麺
ずるずると麺をすする音だけが響いている。
閉め切られた室内は、クーラーはおろか扇風機すら無く、蒸し暑い。
テレビもラジオも無い無音の店内。
そんな中、僕は一心不乱に麺をすすっていた。
「美味しいですか?」
「へ?」
唐突に横から声をかけられて顔を上げ、
思わずそちらに振り向くと、二十台半ばくらいの女性が僕を見ていた。
綺麗な人だった。
「美味しいですか?」
彼女はふわりと微笑みながら、僕にもう一度問いかける。
彼女の手元にも麺の入ったどんぶりが置かれていた。
「えっと……はい。美味しいです、けど……?」
「そうですか。どれを食べられているんですか?」
「醤油、です……けど……」
「そうですか。美味しいですよね、醤油も」
そう言って彼女はもう一度微笑むと、自分のどんぶりに視線を落としゆっくりと麺を食べ始めた。
唐突に始まった会話はやはり唐突に途切れ、僕も急いで麺をすする事を再開する。
ずる、ずるずる、ずるり、
再び麺をすする音だけが室内を支配する。
さっきまでは自分の音だけしか聞こえなかったが、
今は二人分の音が聞こえてくる。
ここはすぐに麺が伸び、その上量もやたらと多い。
その代わりとにかく安い事で有名な店なのだが、
それでも普段はせいぜい僕や懐の寂しい学生くらいしか見かけなかった。
だからいつも隣に誰が座ろうと関係無かったし、気にしていなかった。
今日だって人が隣に座った気配は辛うじて感じたけれど、
いつもの様に学生だろうと特に気にも留めなかった。
僕はすする事を中断して、そっと隣を盗み見た。
彼女は栗色の長い髪を軽く一つに束ねられており、
恐らく、麺を食べるのに邪魔にならないようにと思っての行動だろうと僕は思った。
彼女の視線は迷う事無くまっすぐにどんぶりへと注がれている。
するすると淀み無く麺は彼女の口へと運ばれていく。
美味しそうに食べる人だと思った。
食べ方が綺麗、とでも言うんだろうか。
ただ僕個人としては、女性が食べ切るにはこの店は聊か量が多過ぎると思っていたのだが。
最終的に彼女はどんぶりを持ち上げ、スープも全て飲み干した。間違いなく完食だった。
この量を食べ切れる女性が居たとは……衝撃的だった。
彼女がスープを飲む度にごくり、ごくり、と動く喉が何処か艶かしかった。
自然と僕の喉もごくりと鳴った。
「ごちそうさまでした」
ごと、と、
どんぶりを置きそのまま代金も其処へ置く。
常連客は大体店主を呼ばずに一緒に代金も置いて行く。
ならば彼女も常連客だと言う事になる。
僕はどうして今まで気が付かなかったのだろうか。
「またね」
「え……あ、はい」
軽く束ねていた髪が解かれると、外からの光を受け、
その栗色の長い髪はキラキラと輝きながらさらりと宙を舞った。
彼女は僕にもう一度だけ微笑むと、そのまま店を出て行く。
「また、か……」
僕は再び麺をすすり始める。
あと少しで食べ終わるそれを。
「そういえばあの人、何食べてたんだろう……」
聞きそびれたなぁ……などと考えながらも、
「また」があるならば、その時に聞けばいいかと思い直す。
次は僕の方から何を食べているのか聞こう。
ちゅるり、
最後の麺が跳ねながら口へと吸い込まれ、
僕は代金を置いて店を後にした。