第八話 エイミィを忘れないで
森の中を駆け回り、能力と膂力の限りを尽くしたマリアの猛攻をさばきながら、時子は微かな違和感を覚えていた。
(なぁんかおかしいですわねぇ……)
空中から殴りかかってくる猿拳を難なくかわし、猿拳をフェイントに被せられたマリア本体の蹴りを腕で受け流す。
(やはり妙ですわ。特に“蹴り”)
ガードと同時にマリアの蹴り足をつかんだ時子は、素早く足を払って体を捻り、背負い投げの要領でマリアを地面に叩きつけた。
「んぐっ!」
背中から叩きつけられた衝撃に、一瞬マリアの呼吸が止まる。
間髪入れずに時子がマリアの顔面に銃口を突きつけるも、背後から迫る猿拳の気配を感じて飛び退いた。
通り過ぎた猿拳がマリアを掴んで立たせ、距離を取る。直後、ノータイムでマリアは数メートルの距離を一気に跳躍して時子へと迫り、自身の拳を放つ。
(これです。地面を抉るほどの跳躍力があるにしては、蹴りが軽すぎる)
時子が少しでも距離を取ろうとすると、マリアはすぐさま接近し、銃の有利な間合いを保たせない。
先ほどから感じる違和感の正体を探るべく、時子はマリアの攻撃をさばきながら思考を続ける。
(この後に及んで蹴りだけ手加減しているなどとは思えませんが……それともうひとつ)
迫るマリアの拳を銃を持ったまま弾き、胴体を狙って発砲するも、直前で手首を叩かれて射線が逸らされる。
(この猿の腕、出したり消したりはできないのでしょうか? ずっと二本出しっぱなしですけれど。出し入れができるなら不意打ちとしてこれ以上ないでしょうし、とっくに使っているとは思うのですが……一度見せた以上、出したままの方が駆け引きになるということかもしれませんが)
銃撃やナイフによる斬撃を主としつつも、状況に応じて戦法を変え、型にハマらない動きで翻弄する時子に対し、マリアの戦法は格闘技の基本に忠実だった。
さまざまな格闘技のエッセンスは感じるが、基本的には打撃主体。時子よりやや身長は低いものの、長い手足と驚異的な跳躍力から生み出される加速した打撃の威力は時子を警戒させていた。
それでいて能力による剛腕の打撃だけを主とせず、能力を囮に本体が殴ってきたり、本体をフェイントに能力で殴ったりと、多彩なバリエーションを持つマリアの攻めには、ともすれば時子ですら防戦一方になりかねない勢いがある。
マリアの長い脚が動く。異常な関節の柔らかさから放たれた超至近距離からのハイキック。防御するため、時子が腕を顔の前に上げた。
その時だった。
マリアがにやりと笑ったのが、視界の端に見えた。
「!!」
蹴りと同時に出現した、新たな猿拳による打撃をまともに受けた時子が宙を舞った。
「……やぁれやれですわ。まったく」
地面を転がってなんとか受け身を取る。立ち上がった時子はスカートについた土埃をパンパンと払い、油断なく銃口をマリアに向ける。
(やってられませんわねぇ……!)
マリアの周りに、新たに二本の猿拳が浮かんでいた。
元から出ていた二本に加え、計四本。
「それ、脚からも出るのですか」
「とっておき、ってやつさ」
想定外の猿拳の出現にガードが間に合わず、ダメージは内臓にまで及んでいた。脇腹を抱えながら心の中で悪態を吐く。
(狸め……通りで蹴りの威力と跳躍力が合わないはずです。あの高速移動は足から猿拳を射出する勢いで行っていたわけですか)
四本の猿拳は拳を握ったり開いたりしながら、マリアの周りをゆっくりと漂っている。
(それなら今近づいてこないことにも納得がいきます。おそらくは猿拳を足から射出し、高速で戻すことで行っていたあの跳躍が、すべての猿拳を出してしまったせいでできないのでしょう。つまり腕の数はシャングリラ・マーチという能力名も考えると……今出ている四本ですべて。マーチは四拍子ですからね)
先ほどと打って変わって大きく間合いを取ったままのマリアとにらみ合う。
(はて、最初から四本出していればかなり有利だったはずですが……今近づいてこないことも考えると、おそらく四本同時にコントロールするのにはかなりの集中がいるのでしょう)
「そろそろケリ、つけよっか」
マリアの一声で、四本の猿拳すべてが時子めがけて飛び立った。
マリア自身はその場から動かぬまま、飛び交う四本の拳がこれまでよりも一層複雑なパターンで時子を襲う。
(殴られるだけならうまくやれば受け流せなくもありませんが……この数が相手ですと、おそらく捕まえにくるでしょう。そうなるとさすがに抜けられないでしょうし)
一度でも捕まってしまえば、その時点で終わり。
時子は賭けに出た。
「アンタやっぱ最高だ! こいつを見てむしろ向かってくるなんてさ!」
視界を埋め尽くすように向かってくる猿拳を、かわし、いなし、撃ち抜いて、時子は全速力でマリアへと間合いを詰める。
マリアの歓喜の声に応えるかのように密度を増した時子の銃撃に、マリアは猿拳の一つを自身の前方にやって盾にする。マリアの姿が隠れ、時子への攻撃が一瞬止む。
時子はその隙を見逃さなかった。
助走の勢いをそのままに、片足を大きく後ろに引くと、まるでサッカーボールでも蹴るかのように空を振り抜いた。
これまでのどんな攻撃とも異なる衝撃を受け止めた猿拳が、あまりの衝撃にややマリア側に押し出される。
(強い衝撃……! 何しやがった!?)
直後、マリアの後頭部を強烈な一撃が襲った。
意識の外からの攻撃に脳を揺らされ、膝をついてしまう。
「ぐっ……何が……!」
視界が揺れ、頭が混乱し、猿拳たちの動きが止まる。
不本意にも地面を向かされたマリアの視界の片隅に、何かが映る。
「あ、あんのやろぉ……!」
マリアの足元に転がっていたのは、時子のパンプスだった。
「“靴飛ばし”かよ!」
時子は初弾としてまず片方の靴を正面に飛ばし、マリアの猿拳にぶつけた。
鋼鉄製のパンプスは砲丸投げのような威力で猿拳にぶつかり、マリアの注意を正面への防御にむけさせる。
間髪入れずにもう片方の靴も上空へ蹴り飛ばすと、絶妙なコントロールで投げられた靴は放物線を描いて落下、マリアの後頭部に直撃した。
蹴りの威力を増すために重りまで入っている鋼鉄の靴の直撃は、マリアの意識をしばし奪うのには十分であった。
マリアが頭を抱えてうずくまっていると、いつの間にか銃撃が止んでいることに気づく。
近くでエンジンのかかる音がする。排気音がし、地面や砂利の上を走るような音が遠のいていく。
割れるように痛む頭を押さえながら、マリアが猿拳をどけて前方を伺うと、遠くにバイクで走り去る時子の姿が見えた。
「……ハァ!? 嘘だろ!?」
マリアは怒りで痛みも忘れ立ち上がった。
「逃げやがった!」
自分が多少昏倒した隙に、とどめも刺さずに行ってしまった好敵手。
意識を失ったのはほんの数瞬だというのに、それで負けとみなされたのが我慢ならなかった。
「待ちやがれクソメイドォー!」
バイクの近くに用意してあったブーツに履き替えた時子は、後ろから聞こえる叫び声を無視してバイクを駆った。メンテナンスの行き届いた愛車は山道を物ともせず、力強く時子を運ぶ。
バイクはもともと涼子の別宅に来る際に乗ってきたもので、林の中に停めてあったものだった。
時子は初めから、マリアを倒すことなど一切考えていなかった。
最優先はあくまで涼子の救出。
そのためにはマリアを倒す必要は決してなく、時子がマリアを相手しているうちに早見が救出できるならそれでよかった。
しかし先ほどからこっそりと隙を見て操作していたインカムからは、早見がおそらく戦闘中であることが伝わってきていた。
早見の到着を待ちつつ時間を稼いでいたものの、マリアが四本腕に切り替えた時点で、時子は見切りをつけた。
時間稼ぎも時間の限界。時子はさっさと逃げるため、靴飛ばしに至った。
あえて間合いを詰めたのは勝負に出たのではなく、マリアの一方的な攻めの手を止めて靴飛ばしの隙をつくるためであった。四本もあれば一本は銃撃の盾にするだろうという読みは的中する。
マリアの能力の射程距離外に逃げるためにはどうしてもバイクに乗る隙をつくる必要があったのだ。
「待てっつってんだろ!」
すぐ後ろからマリアの声がした。
「やはり来ましたか」
山道でスピードのうまく出せないバイクに、マリアの高速移動ならばギリギリ追いついてきてもおかしくないとは思っていた。
時子は一瞬だけ振り返り、マリアを視界に捉えた。
「……おやまあ」
時子が目にしたのは、二本の猿拳で木々をなぎ倒しながら、一本の手のひらに乗り飛行するマリアの姿だった。
「なるほど! そういう使い道もありますのね!」
「テメェ逃げてんじゃねぇぞオラァ!」
我ながら感心している場合ではないと思い直した時子は、マリアを振り切るべくさらにスピードを上げ、林の中を駆け抜けていった。
早見さんの能力によって空中に弾き飛ばされたしほりを、地面から勢いよく噴出した水流が飲み込んだ。
そのまま水柱が低くなっていくのに合わせて、しほりは地面に降り立った。膝に手をつき、荒い息を整えている。
「……今のは、効いたわ」
髪も服もびしょ濡れで、編んだ髪はほとんど解けかけている。水の滴る前髪が顔に垂れ、髪の隙間から射ぬくように鳶色の瞳が早見さんを睨む。
「ひどい痛みよ。骨なんか、折れてるところあるんじゃないかしら。正直吐きそうだわ」
「……あなたが生きていてくれたことに感謝します。大人しく降伏していただけませんか」
早見さんはしほりの近くに立って、額に銃口を向けていた。
「自分で殺しかけた相手に向かって“生きていてくれて感謝”だなんて、よく言えるわね。まだまだ私を痛めつけられそうで嬉しいって意味かしら。あなた、サディストなの?」
しほりはかなり消耗している様子だったが、髪をかき上げ、啖呵を切った。
「とんでもございません。私にそのような趣味はありませんよ。むしろ今、大変に心を痛めております」
「……ああ、そういうこと。あなた、自分が一番かわいいのね。私が死ぬと自分が後味悪いから、攻撃はするけど死んでほしくない。これだけ痛めつけておいて勝手なものね」
「勝手、ですか。確かにその通りだとは思います」
早見さんは無表情でしほりを見下ろした。
「あなたの能力なら、その気になればもっと確実に私を殺せるタイミングがいくらでもあったでしょう? 人を殺す覚悟がないなら、大人しくあなたが死になさい」
「殺す覚悟なんてありませんよ。人の死は、私には重過ぎます」
静かな声で早見さんは言う。
「それにこれはあなたのお好きな涼子様の言いつけでもあるのですよ。なるべく穏便にことを済ますように、と」
「自分が今、嫌なことから逃げるために女を盾にした最低な男だって自覚、あるかしら?」
しほりの声に不快そうな棘が混じった。
「黙りなさい。涼子姉のせいにしないで、不愉快よ。涼子姉に言われたからって、言う通りにすることを選んだのはあなた自身でしょう。やっぱりあなたは自分がかわいいだけ」
しほりは不機嫌さを隠そうともせずに早見さんをにらみつけた。
「……私の能力は二つ」
早見さんの眉がぴくりと動く。
「ひとつ、“砂漠の秘宝を見つけ出せ”。見ての通り水を操る能力よ。そしてもうひとつ、昔から私の家系にはごく稀に“視える”者が生まれてきたの。ふたつ目の能力は“遠目塚には視えている”。私もそう。生まれついての能力者」
光の加減だろうか。
しほりの鳶色の瞳が、仄暗く、深い川底のような緑に光ったように見えた。
「私にはね、“宝物”が視えるの。例えば財宝の在処。砂漠のオアシス。そして、誰かの大切なもの。そっちのドロシーちゃんにとっては、そこの希ちゃんが“大切な宝物”なんでしょう? おかげでドロシーちゃんさえ見えれば、希ちゃんの位置は手に取るようにわかったわ」
そういうことだったのか。先ほど背後から飛びかかったのにまるで見えていたかのように対応された謎が解けた。
つまりしほりは、わたしの姿を直接見ていたのではなく、ドロシーを通じて見ていたのだ。
「ね、あなた。早見とか言ったわね。“視えて”いるわよ。どうやらあなたにとっても涼子姉は大切な人みたいだけど、涼子姉に重なってぼんやりと、違う女が。そいつ、誰?」
早見ささんがわずかに目を見開いた。
早見さんの過去については何も知らないけれど、この反応を見る限り、しほりがハッタリを言っているわけではない可能性がある。
「……そう。その女に向き合うのが怖いのね。女の影に目を背け、涼子姉に従うことで、なんとか心の平穏を保っている。涼子姉に縋りついてかろうじて生きている。そんなところでしょう?」
過去を暴くようなしほりの物言いにも、早見さんは黙って返事をしなかった。
「涼子姉は優しいから。どうせみじめで哀れな姿を見せて、拾ってもらったんでしょう? あなたみたいなのが近くにいたら涼子姉には悪影響しかないわ。即刻涼子姉の元を去りなさい。殺すわよ」
「……あなたにとって、涼子様は、何なのですか」
ゆっくりと早見さんが尋ねた。
「本当に私のことをわかってくれる、たったひとりの大切な人。あなたにとっての涼子姉のように、誰かの代用品なんかじゃないわ」
早見さんを心底見下したように、しほりの表情がすっと冷たくなった。
「気は済んだ? ね、さっさと死んで。あなた本当に、生きているべきじゃないわ」
言い終わるや否や、早見さんとしほりの間に地面から水壁が噴き出した。
早見さんは後ろに飛び退き水に向かって発砲するも、しほりには命中していない。
ハッとしてわたしは叫ぶ。
「その女の言うことに惑わされないでください! 今は戦うことを考えて! 早見さんの能力に、勝算はありますか!?」
「……もはや殺すしかありません」
「だったら逃げましょう!」
即座に返事をしたわたしに、早見さんは驚いたように視線をやった。
「早見さんの過去に何があったか知りませんけど、今涼子さんを大切に思っているのは事実なんでしょう! この女だってそうです! 涼子さんを大切に思う二人が、涼子さんのために殺し合いをするなんて間違ってる! そんなの、そんなの絶対に、涼子さんは喜ばない!」
地面のあちこちから水の柱が噴き上がり、まるでしほりの怒りを表すかのように、周囲の地形が変わってしまうほどの破壊を始める。
「逃げましょう! この場にいる人は、誰も死んじゃダメなんです!」
「知った風な口を利くじゃないの小娘が!」
頭上からしほりの声がする。
しほりは水中に持ち上げられた倒木につかまって上に立ち、わたしたちを見下ろしていた。
「涼子姉にもう一度四季を取り戻すため、私は世界中を旅したわ! まだ呪いを解く方法は見つからないけど、本当に解くべきなのかもわからないけど、それでも涼子姉が“死にたい時に死ねる”ように、私は、私が、呪いを解かなくちゃいけないの!」
「早見さん! 走って!」
わたしは動けずにいる早見さんに駆け寄り、手を取ると森に向かって走った。
「昔、涼子姉はこう言ったわ。いつか死ぬ時が来たら、きっとその時、私はひとり、って。想像できる? あの人は夏に呪われて以来、年をとれなくなった。本当に死ねるかもわからない涼子姉に待っているのは、まるで銀河の蒸発をたったひとりで待つかのような孤独。でもそんなこと私がさせないわ。だったら私が呪いを解く。それでもし涼子姉が死んでしまうとしても、死ぬときは私が傍にいる。それが涼子姉の望みに違いないの。わかる? 私は愛する涼子姉を殺すために旅をしているの。この気持ちがあなたたちにわかる? わからないでしょうね。だって涼子姉が心を開いたのは私だけなんだから。わからないでしょう? わかるはずがないのよ。私のことをわかってくれたのは涼子姉だけなんだから! テメエらに、テメエらなんかに! なにひとつ、わかってたまるか!」
しほりが叫び、それに応えるように水流がわたしたちを飲み込むべく上からも下からも襲いかかる。
「希逃げて!」
走りながら叫ぶドロシーにも水流が迫る。と、何度か聞いた車のクラクションらしき音が再び鳴った。水流は何かに弾かれた衝撃で霧散する。
「希様のおっしゃる通りです。今は逃げましょう」
三人で合流し、一塊になって走る。
「今のやっぱ早見? 何したわけ?」
「ええ。説明が遅れましたが、私も能力者です。能力名は“エイミィを忘れないで”。一言で言うなら“交通事故”、念動力の一種です」
早見さんが走りながら言った。
「車がぶつかった衝撃を任意の場所に再現する念動力ですので、力の加減もできず、クラクションの音も勝手に鳴ってしまいます」
「そういうことだったんですか!」
確かに念動力なら、敵の攻撃の水が何かにぶつかって軌道を変えたこと、しほりが突然吹き飛ばされたこと、すべてに納得が行く。
「……あの女性の言っていたことは当たっています。過去、私をかばって目の前で恋人が交通事故に遭いました。そのトラウマから深層発現症候群を発症し、トラウマは今も能力という形で私を離してくれません。できれば使いたくなかった。なのでお二人にも戦闘が不利になるのを承知で秘密にさせていただきました。申し訳ございません。しかし希様、あなたのおかげで目が覚めました」
そう言って早見さんは少し笑った。
「自分が今、何を大切に思っているのか、思い出すことができました」
「早見さん……」
「過去、ボロボロになった私を助けてくれたのは涼子様です。私はもう、大切な人を、目の前で失いたくない。能力を使うかどうかを迷っている場合ではありませんでした。あの女性を早くなんとかして、涼子様を助け出さなくては。それが本来の目的であり、今の私の、生きる意味です」
わたしは小さく頷いた。
早見さんの過去に何があったかはわからないけれど、この人にとって涼子さんがただの雇用主なんかじゃないことはさすがにわかる。
大切な人を救い出すこと。
それは時に、何よりも大事なことだ。
「でも希、実際どーする? あのおさげ自体はそんなに早く動けないみたいだけど、水はすげー遠くまで飛んでくるよ。逃げるなら遠くに行かなくちゃ」
「うん。車ももうダメになっちゃったし、どうしよう……!」
ドロシーの言う通りだった。しほり自体に機動力はなさそうだったが、遠距離タイプの彼女の攻撃をかいくぐって逃げ切るほどの機動力はこちらにもない。このまま早見さんの念動力で防ぎ続けてもイタチごっこでしかないだろう。
「足で走ってたら逃げ切れそうにないよ」
「それでしたら、ご心配には及びません」
「え?」
早見さんがそう言った後、何度も聞いた車のクラクションが鳴った。早見さんの念動力によって、敵の女性とわたしたちの間を遮るように近くの木々がなぎ倒される。倒木によってしほりの水流がやや足止めされた。
「時間は十分稼げました。これより二手に分かれます」
「どういうことですか?」
まるで何かを待っていたかのような言い方をする早見さんに疑問を投げかけたその時、林の奥から猛スピードで何かが飛び出してきた。
車とは異なる排気音を立て、枝を折りながら現れたのは、大型の黒いバイクだった。
サイドカーのついたそのバイクはわたしたちの目の前で停まると、乗っていた人物はこちらに笑いかけ、口を開いた。
「お待たせいたしました」
「時子さん! 無事だったんですね!」
バイクにまたがって登場したのは、一人別行動をとっていた時子さんだった。
「時子じゃん! 元気?」
「もちろんですとも。お二人とも、お怪我はございませんか?」
「はい!」
「余裕だよ。ヨユー」
そういう時子さんは、戦闘の跡なのだろう、いつも着ているフリルの少ないエプロンドレスがところどころ破けたり汚れたりしていた。
再会を喜ぶわたしたちに早見さんが言う。
「お二人は時子様のバイクに乗ってお逃げください。時子様、お二人をできるだけ安全な場所へ」
「お任せくださいな。少々気の短いお猿さんに懐かれてしまいましたが」
そう言って時子さんは肩をすくめた。
「お二方と一緒なら、どうとでもなるでしょう」
「猿?」
「時子様が戦っていた敵のことです。時間がありません、ともかくお二人はお逃げください」
「早見はどーすんの?」
「私は直接別宅へ向かいます。ここからなら走れば屋敷はすぐそこなので。私なら敵の水の能力も防げます」
「ふーん」
ドロシーは何か言いたそうだったが、口をつぐんでわたしの方を見た。わたしの判断に従う、という意味だろう。
「……わかりました」
確かにわたしたちの能力ではしほりの攻撃は防げない。ドロシーはおそらく敵に背を向けたくないのだろうし、わたしだって心情的には早見さんを一人にしたくない。しかし冷静に考えて、ここは離れるべきだろう。
わたしは首肯する。
「では解散ということで。お二人とも、乗ってくださいませ」
時子さんの言葉に従い、わたしは時子さんにつかまってバイクの後ろにまたがった。
サイドカーに乗り込んだドロシーが渡されたヘルメットの紐を締めているうちに、背後の倒木が地面から噴き出した水流で吹き飛んだ。
「こっちの敵の能力は水を操ることです! 地面から水流が来ますから気をつけて!」
「承知いたしましてよ!」
時子さんはこんな時だというのに妙に楽しげに受け答えしながら、バイクを急発進させた。緊迫した局面が続いていたから、時子さんのいつものおどけた口調がなんだか頼もしい。
早見さんが林の奥に消えていくと、後ろからしほりの声がする。
「逃がさないわ! マリィ!」
「はいよ!」
どこからか別の女の声がした。聞いたことのない声にわたしが振り向くと、木々の間から何かが飛び出した。
黒い、巨大な猿の手だった。
手首から先だけのそれらは宙に浮かび、手のひらの上に麦わら帽子を被った女が腰掛けている。監視カメラで見たもう一人の敵だ。
黒い手はしほりを拾い上げ、二人が同じ手のひらに乗り込む。そのまま飛翔してわたしたちの跡を追ってきた。
わたしたちのすぐ横の地面から水柱が上がる。
「まずいです時子さん! おそらく水の能力の射程距離を保たれています!」
ただでさえ射程距離の長い水を操る能力者と、機動力を付与する飛行能力者のペアとは!
ペアを組んでいるだけあって、その能力の相性は抜群だった。これではこちらがバイクという機動力を手に入れても逃げ切れない可能性すらある。
「まあ大変! 飛ばしますわよ!」
時子さんがアクセルを思い切り吹かし、足場の悪い山道をありえない速さで駆け抜ける。わたしは必死で時子さんにしがみついていたが、ドロシーはスピードの出る乗り物が楽しいのか、こんな状況だというのにけらけら笑っていた。
「公道に出ますわ! しっかりつかまっていてくださいませ!」
時子さんの言葉に身構えるや否や、バイクは急カーブし、木々の間を突っ切って宙に躍り出た。視界が開け、空が広がる。
「ヒャッホー! 飛んでる!」
「ひいぃ!」
眼下の舗装された道路に着地し、衝撃で振りほどかれそうになるのを必死で時子さんにしがみついてこらえる。
「カーチェイスなんていつ振りでしょう! 女スパイの血が滾りますわ!」
「女スパイだったんですか!?」
「いえ、わたくし、口ではこう言っておりますが、軍の諜報部におりました頃の仕事は、実は事務作業がメインでございました……」
「えっ、事務!?」
「嘘でございます」
「えっ、えと、ええっ!?」
なんでこのタイミングで嘘ついたのこの人!? 女スパイだから!?
「待てっつってんだろクソメイドォ!」
追っ手の声がすぐ後ろに聞こえる。頭の中に浮かんだたくさんの疑問符を無理やり隅に追いやって、目の前の敵に集中する。
舗装された道路に出てから、時子さんの運転するバイクはさっきまでの山道よりも明らかにスピードが出ていた。しかし相手の飛行するスピードもかなりのものだ。完全に引き離すことは難しい。
「あの黒い手は何なんですか?」
「わたくしが先ほどまでお相手していた者の能力でございます。黒い手を四本出現させて遠隔操作をする能力のようですが、あれでなかなかパワーがお有りでして」
「パワーがおあり! それは困った!」
ドロシーがやけに楽しそうに言った。
その時、黒い拳が一本だけ速さを増してわたしたちに近づいてきた。
「テメエらもまとめて捕まえてやるよ!」
帽子を被った方の女が叫び、加速してわたしたちに追いついた黒い手が横なぎに振るわれた。サイドカーに乗っているドロシーがニヤリと笑う。
「大丈夫だよ時子」
襲いかかる黒い剛腕は、ドロシーがかざした指先に触れた瞬間。
破裂した。
「あたしたち、こういうの相手なら無敵だから!」
腐り落ち、内側から発生したガスで弾き飛んだ猿拳の肉片を避けもせず、ドロシーはわたしの方を見て言った。
「ね、希?」
わたしとドロシーの能力は、さっきの水を操る能力者とは致命的に相性が悪かったが。
「うん」
触れば腐るドロシーの能力と、わたしの能力。
物理的な衝撃が相手なら、わたしたちの能力は、“絶対防御”だ。
「——反撃開始だよ!」
「お待たせいたしました」
気の扉がきしみながら開く音。
続けて、慣れ親しんだ使用人の声がする。
まぶたに覆われていた紫水晶の瞳がゆっくりと開かれ、夏の魔女は眠たげに声を発した。
「……待ちくたびれちゃったわ」




