* 2 * 助けてくれてありがとう
午後の授業は散々だった。
体育の授業ではバレーボールを顔面で受け止めちゃうし、続く化学の授業ではビーカーを落として割って、指先を切ってしまった。集中力の切れたあたしなんて、何をやってもボロボロなのだ。ちゃんとしようと努力しても結果は今一つなんだから、良くなりようがない。ならばこんな日は家でおとなしくしているのが一番だ。
――なんで今日に限って晴れるんだろう。
大雨だった昨日とはうってかわって、今は太陽が顔を出していた。お天気アナが「梅雨の合間の貴重な青空を利用して、たまった洗濯物を片付けましょう!」と明るく元気に言っていたのをなんとなく思い出してげんなりする。
――はぁ……身も心もズタボロだよ……。
これが失恋というものだろうか。告白もできずに失恋だなんて情けない。せめてあと一回くらい、まともな会話をしたかった。
――そういえば、初めから会話になってなかったし……。
沈んだ気持ちを隠すことなく、あたしはうつむいたままとぼとぼと歩く。顔を上げて歩けるわけがない。目は涙で充血しているし、鼻はボールを受けたせいで赤くなっている。そんな状態を晒せるわけがない。
彼と出会った交差点。あたしは自分がそこに来たことにも気付かずに下を向いたまま直進する。
「――前見ろっ!」
不意に声が聞こえた。
あたしははっとして顔を上げ、一歩下がる。前を一台の大型バイクが猛スピードで過ぎていった。
「……」
びっくりして、あたしは口を半開きにしたまま立ち尽くす。
――しかも、今の声って……?
幻聴かと思ったが、探さずにはいられなかった。あたしが会いたいと強く願っていたがために、全然知らない誰かの声が彼の声に聴こえたのだとしても。
――ううん。あの乱暴でがさつな感じの喋り方は、きっと……。
あたしは辺りを見回す。時間が中途半端だからか、回りにはほとんど人の姿はない。しかし、あたしは交通量の多い二車線道路の向こう側に、ホーガクの制服を着た人影を発見した。
――隆臣くんだっ! しかもまた、助けられちゃった?!
あたしは信号が青に変わるのをまだかまだかと待ち、左右の安全を確認してから横断歩道をダッシュした。これが絶対にラストチャンスだ。逃すわけにはいかない。
あたしは彼の前に立つと、勢い良く頭を下げた。
「に、二度も、た、助けて下さって、そのっ、あのっ、ありがとうございましたっ! 大好きですっ!」
「……へ?」
隆臣くんのきょとんとした声があたしの頭上に降ってくる。
「あ」
全身がかぁっと熱くなる。
――ちょい待て、あたしっ! 今、何て言った? 勢い余って何か口走らなかった?
恥ずかしすぎて、顔を上げられない。
引っ越してしまったと聞いたときの衝撃と、告白できずに終わってしまったという後悔と、車にひかれそうになった動揺と、運命みたいに出逢えた嬉しさがごちゃ混ぜになって、一気に台詞が飛び出したらしかった。
――何やってるのよ、あたしの馬鹿っ!
「……いや……いきなりコクられてもだな……俺はあんたがどこの何者なんだかわからないんだが……」
戸惑いが滲む声。
あたしはがばっと顔を上げた。
「わ、忘れてしまいましたか? 先月ここで危うくひかれそうになったのを、あなたに助けてもらったんですよっ、あたし」
「ん……? あ。トラックにひかれかけたぼんやりオンナかっ!」
覚えていてくれたらしい。彼はあたしに人差し指を向けて目を丸くする。
「そうっ! たぶん、それっそれですっ!」
あたしはすかさず相槌を打って意思表示をする。
「……って、そういう話じゃなくてだな。俺はあんたの名前を聞いているんだが?」
そうだ。確かに名乗っていない。指摘を受けて、あたしは姿勢を正す。
「そ、それもそうですよね。自己紹介がまだでしたよね。――あたしは江戸川遥奈って言います! すぐそこの高校――藤見台高校の一年生です」
「そうか。――じゃあ、江戸川さん」
――わわわっ! 名字呼んでもらっちゃったよ!
浮かれるあたしに、隆臣くんは続ける。
「悪いが俺は、あんたとは付き合えない」
きっぱり彼は告げた。
「へ?」
あたしの頭は受け付けない。
「コクられて嬉しかったのは認めなくもないが、俺は誰かと付き合うつもりはないんだ。――じゃあな」
固まってしまったあたしに軽く手を振ると、隆臣くんは背を向けて歩き出した。
「……ま、待って下さい!」
あたしは精一杯声を出す。隆臣くんは立ち止まらない。このままではこれが本当に最後になってしまう。
――そんなの嫌っ!
自然と足が動き出す。彼を追いかけていた。
「理由を教えてください、清瀬先輩っ!」
本能的に手を伸ばした。彼の腕を掴んで立ち止まらせるつもりだった。しかし――。
「……なんで?」
質量を感じるはずだったあたしの手は、見えている彼の手首をするりと通り抜けた。もう一度確認のために手を伸ばすが結果は同じ。ついに隆臣くんは立ち止まった。
「どうやら俺、死んじまったらしいんだよ」
こちらに向けられた顔には寂しげな色。
「意味がわからない……」
頭の中がごちゃごちゃしていて整理できない。
「だってあたしには清瀬先輩の姿が見えているし、会話できるんですよ? どうして死んだって言えるんですか!」
「俺を認識できているのって、たぶんあんただけだぜ? 理由はわからんが」
隆臣くんは通りを歩く幼児を連れた母親を指で示す。あたしのほうを興味津々でチラチラ見ているのを、母親が強引に気をひいて見せないようにしていた。
「あ、あれはきっと、あたしがひどい顔をしているからで――」
「ふぅん……。ま、それはそれとして、俺はあんたの申し出に応えられない」
「そんなぁ……」
だけどここで引き下がるわけにはいかない。あたしの気持ちが収まらないのだ。何故なら――。
「そういうことだから、諦めてくれ」
再び背を向ける隆臣くんに、あたしは自分の気持ちを精一杯込めて叫んだ。
「諦められません! あたし、助けられてばかりで何も恩返しできていないじゃないですかっ!」
「良いよ、そんなの。俺とは関わらないほうがいい」
「そんな冷たい言い方しないで下さい! ――そうだっ! あたし、清瀬先輩が天国なり極楽浄土なり行けるように協力します!」
あたしの宣誓。隆臣くんは怪訝な顔をこちらに向ける。
「はぁ?」
「だって、こんなところにいるってことは、この世になにか未練があるからじゃないんですか? 未練がなくなればちゃんと成仏できるはずです!」
「成仏……」
隆臣くんにこの場から立ち去ってほしくなくて、どんどんと台詞を繋ぐ。
「とにかく、どんなことであっても、あたし、成仏できるようにお手伝いしますから!」
そこまで一息にに言い終えたとき、彼の顔には笑みが浮かんでいた。いや、正確には笑いを噛み殺しているような表情だった。
「くっ……あんた、変なヤツだな」
「?」
あたしは首をかしげる。
「だって、俺が成仏して困るのはあんたじゃないのか?」
「え、あっ、そっか……た、確かに悲しいし寂しいですけど、清瀬先輩の力になりたいんです。それに――」
続く台詞が言いにくくて、あたしは視線をわずかにそらす。
「――あたしはあなたとの想い出を作りたい。例えこの今があたしの妄想や夢や幻であったとしても」
彼の姿が見えるのが本当にあたしだけならば、彼が引っ越してしまったのが相当ショックで頭がおかしくなっているのかもしれない。そこにいる彼はあたしが生み出した想像の産物なのかもしれない。
だけどならばいっそうのこと、あたしはあたしの気持ちを整理するために彼に協力したいのだ。協力して恩返しをしたつもりになりたいのだ。自分勝手ではあるけれど、そうしないと先に進めないような気がするのだ。
「――あんたは正気だと思うよ?」
隆臣くんの優しい声。
あたしがそっと視線を戻すと、彼の横顔が目に入る。
「そんなに言うなら、ちょっと付き合ってもらおうかな」
照れ臭そうな口調で告げて、頬を掻く。そんな彼に食い付くような勢いであたしは身を乗り出した。
「本当に良いんですか?」
「自分で言い出したことだろ?」
――認めてもらっちゃった。
その事実がとにかく嬉しい。あたしはこくこくと頷く。
「んじゃ、早速行くか」
隆臣くんはくるりと向きを変えて歩き出す。方向は駅前商店街。
「え? どこに?」
「そう遠くない場所。協力してくれるんだろ?」
顔だけをこちらに戻してニカッと笑う。
「はいっ!」
あたしは彼を信じてついていくことに決めたのだった。