掌(てのひら)の熱が灯す色 出会い
1章:モノクロームの檻を抜けて
世界から「色」が消えたのは、十七歳の、ひときわ夕焼けが美しい秋の日だった。
放課後、自転車で走っていた私を、信号を無視した車が真横から跳ね飛ばした。視神経の損傷。医師から告げられた言葉は、当時の私にはあまりに冷たく、記号的で、現実味を欠いていた。
あれから、八年。
二十五歳になった私の世界は、ぼんやりとした明暗だけが揺らぐ、霧の深い森の中にあった。全く見えないわけではない。太陽の光を浴びれば、瞼の裏がオレンジ色に滲む。けれど、人の表情も、道に咲く花も、大好きな本の表紙も、今はもう形を結ぶことはない。
私の時計は、あの日から止まったままだった。
「……美緒、少しだけ、歩いてみない?」
母の慎重な、けれど祈るような声が聞こえたのは、春の匂いが混じり始めた二月の終わりだった。
事故の後、私は自分の殻に閉じこもった。家の中は「安全な檻」だった。家具の配置はすべて頭に入っている。指先が壁をなぞれば、どこに何があるか分かった。けれど、一歩外へ出れば、そこは牙を剥く怪物たちの棲家だ。車のエンジン音、他人の話し声、どこから飛んでくるか分からない自転車。恐怖は私の足を床に縫い付けていた。
けれど、その日はなぜか、窓から差し込む陽だまりの温かさが、私の背中をそっと押したような気がした。
「……うん。少しだけなら」
母の腕に掴まり、八年ぶりに「外」という世界へ踏み出す。
玄関のドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を打った。
「冷た……」
「そうね。でも、どこか甘い匂いがしない? どこかの家で沈丁花が咲き始めたのかも」
目が見えない代わりに、私の他の感覚は鋭敏になっていた。
アスファルトを叩く杖(白杖)の感触。足の裏に伝わる地面の凹凸。そして、鼻をくすぐる春の兆し。見えなくても、季節はそこにあった。風の温度が、私に時間を教えてくれた。
「怖いけど……、空気が、生きてるみたい」
私は小さく笑った。その日、私の止まっていた時計の針が、微かに、音を立てて動いた。
それから少しずつ、母との散歩の距離を伸ばしていった。
恐怖がゼロになったわけではない。けれど、肌で感じる季節の移ろいは、私を少しずつ「人間」に戻してくれた。冬の刺すような風が、柔らかな春の陽光に変わり、やがて湿度を帯びた初夏の気配へと移り変わる。
そして、運命のあの日がやってきた。
「美緒、たまには遠出してみる? 梅田まで、母さんと一緒に」
大阪の梅田。かつて私がお洒落をして、友達と歩いた街。
今の私にとって、そこは巨大な迷宮に他ならない。けれど、変わりたいという欲求が、不安を上回った。
地下鉄の振動を抜け、辿り着いた梅田の地上は、想像を絶する情報の濁流だった。
何千人もの足音。駅の構内アナウンス。デパートから流れてくる芳醇な香水の匂いと、どこかのカフェの焙煎の香り。
「すごい人ね……」
母の腕を掴む指に力が入る。人の波が私を押し流そうとしているようで、足がすくんだ。
「少し、休もうか」
母に連れられ、百貨店の一角にあるベンチに腰を下ろした。
座っているだけでも、目まぐるしく変化する音の波に酔ってしまいそうになる。
「美緒、ごめんね。ちょっとあそこのカウンターで用事を済ませてきてもいい? すぐそこだから。ここで待ってて」
母の声に、私は頷いた。
「分かった。ここでじっとしてる」
けれど、その「すぐ」という感覚が、視覚を失った私と母では違っていた。
十分、十五分……。正確な時間は分からない。けれど、周囲のざわめきの中で一人取り残されている感覚は、時間を永遠のように引き伸ばした。
隣に座っていた誰かが立ち上がり、別の誰かが座る。私の横を通る革靴の音。高いヒールの音。子供が走る音。
母が、戻ってこない。
不安が、心臓を直接握りつぶすような速さで膨らんでいく。
もし道に迷ったなら、待ち合わせ場所として決めていた「いつもの噴水広場」に行かなければならない。母も久しぶりの梅田だ。私を探して迷子になっているのかもしれない。
(動かなきゃ。ここにいても、母さんは見つけてくれないかも)
私は決意し、白杖を握り直した。
震える足で立ち上がり、点字ブロックを足裏で探す。
「ごめんなさい……、すみません」
何度も誰かにぶつかりそうになりながら、謝りながら歩く。
視界は相変わらず、霧の中だ。時折、強い光が差し込むと、影のようなものが横切るのが分かる。それが人なのか、柱なのかさえ判別がつかない。
その時だった。
背後から来た誰かが、急いでいたのだろう。私の肩に強く激突した。
「あ……っ!」
衝撃で体勢を崩し、私はその場に倒れ込んだ。そして、手から大切な白杖が離れ、乾いた音を立てて遠くへ滑っていった。
「杖……! 私の、杖……!」
パニックだった。
地面を這い、手探りで杖を探す。けれど、私の手には冷たいタイルの感触と、行き交う人々の靴の振動しか伝わらない。
「おっと、危ないよ」
「すみません……杖が……」
誰もが足を止めてはくれない。冷たい言葉さえ聞こえる気がした。
目が見えない。杖もない。私は広大な砂漠の真ん中に、裸で放り出されたような恐怖に包まれた。涙が溢れそうになった、その時。
「これ、お探しですか?」
低くて、けれど温かみのある声が、頭の上から降ってきた。
手元に、硬いカーボンの感触が戻ってくる。私の白杖だ。
「あ……ありがとうございます……!」
「大丈夫ですか? どこか怪我は?」
彼は私の腕を支え、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。
その手は、驚くほど温かかった。
「どこまで行かれるんですか? もしよければ、お送りしますよ」
「えっ、でも……」
「一人じゃ大変でしょう。ここは特に混んでますから」
彼の言葉に甘えることにした。私は待ち合わせ場所の広場の名前を告げた。
「ああ、それなら逆方向ですね。よし、行きましょうか」
彼は私の隣に立ち、歩幅を合わせてくれた。
「あ、あの……私の腕、掴んでください。その方が歩きやすいでしょう?」
躊躇いがちに彼の腕に触れる。夏服に近い、薄い生地の向こう側に、しっかりとした筋肉の躍動と、彼自身の体温を感じた。
「あの……すみません、お忙しいのに」
「いえ。僕もちょうど、授業が終わって帰るところだったんで。あ、僕は大学生なんです。四年生。来年から社会人ですよ」
「そうなんですか……」
歩きながら、彼はぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。
就職先が決まったこと。実は家が私の住んでいる町の隣駅で、とても近いこと。
「梅田の迷宮は、目が見えてても迷いますからね。安心してください、僕がちゃんと出口まで連れて行きますから」
普通に、男の人と話すのはいつぶりだろう。
事故に遭う前、部活の帰り道に話していた同級生たちの声を思い出した。
彼の声には、憐れみや同情ではなく、対等な人間としての響きがあった。それが、私の凍りついていた心を少しずつ溶かしていく。
やがて、水のせせらぎのような音が聞こえてきた。
「着きましたよ。あ、あそこに……お母さんかな?」
「美緒! 美緒じゃないの!」
母の悲鳴に近い声が聞こえた。母もまた、私を見失い、パニックになりながら必死で探していたのだという。
母が彼に何度も頭を下げ、お礼を言っている。
私はただ、彼が去っていく気配を感じて、胸の奥がチリりと痛んだ。
もっと、話したい。この温かな腕の主のことを、もっと知りたい。
けれど、私のような「見えない」人間が、彼のような前途有望な青年の時間を奪っていいはずがない。今日はたまたま、彼が優しかっただけだ。
「……あの、あの!」
私は思わず、彼の去り際に声をかけていた。
「ありがとうございました。本当に、助かりました」
彼は足を止め、少しだけ笑ったような気配を見せた。
「……よかったら、また会いませんか?」
その言葉に、私だけでなく母も息を呑んだ。
「家も近いですし、今度はゆっくりお話でも。お母様も、よろしければ」
「えっ……。あ、ええ。もちろん、こちらこそ」
母も、私が外の世界と繋がろうとした瞬間を、見逃さなかったのだろう。
母と彼は連絡先を交換した。彼は「それじゃ、また」と爽やかな風を残して去っていった。
その夜。
私は自分の部屋のベッドに横になり、何度も右手のひらを見つめた。
何も見えない。けれど、彼の腕を掴んでいた時の、あの温かな熱量だけが、今も掌に残っている。
(また、会えるのかな……。また、あの声が聞けるのかな)
暗闇は、もう怖くなかった。
暗闇の向こう側に、誰かが待っていてくれる。その予感だけで、私の心には小さな、けれど消えない灯火が宿っていた。
八年間、死んだように眠っていた私の物語が、再び、音を立てて回り始めようとしていた。
掌の熱が灯す色




