるだろうか。
考えずにはいられないことに無理やり蓋をして、彼女は震える手で彼にメールを送った。
崩れるように眠ったが、起きても疲れは全く取れなかった。
何とか仕事もひと段落した、久しぶりのデート。
『別れましょう』
彼女は自分が口走った言葉に愕然としていた。
彼女はただ彼に、必要だと、好きだと言われたかっただけなのに。
彼にどうして、と聞かれて好きな人ができたなんて大嘘をついてしまったことを激しく悔いてももう後の祭り。
彼は分かった、といって立ち去ってしまった。
彼の後ろ姿が見えなくなるまで何も言えずに立ち尽くして。
…彼女は、優しい彼を失った。
あの別れを思い出すたび、彼女は後悔する。
素直に彼に言えば良かった。
あんな変化球を投げられて、彼はとても迷惑したことだろう。一方的な別れ方をした彼女にさぞ呆れたにちがいない。
あの後自分の勝手さを思い知った彼女は彼に会おうとしたけど、彼には『新しい彼女』がそばにいて。
その『新しい彼女』が、昔彼女に嫌がらせしていた張本人だったこともあり、結局一言も話せないまま。
一年が過ぎた。
彼は彼女と別れたあとますます仕事をこなすようになっていて、課長にまで昇進していた。
彼女は相変わらずただのOLのまま。
彼と彼女の距離はますます離れて行く一方だった。
このまま告げられないかもしれないと半ば諦め始めた彼女の耳に、彼の本社栄転の話が飛び込んできた。
それを聞いた瞬間何も考えられなかった。
身体中がどこもかしこも悲鳴をあげていて。
こんな苦しい思いをするくらいなら、最後に一度だけ。
彼女がいることは知っているけど、一度だけ。
そう決めて、彼に声をかけた。
彼は全く変わっていなかった。
仕事で疲れているのだろうか、少しやつれ気味だけれど。
相変わらず整った相好を崩して彼女に笑いかけてくれた。
彼との話が終わりに近づいても、やっぱり彼女は何も言えないまま、立ち去ろうとした。
待ってくれと彼に呼び止められて彼女は驚いた。
ましてや、幸せか?なんて。
彼はどこまでも優しい。
もう話すこともないだろう彼と、こうして話している今は、彼女にとって最高の幸せだ。
願わくば彼が憶えている自分が、笑顔でありますようにと願って、彼女は精一杯の笑顔を浮かべた。
笑顔に、なっていただろうか。
彼と別れて歩きだしてからはもう、涙をこらえることはできなかった。
周りの人はぎょっとしているだろうが、もうどうでもいい。
そのままえぐえぐと泣いていると、急に肩にぎゅっと負荷がかかった。
そのまま振り返ると、
ー彼がいた。
反対の方向だった筈の彼が、息を弾ませて立っていた。
「どうして泣いてるんだ?彼氏とうまくいってないのか?まさか暴力とか振るわれてないよな?」
思いもよらない彼の言葉に唖然とする。
彼は彼女の沈黙を違う意味にとったらしく、更に言い募る。
「振るわれてないのか?じゃあどうして泣いてる?君が人前で泣くなんて相当辛いんじゃないのか」
どうやら、彼の中では自分には彼氏がいるらしい。
「ちょっと、ちょっと待って!」
ー彼女は、彼の勘違いを解くためにようやく口を開くことができそうだった。
彼女からすべてを聞いた彼は脱力したようだった。
そのまま説教が始まりそうなのを感じ取った彼女は、必死に話題を逸らす。
「別れたあと、南原さんと付き合ってたの?」
南原さんというのは例の『新しい彼女』のことである。
「は?南原さん?」
「あなたの追っかけ!知らないの?」
「ああ、君と別れた後アプローチをかけられたことはあったけど、相手にはしなかった」
「へえ、南原さんって秘書課で有名な才媛なのに」
言われた瞬間心の中に満ちる安堵に目をそらして、彼女は照れ隠しの言葉を口にした。
君しか考えられなかったんだ、と彼に臆面もなく言われて、結局そんな努力は無駄になったけれど。
真っ赤になった彼女を抱きしめた彼は、その後怒涛の勢いでプロポーズまで突き進み、あっさりと転勤に彼女を連れて行った。
これは自分にいまいち自信のなかった彼と彼女の、ある恋の話。
拙い文を最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
これからも投稿していきたいと思いますので、よろしくお願いします!