掌(てのひら)の熱が灯す色 接近
第二章:潮騒と、越えられない壁
あの日、梅田の雑踏で私の手を取ってくれた彼の名前は、瀬戸陽翔といった。
母と交換した連絡先を通じて、彼から初めてメッセージが届いた時、私のスマートフォンの読み上げ機能が発する無機質な電子音さえ、どこか音楽のように心地よく響いたのを覚えている。
「今度、少しお話ししませんか」
それが始まりだった。
私たちは、毎週金曜日の夜に電話をする約束を交わした。
金曜日。かつての私にとって、それはただ週末の訪れを告げるだけの、一週間の終着駅に過ぎなかった。けれど今では、その日は一週間で最も輝かしい「約束の場所」になった。
「もしもし、美緒さん? 今週もお疲れ様」
受話器越しに聞こえる陽翔くんの声は、少し低くて、落ち着いていて、それでいて陽だまりのような温かさを含んでいる。
彼は大学の講義のこと、アルバイト先で見かけた面白いお客さんのこと、そして今、彼の目に映っている世界の話をしてくれた。
「今日はね、帰り道に桜が咲き始めてたよ。まだ五分咲きくらいかな。街灯に照らされて、薄いピンクが白っぽく浮き上がってて、すごく綺麗だ」
私はベッドの上で膝を抱え、彼の言葉を一つひとつ、心の中にある真っ白なキャンバスに並べていく。
「五分咲き……。風が吹くと、少し揺れる?」
「うん。まだ散るほどじゃないけど、春が来たんだなって確信させてくれる揺れ方だよ」
彼と話している間、私の世界には色が戻ってくる。
彼が「青い」と言えば、私の心にはかつて見た澄み渡る秋の空が広がり、彼が「眩しい」と言えば、肌に熱を感じるような気がした。
両親は、私が以前より明るくなったことを、何よりも喜んでくれた。
朝、自分からカーテンを開けるようになったこと。口紅を新調したこと。
「美緒、今日は顔色が素敵ね」
母の言葉に、私は少しだけ誇らしい気持ちになる。
けれど同時に、両親の瞳の奥に、彼に対する深い感謝と、それ以上に重い「申し訳なさ」が宿っていることも、私は気づかないふりをしていた。
彼のような健康な、未来のある若者が、目も見えない私に時間を割いてくれている。それは本来、あってはならない奇跡のような、残酷なほどの一時的な慈悲なのではないか――。
そんな私の不安をかき消すように、夏休みに入った彼が、ある提案をしてくれた。
「美緒さん、海へ行きませんか。ドライブに行きましょう」
それは、私にとってあまりに眩しすぎる誘いだった。
両親は最初、驚いた顔をしたが、陽翔くんがわざわざ家まで挨拶に来て、私の体調を最優先にすると真摯に約束してくれたことで、二人の背中を押してくれた。
「これ、お弁当。美緒の好きなもの、たくさん入れたから。瀬戸くんにも、よろしくね」
母が作ってくれた重箱を受け取り、私は陽翔くんが運転する車の助手席に乗った。
ドアが閉まる音。エンジンが目を覚ます心地よい振動。
車内には、微かにシトラス系の芳香剤の香りが漂っていた。
「準備はいい? 出発するよ」
「はい。……ドキドキします」
「僕もだよ。美緒さんと遠出できるの、ずっと楽しみにしてたんだ」
車は大阪を抜け、北へと向かう。
窓を開けると、都会の排気混じりの風が、次第に草木の匂いを孕んだ爽やかな風へと変わっていくのが分かった。
陽翔くんは、運転しながらずっと実況をしてくれた。
「今、トンネルを抜けたよ。右側に深い緑の山が見える」
「あ、川が見えた。水がキラキラしてる。美緒さん、あっち」
彼は、私が「見えていない」ことを忘れさせるのではなく、「一緒に見ている」という感覚を私に与えてくれた。
数時間のドライブを経て、私たちは京丹後の海岸に到着した。
海水浴場の喧騒から少し離れた、静かな入江。
車を降りた瞬間、潮の香りが全身を包み込んだ。波が砂利を洗う「シャーーッ」という規則正しい音が、鼓膜を優しく撫でる。
「……海だ」
「そう、海だよ。砂浜まで、ゆっくり歩こうか」
陽翔くんの手を借りて、砂の上を一歩ずつ踏みしめる。
靴の底から伝わる、熱を帯びた砂の柔らかさ。時折混じる、砕けた貝殻の硬い感触。
私たちは母が作ってくれたお弁当を広げた。
「あ、これ、美緒さんの好きな卵焼き? 甘い匂いがする」
「ふふ、母の自慢なんです。食べてみてください」
海風に吹かれながら食べる食事は、事故に遭ってからの八年間で、一番美味しかった。
ただの栄養を摂取するための行為ではなく、生きていることを謳歌するための儀式のように感じられた。
夕方になり、辺りが静寂に包まれていく。
「もうすぐ、日が沈むよ」
陽翔くんの声が、少しだけ切なさを帯びた。
「水平線の向こうが、オレンジ色から紫色に溶けていくんだ。空が燃えてるみたいに赤くなって、それが海面にも反射して、世界中が琥珀色の中に閉じ込められたみたいだ」
その描写を聞きながら、私は必死に想像した。
私の脳裏に広がる、輝くようなオレンジ色の世界。
けれど。
どれほど想像力を働かせても、私の現実の視界には、ただぼんやりとした薄暗い明暗が揺らぐだけだった。
隣に座る陽翔くんの横顔が、どれほど美しく、どんな表情で海を見つめているのか。
私は一生、知ることができない。
突然、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
止まろうとしても、一度溢れた涙は止まらなかった。
「……美緒さん? どうしたの、どこか痛む?」
慌てて肩を抱く陽翔くんの手。その優しさが、今は何よりも辛かった。
「……どうして」
絞り出すような声で、私は尋ねた。
「どうして、陽翔くんは、私にこんなに親切にしてくれるの?」
「それは……」
「私、目が見えないんです。どこへ行くにもあなたの腕を掴まないと歩けないし、あなたが話してくれないと、目の前の景色さえ分からない。私は、あなたの人生の『お荷物』でしかないのに。どうして、こんなに……」
帰りの車内。
流れる景色が見えない暗闇の中で、私は声を殺して泣き続けた。
陽翔くんは、しばらく黙ってハンドルを握っていたが、路肩に車を止めると、私の手をそっと握りしめた。
「お荷物だなんて、一度も思ったことないよ。僕は、美緒さんと話している時間が一番楽しいんだ。美緒さんに景色を伝えている時、僕も今まで以上に、世界を丁寧に見るようになった。美緒さんが僕を変えてくれたんだよ」
彼の言葉は真実だったのだろう。
けれど、二十五歳の私の理性が、残酷な問いを突きつける。
今はいいかもしれない。けれど、彼は来春から社会人になる。
責任の重い仕事、新しい人間関係、そしていつか、彼と対等に歩き、同じ景色を見て笑い合える「普通の女性」との出会い。
その時、私はどうなるのか。
彼を繋ぎ止める術を、私は持っていない。
秋が訪れ、風が冷たさを帯びてきても、私たちの金曜日の電話と週末のデートは続いた。
けれど、二人の間には、見えない「壁」が存在していた。
彼が未来の話をしようとするたびに、私は無意識に話題をそらした。
期待してはいけない。望んではいけない。
今この瞬間が幸せであればあるほど、終わりが来た時の絶望が深くなることを、私は知っていたから。
冬になり、病院への定期受診の日、私は主治医に縋るような思いで尋ねた。
「先生……私の目、本当に、もう一度見えるようになる可能性はないんですか?」
医師は、少しだけ沈黙した後、一冊の資料を広げた。
「……実は、美緒さんの症例に近いケースで、新しい術式と薬剤の併用が成果を上げている例があります。もちろん、リスクはゼロではありませんし、成功しても以前と全く同じ視力に戻る保証はありません。でも、一筋の光はある」
その言葉を聞いた瞬間、私の心に、これまで抱いたことのない強烈な欲望が芽生えた。
陽翔くんを見たい。
彼の、私を導いてくれる手の持ち主の、本当の顔を見たい。
彼と一緒に、もう一度、本物の桜を見たい。
クリスマス、そして初詣。
私たちは、まるで「最後」を惜しむ恋人のように、多くの時間を共にした。
「来年は、就職で忙しくなるかもしれないけど。でも、僕は変わらず美緒さんの隣にいたいと思ってる」
初詣の帰り道、雪が舞い散る中で彼は言った。
私は、彼のコートの袖を強く握りしめた。
「陽翔くん。私……手術を受けることに決めたの」
彼の体が、一瞬強張った。
「手術って……」
「少しだけ、可能性があることが分かったの。もしかしたら、もう一度、この目で見ることができるかもしれない。……良くなったら、一緒に桜を見に行こう。言葉じゃなくて、私の目で、陽翔くんが教えてくれたあの景色を見たい」
それは、私の人生で一番大きな賭けだった。
失敗すれば、今持っている僅かな光さえ失うかもしれない。
けれど、彼と並んで歩く未来を掴むためには、この壁を壊さなければならない。
春の兆しが僅かに感じられる三月の終わり。
私は、病院のベッドの上にいた。
明日には、私の運命を決める手術が始まる。
「待ってるから。桜が咲く頃に、また」
病室を去る間際、陽翔くんが私の額に、そっと柔らかな熱を残していった。
暗転する意識。
麻酔の冷たさが腕を伝わる中で、私は祈り続けていた。
次に瞼を開ける時、そこに、私を愛してくれた人の「色」がありますように。




