悪役令嬢の孫は、消された祖母を忘れない 世界中の記録からセレスティアの名が消えましたが、わたくしの記憶までは奪わせません
エミリアが帝国歴史院の院長に就任してから、三年が過ぎた。
黒い予言書による事件をきっかけに、帝国では個人の記憶を守る法律が制定された。
他人の記憶を本人の許可なく閲覧してはならない。
記憶を歴史資料として公開する場合には、本人か遺族の同意を必要とする。
複数の記憶が食い違っている場合、一つだけを真実と決めつけず、異なる証言として並べて保存する。
当初は面倒な制度だと不満を口にする者も多かった。
しかし、過去に不正な記憶魔術によって相続権を奪われた者や、偽の証言を植えつけられて罪人にされた者が次々に救済されると、制度は少しずつ各国へ広がっていった。
エミリアの仕事は増えた。
それでも彼女は満足していた。
祖母や母のように、王家を失脚させたわけではない。
国の財政を立て直したわけでもない。
だが、誰かの心が勝手に奪われない仕組みを残せた。
それは間違いなく、エミリア自身が成し遂げた仕事だった。
ある冬の朝。
エミリアは歴史院の特別展示室を訪れた。
黒い予言書の定期点検を行うためである。
本は魔力を封じる透明な箱へ収められ、周囲には複数の監視術式が施されている。
最後のページは、今も空白のままだった。
「変化はございません」
若手研究員となったニコが報告する。
黒い予言書を最初に発見した頃と比べ、彼はずいぶん落ち着いた。
以前のように廊下を走って注意されることも、ほとんどない。
「魔力の増減は?」
「正常です。外部との接続も検出されておりません」
「結構です」
エミリアは記録簿へ署名した。
そのとき、展示室の入口から少女の声が聞こえた。
「ねえ、お母さん。どうして請求書が飾ってあるの?」
母親らしき女性が答える。
「昔、悪い王様がたくさんのお金を使ったからよ」
「誰が取り返したの?」
「セレス……」
女性の言葉が止まった。
「どうしたの?」
「誰だったかしら」
エミリアは顔を上げた。
展示室の壁には、三百二十万金貨の請求書が飾られている。
その横には、祖母セレスティアの肖像画があるはずだった。
だが、額縁の中には何も描かれていなかった。
白い画布だけが残されている。
「ニコ」
「はい」
「あの肖像画は、いつ交換しましたか?」
「交換?」
ニコも白い画布を見た。
「最初から、何も飾られていなかったと思いますが」
エミリアの手から、記録簿が落ちた。
「何を言っているのです?」
「空の額縁は、権力の虚しさを表現した展示では?」
「違います」
エミリアは肖像画へ駆け寄った。
絵の具を削り取った痕跡はない。
白い画布には、一度も何かが描かれた形跡すらなかった。
額縁の下にあった説明文も消えている。
金属板に刻まれていたはずの文章は、
『王家へ返還を求めた三百二十万金貨の請求書』
とだけ記されていた。
誰が請求したのか書かれていない。
「この請求書を作成したのは誰です?」
エミリアが尋ねる。
ニコは困ったように首をかしげた。
「アルヴェイン公爵家では?」
「公爵家の誰が?」
「それは……」
ニコの額に汗が浮かぶ。
「分かりません」
エミリアは展示室を出た。
廊下を早足で進み、歴史院の中央書庫へ向かう。
セレスティアに関する資料は、専用の棚へまとめられていた。
婚約契約書。
王家への支援記録。
帝国宰相時代の政策案。
各国から届いた感謝状。
ユリウスとの結婚証明書。
すべてが残っている。
だが、署名だけが消えていた。
政策案の作成者は空欄。
感謝状の宛名も空白。
結婚証明書には、ユリウスの名前しかない。
「そんな」
エミリアは一冊の本を開いた。
『アルヴェイン家三代記』
自分が監修した本だった。
最初のページには、伝説の悪役令嬢について記したはずである。
しかし文章は別のものへ変わっていた。
『アルヴェイン公爵家出身のある令嬢は、王家による不当な婚約破棄へ抵抗し、莫大な支援金を回収した』
名前がない。
その後の帝国宰相についても、名は記されていなかった。
まるで誰かが、セレスティアという人物だけを文章から丁寧に抜き取ったようだった。
「院長」
ニコが追いついてきた。
「大丈夫ですか?」
「すぐに母へ連絡してください」
「お母様へ?」
「リディア・フォン・アルヴェインへ」
ニコは目を瞬いた。
「どなたでしょう」
エミリアの呼吸が止まった。
「わたくしの母です」
「院長のお母様は、幼い頃に亡くなられたのでは?」
「違います!」
思わず大声になった。
書庫にいた研究員たちが振り返る。
エミリアは胸を押さえ、息を整えた。
怒鳴っても、ニコを責めても意味はない。
彼は嘘をついているのではない。
本当に、リディアのことを忘れている。
「アリシアは?」
「存じません」
「ユリウスは?」
「帝国法の基礎を作った法務官ですね」
祖父の名前は残っている。
だが、彼が誰と結婚したのかは忘れられていた。
「アルヴェイン家の現当主は?」
「エミリア院長です」
「その前は?」
「先代公爵がいらしたはずですが、お名前は……」
ニコは苦しそうに額を押さえた。
セレスティアだけではない。
リディアの名前も、人々の記憶から消え始めている。
「ニコ。本日の業務を中止してください」
「何が起きているのです?」
「歴史改変の可能性があります」
「証拠は?」
エミリアは空白になった書類を示した。
「存在したはずの人物が、記録と記憶から消えています」
「院長だけが、その人物を覚えているのですか?」
「今のところは」
ニコの顔に不安が浮かぶ。
その反応は当然だった。
全世界の記録と、自分一人の記憶。
どちらが間違っている可能性が高いかを考えれば、答えは明白である。
「わたくしの記憶が誤っている可能性も否定しません」
エミリアは自分へ言い聞かせるように続けた。
「だから調べます」
「まず、何を?」
エミリアは祖母から教えられた基本を思い出した。
誰が利益を得るのか。
誰が困るのか。
何が変わり、何だけが変わっていないのか。
「人の記憶だけではなく、魔術へ依存しない記録を確認します」
紙の文字は変わっている。
絵画も消えた。
魔力を使って保存された記憶だけでなく、物質そのものが書き換えられている。
だが、すべてを完全に消すことはできないはずだ。
誰かの存在を消せば、その人物が行った仕事だけが宙に浮く。
作成者のいない法律。
建設者のいない学校。
署名者のいない契約。
そこに矛盾が残る。
エミリアは研究員たちへ命じた。
「作成者が空欄となっている文書を、すべて集めてください」
「すべてですか?」
「はい。年代や分野は問いません」
「何万枚になるか分かりません」
「構いません」
続いてニコを見る。
「帝国法務院へ行き、ユリウス元長官の個人記録を借りてください」
「理由は?」
「家族関係に空白が残っている可能性があります」
「承知しました」
「それから、誰にもわたくしの祖母と母の名前を教えないでください」
ニコが驚く。
「なぜです?」
「記憶が消えたのではなく、現在も消され続けている可能性がございます」
名前を口にした者。
名前を聞いた者。
その記憶から順に消される術式かもしれない。
エミリアだけが覚えている理由も分からない。
無闇に名前を広めれば、相手へ情報を与えることになる。
「二人の名前は、わたくし以外の前では仮称を使います」
「どのように?」
「始祖と二代目、と」
ニコはうなずいた。
「では、始祖と二代目の記録を調べます」
エミリアは歴史院を出て、アルヴェイン公爵邸へ向かった。
帝都の北に建つ屋敷は、以前と変わらない。
門にはアルヴェイン家の紋章が掲げられている。
庭には冬の花が咲き、窓からは暖かな明かりが漏れていた。
エミリアは馬車から降り、玄関へ走った。
扉を開けたのは、長年公爵家へ仕える家令だった。
「お帰りなさいませ、エミリア様」
「母は?」
家令は不思議そうな顔をした。
「お母様、ですか?」
「リディアはどちらに?」
名前を口にした瞬間、家令の瞳が揺れた。
「リディア……」
彼は何かを思い出そうとした。
だが、数秒後には表情から戸惑いが消えた。
「申し訳ございません。存じ上げません」
今、忘れた。
エミリアは確信した。
名前を聞いた直後、家令は確かに何かを思い出しかけた。
そして、その記憶が目の前で消された。
「わたくしの部屋を開けてください」
「もちろんでございます」
部屋へ入る。
子どもの頃から使っていた寝室だった。
本棚。
勉強机。
祖母から贈られた古い万年筆。
母と旅先で買った青いガラスの置物。
物は残っている。
だが、誰から与えられたのかという記憶だけが人々から消えている。
エミリアは机の下にある秘密の引き出しを開けた。
幼い頃、母に隠れて菓子を保管していた場所だ。
そこには一冊の日記があった。
エミリアが十歳から十五歳まで書いていたもの。
最初のページを開く。
『今日はお母様と一緒に歴史博物館へ行った』
次の行。
『お母様は、請求書の展示を見て恥ずかしそうにしていた』
文字が残っている。
エミリアが自分で書いた日記には、リディアの存在が記されていた。
だが、その名前は少しずつ薄くなっている。
今も消え続けているのだ。
エミリアは新しい紙を取り出し、母の名前を書いた。
リディア・フォン・アルヴェイン。
目の前で文字が薄くなる。
完全に消えるまで、十二秒だった。
次に、古代帝国語で書く。
同じように消えた。
数字へ置き換える。
消えない。
「名前という意味を認識しているのですね」
エミリアは日記に書かれた文章を、一つずつ暗号へ変え始めた。
母は「第二の銀」。
祖母は「最初の冬薔薇」。
アリシアは「黒剣」。
名前そのものを書かなければ、記録は残る。
記憶を消す術式には、標的を識別する条件がある。
エミリアが日記を暗号化していると、扉が静かに開いた。
白髪の老女が杖をつきながら入ってくる。
セレスティアだった。
「おばあ様!」
エミリアは椅子から立ち上がった。
「よかった。ご無事だったのですね」
セレスティアは孫娘を見た。
その青い瞳には、いつもの鋭さが残されている。
「あなたは、わたくしを覚えているのですか?」
エミリアは足を止めた。
「もちろんです」
「名前は?」
「セレスティア・フォン・アルヴェイン」
セレスティアは長く息を吐いた。
「本当に覚えているのですね」
「おばあ様も、わたくしを?」
「ええ」
「母はどちらですか?」
「地下の記録庫におります」
「なぜ地下へ?」
「名前を口にした使用人が、次々にわたくしたちを忘れ始めました」
セレスティアは扉を閉める。
「リディアも、自分の名前が書類から消えていることに気づきました。現在は原因を調べています」
「アリシア叔母様は?」
「国際騎士団の本部です。まだ連絡が取れません」
「急ぎましょう」
地下記録庫には、リディアがいた。
銀色の髪には白いものが増えている。
それでも机に積まれた書類を確認する動作には、一切の迷いがなかった。
母の姿を見た瞬間、エミリアの胸へ安堵が広がる。
「お母様」
リディアが顔を上げた。
「遅かったですね」
「名前を消されているのですよ。第一声がそれですか?」
「あなたなら、もっと早く気づくと思っていました」
「気づいた直後に来ました」
「それなら十分です」
リディアは娘へ一枚の契約書を渡した。
セレスティアとレオナルドの婚約契約書だった。
署名欄からセレスティアの名が消えている。
だが、契約の魔力は今も有効だった。
「名前は消えても、契約によって起きた結果は消えておりません」
「物質だけでなく、人の記憶も変わっています」
「わたくしたち三人を除いて?」
「少なくとも、わたくしの周囲では」
「血縁が理由でしょうか」
セレスティアが首を横に振る。
「アルヴェイン家のほかの親族は、わたくしのことを忘れています」
「では、三世代の悪役令嬢だから?」
リディアが真顔で尋ねる。
「術式が、そのような曖昧な呼び名で識別するとは思えません」
エミリアは言いながら、ふと気づいた。
三人には共通点がある。
それぞれが、記憶の門から生まれた小さな記憶石へ触れたことがあった。
エミリアは門を破壊した際に。
リディアとセレスティアは、新しい記憶保管庫の完成式典で。
「記憶石です」
エミリアは自分の首元を探った。
小さな透明の石が、銀の鎖につながれている。
記憶の門が砕けた際、足元へ落ちたものだった。
自分の記憶を守るための護符として、常に身につけている。
セレスティアとリディアも、同じ石を持っていた。
「この石が、記憶の改変を防いでいるのでしょう」
リディアは透明な石を光へ透かした。
「では、同じ石を持つ者なら?」
「改変された記憶を取り戻せる可能性があります」
セレスティアが問いかける。
「記憶石は、どこに保管されていますか?」
「歴史院です」
エミリアの顔が強張った。
大量の記憶石が保管されている歴史院。
そこへセレスティアたちの名を消す術式を仕掛けた者がいるなら、次に狙うものは決まっている。
「歴史院へ戻ります」
三人が屋敷を出ようとしたとき、玄関の扉が激しくたたかれた。
家令が扉を開ける。
外には帝国騎士団が並んでいた。
先頭に立つ将軍が、逮捕状を掲げる。
「エミリア・フォン・アルヴェイン院長」
「何でしょう」
「歴史改ざん、および架空の人物を用いた公金横領の容疑で、あなたを拘束します」
エミリアは逮捕状を確認した。
歴史院の予算から、存在しない人物を称える博物館や記念碑へ多額の公金を支出した。
文書を偽造し、架空の先祖を帝国宰相であったかのように記録した。
自分の家系を神聖化するため、各国の歴史を書き換えた。
黒い予言書に書かれていた未来と、よく似ている。
「証拠は?」
将軍は複数の支出記録を示した。
セレスティアの名が消えた施設。
リディアの名が消えた制度。
それらの設立費用だけが、エミリアの承認した予算として残っている。
今の人々から見れば、エミリアが存在しない祖先をたたえるために金を使ったことになる。
「巧妙ですね」
リディアが言った。
将軍は彼女を見る。
「そちらの女性は?」
「わたくしの母です」
「院長のお母様は亡くなられたと記録されています」
「その記録が改変されているのです」
「都合のよい主張ですな」
将軍は剣の柄へ手を置いた。
「同行していただきます」
セレスティアが一歩前へ出る。
「拒否した場合は?」
「抵抗したものと見なします」
「では、同行しましょう」
エミリアは祖母を見た。
「おばあ様」
「逃げれば、あなたの罪を認めたことにされます」
セレスティアは落ち着いていた。
「それに、逮捕状を出した方と直接お話しできます」
リディアもうなずく。
「まず、誰が利益を得るのか確かめましょう」
エミリアは騎士たちへ両手を差し出した。
手枷はつけられなかった。
しかし左右を騎士に挟まれ、そのまま帝国法務院へ連れていかれる。
セレスティアとリディアも、自ら同行した。
到着した法務院の会議室には、帝国議会の代表者たちが待っていた。
中央に座っていたのは、若き議長カシウス・レグナード。
三十二歳。
帝国でもっとも古い大公家の当主だった。
整った顔に、穏やかな笑みを浮かべている。
「お待ちしておりました、エミリア院長」
「逮捕状を申請したのは、あなたですか?」
「はい」
カシウスは書類を並べた。
「帝国史へ存在しない人物を加え、その功績をアルヴェイン家へ集中させた疑いがあります」
「存在しない人物とは?」
「セレスティア、リディア、アリシア。そのほか、あなたの著作に登場する悪役令嬢たちです」
セレスティアは隣で静かに微笑んだ。
自分を存在しないと言う人物を、珍しいものでも見るように眺めている。
「セレスティアという女性が、実際に生きていた証拠は?」
「目の前におります」
「この老婦人が?」
カシウスはセレスティアを見た。
「ご本人だと証明できますか?」
「本人の証言を認めないのですか?」
「名前を名乗るだけなら、誰でもできます」
エミリアは反論しなかった。
カシウスの言っていることは、形式上は正しい。
本人であると名乗る者だけを証拠にすれば、詐欺はいくらでも成立する。
「では、あなたはどのような歴史が正しいと考えているのです?」
カシウスは一冊の新しい歴史書を差し出した。
表紙には『帝国正史』と書かれている。
「帝国は建国以来、レグナード大公家によって支えられてきました」
ページを開く。
セレスティアが行った財政改革は、すべてレグナード家の功績となっている。
リディアがルクシア王国で整えた制度も。
アリシアが作った国際騎士団も。
エミリアが女英雄アルマの名を取り戻した調査すら、カシウスの父親が行ったことになっていた。
「なるほど」
エミリアは本を閉じた。
「わたくしたちの名を消した後、功績だけをあなたの一族へ移したのですね」
カシウスの笑みは変わらない。
「証拠のない侮辱は、お控えください」
「この本は、いつ編纂されたのです?」
「百二十年前です」
「紙も?」
「当然です」
「鑑定しても?」
「すでに専門家が本物と認めています」
「その専門家は?」
「歴史院の研究員たちです」
「誰が?」
「全員です」
エミリアはニコの顔を思い出した。
彼はセレスティアたちを忘れていた。
記憶を改変された研究員が、改変後の歴史書を正しいと認めても証拠にはならない。
「カシウス大公」
セレスティアが初めて口を開いた。
「何でしょう、ご婦人」
「あなたは、わたくしの功績を欲しがっておられるのですね」
「存在しない方の功績を、どうやって欲しがるのです?」
「では、なぜわたくしの政策だけを、ご自分の一族のものになさったのです?」
「祖先が行ったことだからです」
「どのような政策でしたか?」
カシウスはわずかに眉を動かした。
「何?」
「王都の小麦価格を安定させる際、最初に何を変えましたか?」
「税を下げた」
「違います」
「では?」
「ご自分の一族の功績なのでしょう?」
会議室の視線がカシウスへ集まる。
彼は表情を崩さなかった。
「細かな実務は、担当者が行ったのでしょう」
「担当者の名前は?」
「三百年以上前のことです。覚えているはずがない」
「七十八年前です」
カシウスの目が動いた。
セレスティアは続ける。
「国境軍の給与制度を変更した際、もっとも強く反対した貴族は?」
「資料を確認しなければ」
「あなたのお祖父様ということになっております」
「当時の判断には複雑な事情が」
「随分と、ご自分の一族の歴史へ関心がないのですね」
議員たちの間から、小さなざわめきが起きた。
カシウスは机の上で指を組む。
「歴史家ではありませんので」
「それなら、歴史を利用して権威を得ようとなさらないことです」
セレスティアは穏やかに微笑んだ。
「知らない方の功績を奪いますと、質問された際に困りますでしょう?」
カシウスの口元から、わずかに笑みが消えた。
「話を戻しましょう」
彼はエミリアを見た。
「問題は院長による歴史改ざんです」
「では、公平に調査してください」
「もちろんです」
「わたくしが提出する証拠も確認していただけますね?」
「存在するなら」
「帝国歴史院の地下保管庫にあります」
カシウスの表情が、ほんの一瞬だけ強張った。
エミリアは見逃さなかった。
「記憶石です」
会議室が静かになる。
「記憶石には、セレスティアとリディアの記憶が保存されています」
それは半分だけ本当だった。
実際に保存されているかは確かめていない。
だがカシウスの反応を見るためには十分だった。
「記憶は、事実そのものではないのでしょう?」
「そのとおりです」
エミリアは答えた。
「ですが、あなたが作った帝国正史と比較する資料にはなります」
「保管庫の記憶石は、すでに調査中です」
「どなたが?」
「議会から派遣した専門家です」
「わたくしは歴史院長です。立ち入りを許可しておりません」
「あなた自身が容疑者ですから」
カシウスは騎士団長へ視線を送った。
「院長を拘束室へ。ほかの二人も事情を聴取します」
「その前に、一つ」
エミリアは自分の記憶石を取り出した。
透明だった石が、淡い金色に光っている。
「この部屋にも、記憶改変の術式がございます」
カシウスの顔が初めて変わった。
「何を言っている」
「歴史院へ仕掛けたものと、同じ魔力です」
本当は、まだ断定できない。
だがエミリアは確信していた。
自分たちの名前を口にするたび、記憶石の光が強くなる。
この部屋のどこかから、術式が発動している。
「セシル!」
エミリアが叫ぶ。
壁際に立っていた騎士の一人が、兜を脱いだ。
国際騎士団のセシルだった。
彼女も記憶石を身につけている。
カシウスは立ち上がった。
「なぜ、国際騎士団が!」
「エミリア様から、歴史院に異常があれば法務院を監視するよう命じられていました」
「騎士団長、この女を捕らえろ!」
帝国騎士団長は動かなかった。
「どちらの命令へ従うべきか、判断するための証拠が必要です」
「私が議長だぞ!」
「それは役職であり、証拠ではございません」
リディアの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
セシルは壁へ近づき、剣の柄で順番にたたいた。
一か所だけ、音が違う。
壁飾りを外すと、黒い水晶が埋め込まれていた。
記憶石へよく似ている。
ただし光は濁り、内部には何人もの名前が書かれていた。
セレスティア。
リディア。
アリシア。
エミリア。
「術式の中核ですね」
エミリアが近づく。
カシウスは出口へ向かって走った。
だが扉の前にはセシルが立っている。
「お急ぎですか?」
「議会へ戻る!」
「先ほどまで、こちらで調査を続けるとおっしゃっていましたが」
「予定が変わった!」
「では、この水晶についてご説明いただいてからにしてください」
「知らん!」
「ご自分の執務室の壁に埋め込まれているのに?」
「前任者が置いたものだ!」
「議長へ就任した際、部屋を全面改装されたと記録されています」
「職人が勝手に!」
「改装を担当した商会は、レグナード大公家の所有です」
「家令が命じた!」
「その家令から、すでに証言を得ています」
カシウスの動きが止まった。
エミリアもセシルを見た。
「いつの間に?」
「今朝です」
セシルは一枚の証言書を取り出した。
「レグナード大公の命令で、歴史院、法務院、議会、大公家の地下室へ記憶改変用の水晶を設置したと認めています」
「なぜ、先に教えてくださらなかったのです?」
「エミリア様が、ご自分でカシウス大公の反応を確かめたがると思いました」
「正解です」
カシウスは声を荒らげた。
「家令が勝手に私の名を使ったのだ!」
「水晶の購入契約書には、あなたの署名がございます」
「偽造だ!」
「魔力署名も一致しました」
「だまされて署名した!」
「何の契約だと思ったのです?」
カシウスは答えられなかった。
追い詰められている。
だが、まだすべては明らかになっていない。
「なぜ、祖母たちの存在を消したのです?」
エミリアが尋ねる。
カシウスは黙っていた。
「功績が欲しかっただけですか?」
「違う」
初めて、彼の声から余裕が消えた。
「では?」
「お前たちが、邪魔だった」
「何の?」
カシウスはエミリアをにらんだ。
「世界は、アルヴェイン家の価値観に染まりすぎた」
「価値観?」
「証拠を示せ。帳簿を公開しろ。権力者にも責任を取らせろ。王家の命令にも法的根拠を求めろ」
彼は吐き捨てるように続ける。
「そのせいで、貴族の権威は失われた!」
「権威ではなく、特権が失われたのでは?」
「同じことだ!」
「違います」
エミリアは静かに答えた。
「人から尊敬されることと、人を黙らせることは同じではございません」
「民は無知だ! すべてを公開すれば混乱する!」
「だから、あなた方だけが真実を管理すると?」
「選ばれた血筋には、その権利がある!」
「誰が選んだのです?」
「歴史だ!」
「その歴史を、今ご自分で書き換えたのでしょう」
カシウスの顔がゆがんだ。
セレスティアは、少し寂しそうに彼を見ていた。
「わたくしの時代から、何も変わらない方はいるのですね」
「黙れ、存在しない老女!」
「その存在しない老女の功績を、随分と欲しがっておられたようですが」
議員の一人が吹き出した。
それを合図に、会議室へ失笑が広がる。
カシウスは顔を赤くした。
「笑うな! 私が帝国を本来の形へ戻そうとしたのだ!」
「本来の形とは?」
リディアが尋ねる。
「貴族が民を導き、民が貴族へ従う秩序だ!」
「民から税を取り、使い道を明かさず、失敗しても責任を負わない秩序でしょうか」
「統治には金がかかる!」
「レグナード家の離宮を七つ建てる費用も?」
カシウスの顔色が変わった。
リディアは鞄から帳簿を取り出した。
「記憶改変が始まる前から、あなたの家の財政を調べておりました」
「なぜだ!」
「帝国議会の運営費が、毎年不自然に増えていたからです」
「議会に必要な出費だ!」
「離宮、競走馬、宝石、私兵の装備」
リディアは一つずつ読み上げた。
「これらも議会に必要ですか?」
「大公家の威信を保つためだ!」
「そのために帝国の公金を?」
「私が議長だからだ!」
会議室が静まり返る。
カシウスは自分の口を押さえた。
だが、遅かった。
「自白として記録しました」
記録官が告げる。
「待て。今のは言葉のあやだ!」
「三世代たっても、その言葉は残るのですね」
セレスティアがつぶやく。
リディアは最後の帳簿を開いた。
「不正支出は、現時点で六百四十万金貨です」
カシウスの膝がわずかに揺れた。
「そんな金額にはならない!」
「詳しいのですね」
「違う!」
「では、正確な金額をご存じではない?」
「当然だ!」
「それでは、帳簿に基づいて六百四十万金貨を請求いたします」
「待て!」
「異議があるなら、ご自分の帳簿を提出してください」
「それはできない!」
「なぜ?」
「私有財産だからだ!」
リディアは微笑んだ。
「では、公金が含まれていないことを証明してくださいませ」
「悪魔め!」
「二代目悪役令嬢です」
「自分で名乗るな!」
会議室から、再び笑いが起きた。
だが、エミリアだけは笑わなかった。
壁に埋め込まれた黒い水晶を調べている。
術式はまだ止まっていない。
カシウスを拘束しても、セレスティアたちの存在が戻るとは限らない。
「この水晶を作ったのは、あなたではありませんね」
エミリアが言った。
カシウスは答えない。
「あなたに、これほど大規模な記憶魔術を扱う技術はございません」
「侮辱するな!」
「魔術院の在籍記録では、基礎課程を三度不合格になっています」
「それは教師が私を嫌っていたからだ!」
「どなたに作らせたのです?」
カシウスは口を閉じた。
「術式を止めなければ、あなたの記憶も消される可能性があります」
「私の?」
「この水晶には、すでにあなたの名前も記されています」
カシウスが黒い水晶を見る。
確かに、その最下部に小さな文字が浮かんでいた。
カシウス・レグナード。
「なぜだ」
彼の顔から血の気が引く。
「私は取引した! アルヴェイン家を消せば、レグナード家を帝国の支配者にすると!」
「誰と?」
「それは」
黒い水晶が強く脈打った。
カシウスの名前が薄くなる。
「待て!」
彼は水晶へ駆け寄った。
「約束が違う!」
「誰との約束です!」
エミリアが問い詰める。
「記憶の王だ!」
その名を口にした瞬間、水晶が砕けた。
黒い煙が会議室へ広がる。
エミリアの記憶石が激しく光った。
煙の中に、一人の男の姿が浮かび上がる。
顔は見えない。
ただ、頭には無数の記憶石で作られた王冠を載せていた。
『アルヴェインの三人』
声が頭の中へ直接響く。
『お前たちは、あまりにも多くの物語を変えた』
「誰です?」
『忘れられた者たちの王』
「具体的なお名前を」
煙の男は、一瞬黙った。
セレスティアが孫娘を見る。
「このような場合でも、名前を確認するのですね」
「記録に必要ですから」
『我に名はない』
「では、仮称として記憶王と記録します」
『好きにせよ』
「目的は?」
『世界を、正しい物語へ戻す』
エミリアの目が細くなる。
「あなたにとって正しい物語とは?」
『王は王として敬われ、英雄は英雄としてたたえられ、悪役は悪役として滅びる物語だ』
「それでは、事実ではなく物語です」
『人は複雑な真実など望まない』
煙の向こうで、王冠が輝いた。
『分かりやすい善と悪を求めている』
「だから、祖母を消したのですか?」
『悪役であることを拒み、自分の物語を勝手に作り始めた女だからだ』
「母も?」
『王家を滅ぼしながら、国民を救った。悪役にも英雄にも収まらぬ』
「アリシア叔母様は?」
『剣を持ちながら、武力で支配しなかった』
「わたくしは?」
煙の男は笑った。
『一つの歴史を拒み、矛盾を残した』
「それの何がいけないのです?」
『物語が終わらない』
記憶王の目的が、ようやく見えた。
彼は世界を美しく整えられた一冊の物語へ変えようとしている。
英雄は常に正しく。
悪役は常に悪く。
婚約を破棄された令嬢は泣き崩れ。
偽物と呼ばれた王女は追放され。
歴史に書かれた者は、その役割から外れない。
誰も物語を書き換えなければ、歴史は整然と進む。
「人は役ではございません」
エミリアが告げる。
『いずれ理解する』
煙が薄れていく。
『お前たち三人だけが覚えていても、意味はない』
「何をなさるおつもりです?」
『世界中から、アルヴェインの名を消す』
「すでに始めておられるでしょう」
『今度は記録だけではない』
煙の中に、無数の景色が映った。
セレスティアが作った学校。
リディアが再建した診療所。
アリシアが設立した国際騎士団。
エミリアの歴史院。
建物そのものが、少しずつ透け始めている。
『功績から生まれたものも、すべて消す』
「おやめなさい!」
エミリアが煙へ手を伸ばす。
だが指先は何もつかめない。
『七日後、悪役令嬢の物語は最初から存在しなかったことになる』
煙が消えた。
会議室に静寂が落ちる。
壁の水晶は砕け、足元には黒い欠片だけが残った。
カシウスは床へ座り込んでいた。
「私は、どうなる」
誰も答えなかった。
彼の名前はまだ消えていない。
だが記憶王にとって、カシウスは目的を果たすための道具にすぎなかったのだろう。
役目を終えれば、彼の存在も消すつもりだった。
「助けてくれ」
カシウスはエミリアを見た。
「私はだまされていた!」
「それで、あなたの罪が消えるわけではございません」
「だが、お前たちも消されるのだぞ!」
「それとこれとは別です」
「私を助けなければ、術式のことを話さない!」
リディアが尋ねる。
「話していただけるなら、減刑を求めてほしいという意味ですか?」
「そうだ!」
「お断りします」
「なぜだ!」
「司法取引を決める権限は、わたくしにはございません」
「では、誰なら!」
「法務院へ正式に申し出てください。情報の価値と、罪の重さを審査します」
「今すぐ約束しろ!」
「七日しかございませんので、早めに申し出ることをおすすめします」
カシウスは何か言い返そうとした。
しかし騎士たちに両腕を取られ、連れていかれた。
最後まで、自分は特別に助けられるべきだと叫びながら。
壊れた水晶の前に、三人が残った。
セレスティア。
リディア。
エミリア。
三世代の悪役令嬢。
七日後には、彼女たち自身だけではない。
彼女たちが築いた学校も、病院も、制度も、歴史も消える。
「どうしますか?」
リディアが娘へ尋ねる。
以前なら、エミリアは母へ答えを求めただろう。
祖母なら何をするか考えただろう。
だが今、二人は自分を見ている。
歴史と記憶の問題は、エミリアの領域だった。
「まず、消される対象を特定します」
彼女は黒い水晶の欠片を拾った。
触れると、わずかな記憶が流れ込んでくる。
記憶王のものではない。
カシウスの記憶だった。
暗い部屋。
古い祭壇。
石の玉座。
そして、誰かが封印されている巨大な書庫。
「記憶王は、忘れられた人物ではありません」
エミリアが言った。
「何者かが意図的に、その名を歴史から消したのです」
「なぜ分かるのです?」
「仮称を与えたとき、彼は拒否しませんでした」
「それが?」
「本当に名前を持たない者なら、仮称をつけられることへ抵抗がないのは自然です」
エミリアは欠片を光へ透かした。
「ですが、自分の名を奪われた者は、他人から勝手な名を与えられることを嫌うはずです」
セレスティアが目を細める。
「記憶王自身も、誰かに役を押しつけられた?」
「おそらく」
「では、被害者なのですか?」
リディアが尋ねる。
「過去には」
エミリアは答えた。
「ですが、被害を受けたことは、他人を消してよい理由にはなりません」
黒い水晶の欠片には、祭壇へ続く道が残されている。
帝国のさらに北。
地図から消された土地。
かつて存在した、名のない王国。
「七日以内に、この場所へ向かいます」
「わたくしたちも同行します」
セレスティアが言う。
エミリアは祖母を見た。
九十歳を越えた体で、長い旅は危険だ。
「おばあ様は、帝都へ残ってください」
「自分の存在が消されようとしているのですよ」
「だからこそです」
「何?」
「帝都に残り、消えかけている制度と人々の記憶を守ってください」
セレスティアは黙った。
エミリアは母を見る。
「お母様もです」
「わたくしも?」
「学校、診療所、救済制度、改革議会。それぞれの場所へ記憶石を配ってください」
「あなたは?」
「記憶王のもとへ向かいます」
「お一人で?」
「いいえ」
エミリアは会議室の扉を見た。
外にはセシルとニコ。
歴史院の研究員たち。
国際騎士団。
これまでアルヴェイン家が育ててきた、多くの人々がいる。
「わたくしたち三人だけが覚えていても意味はないと、記憶王は言いました」
エミリアは静かに微笑んだ。
「でしたら、三人だけで戦わなければよいのです」
祖母が一人で始めた物語は、もう一族だけのものではない。
不正な命令を拒んだ兵士。
真実を記録した書記官。
自分の罪を認めた少女。
王位より制度を選んだ王女。
神託より証拠を選んだ民。
奪われた名前を取り戻した研究者たち。
彼ら一人ひとりが、セレスティアたちの物語を受け継いでいる。
記録を消せても、すべての選択をなかったことにはできない。
「わたくしは、記憶王がもっとも嫌う方法で対抗します」
リディアが尋ねる。
「どのような方法です?」
「一人の英雄へ頼りません」
エミリアは黒い欠片を証拠袋へ収めた。
「世界中の方々へ、自分たちが何を選んだのか思い出していただきます」
残された時間は、七日。
消え始めた歴史。
名前を奪われる三世代の悪役令嬢。
そして、世界を単純な物語へ戻そうとする記憶王。
エミリアは歴史院へ向かって歩き出した。
奪われた名前を取り戻すためではない。
名前が消えても、その人物が残した意志までは消えないと証明するために。
だが、出発する直前。
リディアが娘を呼び止めた。
「エミリア」
「何でしょう」
「請求書を忘れています」
「今回も必要ですか?」
「歴史院、法務院、各国の記念施設への損害。記憶石の配布費用。調査団の派遣費用」
リディアは分厚い書類の束を娘へ渡した。
「現時点で、八百四十万金貨です」
エミリアは書類の重さに腕を下げた。
「まだ事件は終わっておりません」
「ですから、暫定額です」
「記憶王に支払い能力があるのでしょうか」
セレスティアが口を挟む。
「王を名乗るくらいです。王国の一つくらい、お持ちなのでは?」
「地図から消された王国ですが」
「それでは、まず登記から確認しなければなりませんね」
エミリアは母と祖母を見た。
世界から存在を消されかけているというのに、二人は少しも変わらない。
その姿を見ていると、不思議と恐怖が薄れていく。
「分かりました」
エミリアは請求書を鞄へ入れた。
「記憶も歴史も返していただきます」
そして、わずかに笑う。
「もちろん、調査費用も利息つきで」
三世代の悪役令嬢と、忘れられた王との最後の戦いが始まった。




