掌(てのひら)の熱が灯す色 愛そして
第三部:瞳に映る春、届かない指先
視界が、白い。
あまりに強烈な白。それは雪の色でも、画用紙の白でもなかった。私の脳が八年ぶりに受け取った「光」という名の、暴力的とも言える鮮やかな色彩だった。
「……ゆっくり、ゆっくりでいいですよ。美緒さん、焦らずに目を開けて」
主治医の穏やかな声が、遠くの方で聞こえる。
私は、重い瞼を震わせながら、少しずつ、大切に持ち上げた。
最初に見えたのは、何かの輪郭だった。ぼやけていて、まるで水の中にいるような感覚。けれど、そこに「形」がある。単なる影ではない、実体を持った何かが。
瞬きを繰り返すうちに、視界のピントが少しずつ合ってくる。
最初に色が判別できたのは、傍らにある花瓶に挿された、黄色いフリージアだった。
「……き、いろ……」
掠れた声が出た。
「ええ、黄色い花ですよ。分かりますか?」
視線を横にずらすと、そこには二人の男女がいた。
深い皺が刻まれた、優しそうな目元の女性。そして、白髪が混じり、眉間に深い苦労の跡がある男性。
「お母さん……? お父さん……?」
母が、顔を覆って泣き崩れた。父が、その肩を抱きながら、何度も何度も頷いている。
八年前、私の記憶の中で止まっていた両親の姿よりも、ずっと年老いていた。その事実に胸が締め付けられると同時に、この八年、どれほどの心労を二人にかけさせてしまったのかを悟り、私もまた、溢れる涙を止めることができなかった。
手術は成功した。
視神経の混濁を取り除き、最新の再生医療を組み合わせた術式は、私の世界に劇的な変化をもたらした。もちろん、かつてのような「完璧な視力」ではない。左目の視界には欠損があり、全体的に霧がかかったように見えることもある。それでも、私には「色」が見える。愛する人たちの「表情」が見えるのだ。
そして。
病室のドアが静かに開いた。
心臓の鼓動が、耳の奥まで響くほどに速くなる。
入ってきたのは、一人の青年だった。
紺色のリクルートスーツに身を包んだ、背の高い人。
彼が歩くたびに、あの日、梅田の雑踏で聞いた、あの「靴音」がした。
「……陽翔くん?」
彼が立ち止まった。
私は、初めて彼の顔を正視した。
想像していたよりも、ずっと端正な顔立ちをしていた。通った鼻筋、優しげだが意志の強そうな眉。そして何より、私を映し出しているその瞳が、あまりに綺麗で、深く、温かかった。
「……見えるよ、美緒さん」
陽翔くんの声が震えていた。彼は私のベッドの傍らに駆け寄り、いつものように私の手を握った。
「ああ……。見えるんだ。君の目が、僕を見てる」
掌から伝わる熱。それは、目が見えなかった頃からずっと私を支えてくれた、あの確かな体温だった。
「……陽翔くん、こんなにカッコよかったんだね」
私が冗談めかして言うと、彼は顔を真っ赤にして、子供のように泣き笑いした。
「約束、覚えてる? 桜を見に行こうって」
「うん。……行こう。二人で、本物の桜を」
退院が決まったのは、桜の蕾が今にも弾けんばかりに膨らんだ、四月の初めだった。
しかし、実家に戻り、病院という守られた世界から一歩外へ出たとき、私は激しい眩暈を覚えた。
世界は、思っていたよりもずっと複雑で、騒がしく、そして「速すぎた」。
行き交う車の光、点滅する信号、色とりどりの看板。目が見えなかった頃、耳と肌だけで感じていた世界は、もっと穏やかで、もっと自分だけのものだったような気がする。
今の私は、あまりに多くの「視覚情報」に翻弄され、自分の家から駅までの短い距離でさえ、立っているのがやっとだった。
さらに、大きな変化がもう一つあった。
陽翔くんが、社会人になったことだ。
彼は大手のIT企業に就職し、毎日慣れない仕事に追われるようになった。
金曜日の夜の電話は、いつの間にか「お疲れ様。ごめん、今日も遅くなりそう」という短いメッセージに変わっていった。
ようやく実現した、桜の約束。
私たちは、大阪城公園の並木道を歩いていた。
見事な満開。視界の端から端までを埋め尽くす、淡い、淡いピンク色の雲。風が吹くたびに、数千、数万の花びらが、光の粒子のように舞い踊る。
「綺麗……。陽翔くん、本当に、こんなに綺麗だったんだね」
「そうだね。……美緒さんに見せられて、本当によかった」
けれど、歩きながら彼の顔を盗み見ると、その目元には隠しきれない隈があった。
彼は時折、スマートフォンの通知を気にして、眉を寄せている。
「忙しいのに、無理させちゃったかな」
「そんなことないよ。美緒さんの退院祝いなんだから」
彼は笑ってくれたが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
かつて大学生だった彼と、家で療養していた私。あの頃の私たちは、同じ「ゆっくりとした時間」の中にいた。
けれど今、彼は社会という激流の中で必死に泳いでいる。一方の私は、目が見えるようになったとはいえ、まだ社会に出る準備もできていない。何をするにも時間がかかり、人混みに出ればすぐに疲れて座り込んでしまう。
目が見えるようになれば、彼と対等になれる。そう思っていた。
けれど、現実は逆だった。
見えるようになったからこそ、私と彼の間の「埋められない溝」が、はっきりと可視化されてしまったのだ。
「……陽翔くん」
「ん?」
「私、最近思うの。私が見えていなかった時、陽翔くんは私の『目』になってくれた。でも、私が見えるようになった今、私は陽翔くんのために、何ができるんだろうって」
歩みを止めた私に、彼は少し驚いたような顔をした。
「何言ってるの。美緒さんが元気で、こうして隣にいてくれるだけで、僕は……」
「でも、あなたは疲れてる。私を気遣って、自分の仕事や生活を犠牲にしてる。目が見えるようになった私は、もう、あなたに甘えてばかりいちゃいけないのに。それでも、私はまだ一人じゃ何もできない」
満開の桜の下、私は残酷な真実を突きつけられていた。
目が見えなかった頃、私たちは「心」で繋がっていた。けれど「目」が見えるようになった今、現実的な生活、将来、自立といった壁が、私たちの前に巨大な障害となって立ちはだかっている。
彼は就職して、これからどんどん広い世界へ出ていく。
私は、やっとスタートラインに立ったばかりの、二十五歳の不完全な大人だ。
彼が私を愛してくれているのは、あの日、梅田で助けた「守るべき存在」への義務感からではないのか。そんな疑念が、私の心を蝕んでいく。
その夜、私は実家の自室で、鏡に映る自分を見つめた。
八年前で時が止まったままの、虚ろな瞳。
私は、手術をすればすべてが解決すると思っていた。けれど、光を取り戻した先に待っていたのは、自分の無力さを突きつけられる日々だった。
そんなある日、陽翔くんから久しぶりに電話があった。声が、ひどく疲弊していた。
「……美緒さん。ごめん、今週の金曜日、会えなくなった。プロジェクトが山場で、どうしても抜けられなくて」
「いいよ、仕事だもん。無理しないで」
電話を切った後、私はスマートフォンの画面をじっと見つめた。
彼のために、私ができること。
それは、彼に寄りかかるのをやめ、自分の足で立ち上がることではないのか。
私は、以前主治医から紹介された、中途失明者のための職業訓練施設のパンフレットを取り出した。
目が見えるようになった今の私なら、以前よりもずっと早く、技術を習得できるはずだ。
彼と同じ世界、同じスピードで歩けるようになりたい。
今度は私が、彼を支えられるようになりたい。
しかし、その決意を彼に伝えようとした矢先、私は再び、運命の悪戯に翻弄されることになる。
五月の連休が明けた頃。
私の視界に、異変が起きた。
朝起きると、左目の隅に、墨を垂らしたような黒い影が浮んでいた。
「……え?」
最初は、疲れのせいだと思った。
けれど、その影は、日に日に大きくなっていく。
光が、色が、少しずつ、私の世界から削り取られていく。
「……拒絶反応、あるいは術後の合併症の可能性があります」
診察室で、主治医は重い表情で告げた。
「すぐに再手術が必要です。ですが……今度は、前回よりも成功率は低くなる。……それから、術後の管理が非常に重要になります。ここよりも設備が整った、他県にある大学病院の専門施設へ転院して、集中治療を受けることをお勧めします」
暗闇が、再び私を飲み込もうとしている。
ようやく手に入れた、陽翔くんの笑顔。桜の淡いピンク色。両親の慈愛に満ちた表情。
それらすべてが、また砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
私は、彼にこのことを伝えられなかった。
ようやく仕事が軌道に乗り始めた彼に、これ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない。
私は彼を呼び出し、静かに切り出した。
「陽翔くん。私ね、明日から他県にある専門の医療施設に転院することにしたの」
「えっ……? 転院? 治療は順調なんじゃないのか?」
私は、努めて明るい声で嘘を重ねた。
「ううん、もっと視力を安定させるための専門的なプログラムがあるんだって。そこは治療とリハビリに専念するために、外部との連絡も制限される、すごく厳しい場所なの。だから、しばらく会えなくなるし、電話もできない」
「そんな……。美緒さん、本当のことを言ってるのか?」
陽翔くんの瞳に、不安の色が走る。私は、彼の顔をじっと見つめた。
これが、最後に見る彼の姿になるかもしれない。その恐怖を押し殺して、私は微笑んだ。
「本当よ。私、もっと強くなりたいの。次に会う時は、一人であなたのところまで歩いていけるように。だから、信じて待っていてほしい」
私は、再び訪れるであろう「絶対的な孤独」を前に、一人で戦う決意をした。
彼への愛が、私に嘘をつかせ、私を強くさせた。
再手術の日。
他県の病院の窓から見える新緑は、涙で滲んで、ひどく眩しかった。
これが、人生で最後に見る景色になるかもしれない。
私は、目に焼き付けた。
彼と歩いた梅田の街。京丹後の琥珀色の海。そして、舞い散る桜。
「……行ってきます」
麻酔が効き始める直前、私は自分の掌を握りしめた。
そこには、今も彼の熱が残っているような気がした。
もし、再び目が覚めた時、世界が真っ暗だったとしても。
この熱だけは、絶対に忘れない。
運命のメスが、私の瞳へと下ろされる。
最終章:光の向こう側、永遠の色彩
視界を覆うガーゼは、単なる布ではなく、私の未来を断絶する厚い壁のように感じられた。
二度目の手術が終わってから、二週間。
私の世界は、深い、深い、海の底のような静寂の中にあった。
手術の直後、麻酔から覚めた時に感じたのは、激しい痛みと「何も見えない」という圧倒的な絶望だった。一度光を知ってしまったからこそ、以前よりも闇は深く、冷たく、私の心を侵食していく。
「美緒、体調はどう?」
母の声が聞こえる。毎日、新幹線を乗り継いで、遠く離れたこの専門病院まで通ってくれている。その疲れを滲ませた声を聞くたびに、私は自分の身勝手さを責めた。
陽翔くんには、「治療に専念するために連絡を断つ」という嘘をついたままだ。
(彼は今、どうしているだろう……)
彼に会いたい。あの温かな声を聴きたい。私の手を引いて歩く、あの逞しい腕に触れたい。
けれど、もしこのまま私の目が二度と光を捉えられなかったら。
社会人として最初の一歩を踏み出したばかりの彼に、盲目の私の「一生」を背負わせる権利なんて、私にはない。
「……お母さん、陽翔くんには……」
「何も伝えていないわよ。あなたがそうしてほしいって言ったから。……でもね、美緒」
母が、私の手にそっと何かを乗せた。
それは、何通もの封筒だった。
「これ、瀬戸くんからよ。毎週、実家の方に届くの。あなたの行き先を教えないなら、せめてこれを届けてほしいって」
私は震える指先で、その封筒の感触を確かめた。
ガーゼで目が見えない私に代わり、母がその一通を静かに読み上げた。
『美緒さん。元気にしていますか。
梅田はすっかり初夏の匂いになりました。君と歩いたあの並木道は、今は青々とした若葉が眩しいです。
君が「一人で歩けるようになりたい」と言って、自分を律するために僕と離れる道を選んだこと。その強さを、僕は尊敬しています。
でもね、美緒さん。一つだけ分かってほしい。
僕が君の隣にいたいのは、君が一人で歩けないからじゃない。
君と一緒なら、僕一人で見るよりもずっと、世界が色鮮やかに見えるからなんだ。
君が隣にいない世界は、どんなに晴れていても、僕にはモノクロームに見えてしまう。
待っています。いつまでも。
君が戻ってくる場所は、ここにあるから。』
母の声が途切れ、病室に鼻をす啜る音だけが響いた。
私の頬を、温かい涙が伝う。
馬鹿だな、と思う。
私は彼を「守る」ために突き放したつもりだった。けれど、本当に守られていたのは私の方だった。
私の心は、彼の愛という光に、ずっと照らされ続けていたのだ。
それからさらに一週間後。
ついに、ガーゼを取り外す日がやってきた。
病室には、主治医と両親、そして張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「……美緒さん。ゆっくり、ゆっくりですよ。いいですね」
主治医の指先が、私の頭の後ろで結び目を解く。
一巻き、また一巻き。
ガーゼが剥がれるたびに、空気が私の瞼に触れる。
「さあ、開けてみてください」
私は、祈るような気持ちで、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
最初は、ただの眩しさだった。
白、銀、グレー。混ざり合う光の粒子。
ピントが合わない。やっぱり駄目だったのか。
そう絶望しかけた、その時。
窓の外に、一点の「青」が見えた。
それは、五月の抜けるような空の色だった。
そして、その手前に、ぼんやりと揺れる緑。
「……見、える……」
「美緒!」
母が叫んだ。
視界は、以前ほど鮮明ではない。右目の中心にはまだ霞があり、左目はほとんど形を捉えられない。
けれど、色がある。光がある。
愛する人たちの、泣き笑いの表情が、そこにある。
「……先生、お母さん……見える。私、まだ、世界の中にいられる」
私はその日、何年ぶりか分からないほどの解放感の中で、声を上げて泣いた。
失う恐怖に怯える日々は終わった。
これからは、この僅かな光を大切に、彼と共に生きていくんだ。
私はその夜、退院を待たずに陽翔くんに電話をかけた。
呼び出し音が三回。
「……もしもし」
震える彼の声。
「陽翔くん……。私だよ」
「……美緒さん? ……美緒さんなの?」
「うん。ごめんね、嘘をついて。本当はね、また目が見えなくなるかもしれなかったの。怖くて、あなたを巻き込みたくなくて……」
「分かってたよ」
彼の声が、優しく、けれど断固として私の言葉を遮った。
「君のご両親の顔を見れば、すぐに分かった。……でも、君が『リハビリだ』って言うなら、僕はそれを信じるフリをしようって決めたんだ。君のプライドを、僕が壊しちゃいけないと思ったから」
「陽翔くん……」
「美緒さん、今、どこにいる? 今すぐ、そこへ行く」
「ううん、待って。……三日後、私がそっちへ行く。あの日、私たちが最初に出会った、あの梅田の場所で待っていてほしい」
「一人で来れるのか?」
「杖があるもん。それに、今の私には、あなたという光が見えてるから」
三日後。
私は白杖を手に、一人で新幹線に乗り、大阪へと向かった。
視界は決して良好ではない。人混みは今でも怖いし、階段の上り下りには足がすくむ。
けれど、あの日とは違う。
私はもう、ただ助けを待つだけの少女ではなかった。
梅田、噴水広場。
あの日、杖を落として途方に暮れていた私に、一人の青年が声をかけてくれた場所。
人混みの中に、見慣れた背中を見つけた。
紺色のスーツ。少し猫背気味に、時計を何度も気にしながら立っている。
私は、杖をつきながら、ゆっくりと、けれど一歩ずつ、自らの足で彼へと近づいていった。
あと五メートル。
あと三メートル。
彼が、何かに気づいたように振り返った。
その瞬間、彼の目に涙が溢れるのが分かった。
「……陽翔くん」
彼のもとへ駆け寄ろうとした私を、彼の方が大きな歩幅で縮め、強く、壊れそうなほどに抱きしめた。
「おかえり、美緒さん」
「ただいま……陽翔くん」
周囲の喧騒が消え、彼の鼓動と、私の鼓動だけが共鳴する。
「ねえ、陽翔くん。私の目、完璧には治らなかった。これからも、あなたの腕が必要になるし、時々、色を教えてもらわなきゃいけない。……それでも、いい?」
陽翔くんは、私の顔を両手で包み込んだ。
そして、私の額にそっと唇を寄せ、囁いた。
「それが僕の、一生の仕事だよ」
彼はポケットから、小さな箱を取り出した。
中には、シンプルだけれど、光を反射してキラキラと輝く指輪があった。
「……目が見えても、見えなくても。僕が見ているのは、君の魂の色だ。……美緒さん、結婚しよう。君のこれからの人生に、僕がすべての色を添えていくから」
溢れる涙で、指輪が虹色に滲む。
「……はい。喜んで」
彼は私の左手の薬指に、指輪を滑らせた。
その瞬間、私の掌に伝わってきた熱は、あの日、梅田の迷宮で私を救ってくれた時の熱と同じだった。
いや、あの日よりもずっと深く、優しく、私の魂の奥底までを灯してくれる、永遠の光。
一年後。
私たちは、京丹後のあの入江にいた。
「見て、美緒さん。今日の夕日は、今までで一番赤いよ」
陽翔くんが、私の肩を抱きながら言った。
私は目を細め、水平線に溶けていく琥珀色の光を見つめた。
「……本当ね。真っ赤で、少しだけ黄金色が混ざってて……。まるで、あなたの心の色みたい」
私の視界は、今でも時々、霧に包まれることがある。
けれど、隣に彼がいる限り、私の世界が暗闇に戻ることはない。
目で見える景色よりも、心で感じる愛の方が、ずっと鮮やかで、ずっと真実であることを、私は知っているから。
私は彼の掌を、自分の掌で包み込んだ。
そこにある確かな熱を、一生離さないと誓いながら。




