* 1 * お礼を言いたいだけなのに
『phantasma』幽霊/幻想
あたしは英和辞典で目に付いた単語をなぞりながらため息をつく。
――幻想? ううん、あれは幻じゃないよ。
昨日のワンシーンを思い出し、頬が熱くなるのを感じる。この気持ちは一体なんだろう。
「遥奈っち、弁当にしよー。――って、内職していると思ったらそれやっていたの?」
今はもうお昼休み。あたしの席の前に回りこんできた親友の柊澪は、手に持っていた弁当箱とペットボトルを机の上に置く。
「あ、うん。昨日はそれどころじゃなくて」
次の授業で出されていた英語の課題を机の中に片付け、バッグから弁当箱を取り出す。
「ん? 何かあった?」
澪は弁当を広げながらあたしを見て首をかしげる。彼女の大きな瞳に、あたしの困ったような悩んでいるような、それでいながら嬉しそうな顔が映っている。
「えっと、それが――」
朝からずっと報告したいと思っていた昨日の出来事を、あたしは覚えている範囲のすべて話して聞かせた。彼女はどんな反応をするだろうか。
「――で、その男の子に一目惚れしたから、どこの誰なのか知りたいと?」
「ち、違うよっ! 澪ちゃん!」
一通り話し終えたところで、澪がニヤリと笑いながらズバリ指摘してくる。あたしは慌てて首と手を一生懸命に振って否定した。
「怪しいなぁ。遥奈っち、顔、真っ赤だよ?」
ニヤニヤ顔の澪は、あたしのタコさんウインナーをさりげなく取ってゆく。
「あたしはただ、お礼を言いたいだけなの。ぼやぼやしていたら、あっという間に自転車に乗って行っちゃったから、何も言えなかったし……」
「あー、遥奈っちならありがちな展開だわなぁ。――しかしその少年、チャリに乗っていたんでしょ? しかも、それで紺のブレザーにグレーの千鳥格子のズボンだったって言うなら、ホーガクの生徒ってことじゃないの?」
「ほ、ホーガクっ!」
あたしは思わず大声を出してしまい、はっと口を押さえる。
ホーガク――正式名称は鳳凰寺学院高等部。優秀な頭脳と潤沢な資金を持つ者のみが入学を許されると噂される有名私立高校だ。自家用車で通学する生徒が多くて近隣住民からクレームがつき、家が近い学生は徒歩か自転車での通学が決められていると聞く。
とにかく、頭の出来が悪くてギリギリで県立高校に入学した中流家庭出身のあたしとは全く無縁の学校である。
「――で、見た目の特徴は? 眼鏡かけてる?」
ちゃんと顔は覚えている。だってあたしは昨夜、彼に助けられたシーンばかり何度も夢想していたのだ。次に会ったときにきちんとお礼が言えるように。これで相手の特徴をキレイさっぱり忘れてしまっては話にならない。
「眼鏡は……かけてなかったと思う。鋭い目で、睨まれたら怖そうな感じだったよ」
実際、不愉快そうに睨まれたのだが。
「なるほどね」
呟きながら、澪は熱心に携帯電話を操作している。あたしの話の途中から携帯を取り出して何かをメモし始めたのだが、一体何を打ち込んでいるのだろう。
「で、体型は? 背が高くて細身かな?」
「うん。スラリと背が高くて細身な感じ。――でも、よくわかったね」
「遥奈っちの好みは私のデータベースに登録済みよ」
にっこり笑って、澪は自分の頭を指で示す。保育園時代からの幼なじみだ。把握していてもおかしくはない……って。
「……だから、何度も言うけど、あたしはお礼が言いたいだけなんだってばっ!」
「隠さなくていいじゃない。私と遥奈っちの間柄なんだから」
言って、えいっという掛け声とともに送信ボタンを押して、澪はあたしを見る。
「ま、まだ、好きとかどうとか、そういうのわからないもん……」
あたしは残っていたミニトマトを頬張る。甘酸っぱい味が口の中に広がっていく。
「まぁまぁまぁ、鈍い子は大変だわな。――しかし、諦めるには早いと思うよ」
机に置かれた澪の携帯電話が着信を知らせてブルブル震え出す。
「どう言う意味?」
「私、部活の繋がりでホーガクに友人がいるのよ」
あたしが訊ねると、澪はメールを確認してにやりと笑む。
「み、澪ちゃん。ホーガクに友だちがいたの?」
かなりびっくりである。例え部活などでそんな機会があったとしても、ぼやぼやしているあたしは友だちなんて作れないまま終わるのだろう。声すら掛けられないかもしれないと思うと、澪の積極性や行動力がうらやましい。
「そんなことよりも、こっちの方が大事でしょ」
澪は開かれた待受画面をあたしに向ける。そこには一人の少年の名前があった。
「その交差点を通る該当の少年は一人だけ。清瀬隆臣、二年生」
清瀬隆臣。それがあたしを助けてくれた人の名前。
彼の名前を心の中で呼ぶと、心拍数がちょっぴり多くなる。なんだか不思議だ。
「――で。愛想なしで回りと距離を置きがちな人物らしいわね。カノジョもおそらくいないだろうってさ。――良かったじゃん。これでゲットできれば玉の輿で一発逆転よ!」
くるりと携帯電話の向きを変えて続く情報を読み上げた澪は、あたしの前で拳を作る。
「ゲットって、そういうこと、考えてないからっ!」
「えー。遠慮しないで良いよ? 私は全力で応援するから!」
「気持ちだけ受け取っておく」
そう答えながら、あたしは弁当を片付ける。
――だけど。
あたしは思う。
――お礼だけ言えればそれだけで良いのだろうか?
自分に向けた問いの答えを見つけ出せないまま、昼休みは終わってしまった。
――ぼんやり歩いてないで、自分の歩く道くらい真っ直ぐ見ろ。
彼が言っていたことをちゃんと実行してみると、意外と彼とすれ違っていたことにあたしは気付いてびっくりした。
部活をして帰る日ならばどうやら向こうの帰宅時間と重なるらしく、自転車で走り去る彼の姿を何度か見ることはできた。だが、自転車に乗っている人間を停めるのはなかなか難しいもので、声を掛けるのを躊躇っているうちに見えなくなってしまうし、なんとか声を出せても停めることはできなかった。おそらく向こうはあたしを意識していないし、声も届いていないのだろう。
――ううっ……。頑張れ、自分。
チャンスをものにできなくて自分を励ます毎日を過ごすこと一ヶ月。青々と茂る若葉から温かい春の陽射しがきらきらとこぼれていた五月が過ぎ去り、ぶ厚い雲が太陽を隠して冷たい雨をしとしと降らす季節になってしまった。
そして悪いことに、六月に入って数日後、ピタリと彼を見掛けなくなってしまった。一週間会えなくなったところで、あたしは早めに下校して彼と出会った交差点で最終下校時刻までずっと立ってみたのだが、その日は結局会えずじまい。あたしはしぶしぶ澪に相談することにした。
「――最近ますます落ち込んでいるなと感じていたけど、はぁ、そういうことね」
昼休みに弁当を囲みながらの雑談。まだお礼を言えていない事実を笑っていた澪だったが、最後は手を止めて真剣に耳を傾けてくれた。
「ねぇ、どうしたんだと思う? あたしはどうすれば良い?」
自然と力がこもる。気持ちが焦る。
「まぁ、それだけ見掛けられたのが奇跡だったのかもね」
「うぅ……もう会えないのかなぁ」
「わかったわかった、落ち込まないの。ちょっと聞いてみるから」
いつの間にか澪の右手には携帯電話が握られており、親指が高速で文章を作成していく。
えいっという掛け声で送信ボタンを押して待つこと数分。振動が返信を知らせた。
あたしは澪の待受画面を覗き込む。
「――え?」
本文に書かれた内容が頭に入らない。
そんなあたしをおいといて、澪はさらにメールを続けて送信。そして着信。
「こ、こりゃ、厳しいなぁ……」
固まったあたしの肩をぽんっと叩き、澪は携帯電話を閉じる。
「遥奈っち、元気出せ!」
「……」
何も言うことができない。
「引っ越しただけで、もう一生会えないわけじゃないんだよ?」
彼女は励ましてくれたが、焼け石に水とはこういうことを指すのだろう。澪の台詞は拒絶していた現実の認識を促した。
「……同じだよ」
ぽつりと漏れた声。かすれて震えているのは、これまでの不甲斐ない自分を嘆いてのことだ。
「引っ越し先がわからないんじゃ、無理に決まっているじゃん……」
あぁ、どうしてあたしはお礼の一つも言えなかったのだろう。
一通目のメールには『清瀬隆臣は家の都合か何かで急に転校したらしいよ』、二通目のメールには『転校先も引っ越し先も、誰も知らないみたい』とあった。学校に親しい友人がいなかったらしい彼は、誰にも詳しいことを伝えずにひっそりと去ったのだろう。誰かと一緒に下校している姿も見ていないので、下校仲間もいなかったようだ。
――あたしはなんでこんなんだろう?
「な、泣くな、遥奈っち! まだ希望はあるって! 私も調べるから、な、諦めるな!」
「泣いてなんかないよぉ」
視界が歪み、温かい何かが頬を伝う。あたしはそれを手の甲で拭うが、次から次に湧いてくる。
「……ありがとう、澪ちゃん。ちょっとトイレに行ってくるね」
どうしようもなくなって澪の返事を待たずに席を立つと、トイレに向かって全力で駆けた。
――あぁ、あたしは、隆臣くんのことを好きになっていたんだ。
胸が張り裂けそうで、とても苦しかった。