第六話 シャングリラ・マーチ
涼子の捕らえられた洋館の近くで木陰に身を潜め、時子は双眼鏡を覗いていた。
温度を感知するサーモグラフィーのついた高性能な軍用の双眼鏡は、館の中に三人の人影を捉えている。
(一部屋だけ真っ赤ですね……これはどう見ても涼子様の仕業)
時子の足元には、朝顔の花が咲いている。
涼子の携帯と上着が落ちていた場所からこの別宅まで途切れることなく延びていた朝顔のツタを、時子はすぐさま涼子による目印だと判断して辿った。実際、夜には目立たず、朝には花開く朝顔を目印に残したのは、涼子のとっさの機転であった。
現在時子は茂みの中で様子を見ながら、早見との合流待ちをしているところである。
敵がただの武装集団であれば、人数次第では単身突入することも選択肢にはあった。実際確認できた敵の人数は二人のみで、時子一人でも十分に制圧できるかに思われた。
しかし問題は、そもそもたった二人相手に大人しく涼子が捕まっているということだった。普段なら二人程度返り討ちにする涼子が捕まったということは、涼子の能力と相性の悪い能力者か、もしくは逆らえない理由があるか、どちらかだろうと時子は見ていた。
(うーむ。涼子さまが気温を上げるだけに留めているということは……)
涼子は夏を操るという規格外の能力を持つが、戦闘に関して特別な訓練を受けたわけではないことを時子は知っている。そのためこういった有事には、涼子は戦闘を極力避け、交渉で解決しようとするのが常だった。穏便に進むよう、それに合わせて時子が工作活動を行うことも多い。
(相手が強すぎるのか、弱すぎるのか。この場合はどちらなのでしょうねえ)
主人が争いを好まない理由は、その穏やかな性格によるところもあるが、単に手加減ができないというところにあった。弱すぎる相手だとかなり手ひどく痛めつけることになってしまうため、性格上何もできないのである。
二人相手大人しくさらわれてから目印で時子を呼び、攻撃せず見せるだけの能力の使い方をしている以上、理由はどうあれ涼子にとって戦いたくない相手なのかもしれない。
引き続き双眼鏡を覗いていると、部屋から一人外に出ていったのが見えた。玄関の扉が開き、麦わら帽子を被った女が現れる。
背格好からして間違いなく、早見たちに送った監視カメラの映像に登場した女だ。
時子は双眼鏡をしまうと、念の為取り出しておいたライフルの銃口を女に向け、息を殺してスコープからそっと様子をうかがった。
「……ねえ、いるんでしょ」
女が言った。しかし顔は時子の方を向いていない。
時子は目を細め、茂みからじっと女を見つめた。
気づかれているのだろうか。それともタイミングが良いだけの、ただのハッタリか。
追っ手の気配を察知できるような勘の良い人間というのは確かに存在する。腕利きの賞金稼ぎともなればそのくらいの度量があってもおかしくはない。
まだ位置まではバレていないなら先手で仕掛けてしまいたいが、相手の力量がわからないうちに仕掛けるのは同時に危険を伴う。時子は迷っていた。
時子が逡巡するそのごくわずかな心の動きを感じ取ったかのように、女が時子の方をはっきりと見た。
目が合った。
お互いがお互いに気づいてしまった時点でもはや奇襲は成立しない。あるのは、いつどちらが先に仕掛けるかの駆け引きのみ。
視線がぶつかった瞬間、時子は迷わず撃った。
時子の判断は決して遅くはなかった。しかし敵の女、マリアもまた、時子が銃を構えていることを瞬時に理解し、先に大きく横に跳んでいた。
洋館の凝った装飾の玄関扉を初弾が貫く頃には、時子の照準は再びマリアを捉えていた。次弾、またもやマリアは横に跳躍し射線から逃れる。
時子は撃ち続けながら、恐ろしく速いマリアの動きに警戒を強めた。あんなのは軍人でも見たことがない。なにせ地面が抉れるほどの跳躍を繰り返し、射線から逃れ続けているのだ。おそらくは能力者と見て良い。
森の中に逃げ込んだマリアの姿を一時的に見失う。時子は茂みの中を素早く移動しながらマガジンを入れ替えた。
背後から、バキバキという木の枝の折れるような音がした。
首筋がぞわりと粟立つ。体が、第六巻が、危機を察知した。時子がとっさにその場を飛び退いた瞬間、それまで時子の居た場所に折れた大木が丸ごと降ってきた。
(倒木? いやまさか……折って投げた……!?)
轟音と共に周りの木々を巻き込んで降ってきた大木を間一髪でかわした時子は、地面を転がってすぐさま体勢を立て直した。
(大木を投げつける膂力、異常な脚力と移動速度……少なくとも身体強化か、それに準ずる能力)
地面をえぐりとるマリアの跳躍の音を感じ取り、反応した時子が後ろを振り向く。俄然にマリアの拳が迫る。とっさの防御で体の前に構えたライフルは、成人女性の細腕とは思えない力で弾き飛ばされる。
すぐさま後ろに跳んで距離を取ろうとした時子に、マリアはやすやすとひと跳びで追いついた。助走の勢いそのままに体重の乗った拳が繰り出される。
腹部を狙った重い拳を、時子はやや体を捻りながら肘を打ち下ろし、同時に膝蹴りを放って完璧なタイミングで挟んだ。衝撃を殺しながら腕へのダメージを与える捌き方に一瞬怯んだマリアの隙を逃さず、時子は懐から目にも止まらぬ速さでナイフを抜いて敵の首筋目掛けて振るう。
瞬間、巨大な衝撃が時子を正面から弾き飛ばした。
「——っぐ!」
とっさに交差した腕で防いだものの、車がぶつかってきたかのような大きな衝撃に呼吸が止まる。
地面に叩きつけらる前になんとか身をよじり、受け身を取った。転がった勢いでそのまま立ち上がり、再びナイフを構えた大きく息を吐く。
「へーえ! あんたヤバいね! 今のどこで覚えたわけ?」
間合いを取り、拳を握りしめて構えるマリアが嬉しそうに叫んだ。
「“蹴り足挟み殺し”じゃん! ほんとに使うやついるんだね!」
「わたくし、普段から格闘漫画を嗜んでおりますので」
呼吸を整え、体の内部の感覚に集中する。ダメージは内臓までは届いていない。時子は早くも回復しつつあった。
こと体を使うことに関しては悪魔的才能を持つと自称する彼女の身体能力の高さは決して驕りではない。
「しかしまあ、さすがにそういうのは真似できませんねえ」
時子は油断なくナイフを構えながら、マリアの横に浮遊するものに視線をやった。
黒い毛に覆われた、巨大な猿の拳だった。
マリアの上半身ほどもある大きさの二本の腕が、マリアの構えに合わせ同じ構えを取る。マリアの能力と見て間違いなさそうであった。
「あんたあの高木涼子ってやつの仲間? 助けに来たってわけ?」
「ええ。有事の際はなるべく穏便に主人を助け出すこと。これも雇用契約の内に入っておりますので」
「なにそれ。雇われってこと?」
「形式上は、そうなっておりますが。わたくしすでに身も心も涼子さまに捧げておりますから、今回のような救出任務に特別手当がつかないことも、ええ、まったく平気でございます」
「え……なんか、大丈夫? もしかしてあれ? あんたの職場、結構ブラック……」
「いけません、それ以上は。わたくし愛があれば十分ですの」
「……で、どうすんの? あいつ助けに来たんでしょ?」
「ええ」
「あたしは見ての通り能力者だから、最初の銃撃で仕留めきれなかった時点でやめといた方がいいと思うけど。ちょっと格闘技できるくらいだったら帰りな」
「さようでございますか」
時子はナイフをくるりと回して逆手に持ち直し、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。
「……少々、不本意な結果に。なるかもしれなくってよ?」
「上等じゃん!」
言い終わらないうちに踊りかかったマリアが、まだ時子に届かない位置から拳を振るう。同時にまったく同じ動きで黒い拳が時子を殴りつける。
時子は身を翻してかわしながらナイフで拳を切りつける。
「てかあれだね! あんたの言葉遣い、一昔前の女学校みたいだね!」
「まあ! 女学校という古き良き素敵な響きの言葉を、あなたのような方でもご存知なのですね!」
硬い。ナイフが深く入った手応えはない。
時子はすぐさま本体を狙ってナイフを投げつけた。
「なんて賢いお猿さんなんでしょう! 他にどんな芸ができますの?」
猿呼ばわりに気を悪くしたのか、マリアの眉間に皺が寄る。
投擲されたナイフをもう片方の黒い拳がガードする。ナイフは黒い手の甲に突き刺さったが、連動して本体にダメージが行く様子はない。
時子の目的はその確認と同時に、相手が防御に回る一瞬の隙をつくることだった。
黒い拳が防御した瞬間、時子は太ももにベルトで固定してあった二丁の拳銃を抜いていた。黒い拳ごとマリアに貫通させるつもりで集中砲火する。
「あんた後悔するぜ! せっかく他の奴には手を出さないでおいてやろうって思ってたのに!」
黒い拳は銃弾をもろともしないのか、マリアは盾として片腕をその場に留めた。
横からもう一本の黒い拳が放たれ、時子を狙う。
時子は絶妙のタイミングで跳躍し、向かってくる巨大な拳に両足を揃えて一瞬だけ着地すると、そのまま黒い拳を足場にしてさらに跳躍した。
「あら! 芸達者なだけでなくとっても勇ましいお猿さんですのね!」
マリアの攻撃の勢いも利用して数メートルの高さまで飛び上がった時子は、空中から盾の後ろに立つマリアの姿を捉え、発報した。
時子の頭上からの銃撃に驚異的な速さで反応したマリアは大きく横にステップし、空中からの銃弾の雨をかわす。
「それも世間知らずのなせる技かと思いますと……」
地面を転がりながら着地し衝撃を殺した時子に向かって、銃撃が止んだ一瞬の隙を着いて間合いを詰めたマリア本体の拳が迫っていた。
眼前に迫るマリアの拳を時子は拳銃を持ったままの手で絡め取るようにして捌き、瞬時にマリアの額に銃口を突きつける。
「わたくし、もっとしっかりと教育して差し上げればよかったと、後悔の念に駆られます」
「てめえに育ててもらった覚えはねえよ!」
額に銃口が擦った瞬間、マリアは頭を射線から逸らしながら時子の腕を弾き上げた。
引き金を引くのが一瞬遅れた時子の銃弾は上空へと放たれ、横から迫ってきた猿腕が時子を殴りつける。
「ああ、わたくしとしたことが!」
飛び上がって黒い拳の上を転がるように回避した時子は、回転の勢いを利用してそのまま回し蹴りを放つ。
「たいへん失礼いたしました。そちらさまのご両親の前で、わたくしが育てたなどとご無礼を!」
上段から降ってきた飛び回し蹴りを交差する腕でガードしたマリアが、想像以上に重い一撃に顔を歪める。
着地した時子の発熱した二丁の銃口が再びマリアを捉える。
「心からお詫び申し上げますわ」
時子が引き金を引くより早く、拳銃を持った両腕をマリアが強引に弾き飛ばす。
発砲する直前に射線を逸らされた銃弾が周りの木々を貫く。
「てめえ今この腕見ながらご両親って言ったな!?」
再び時子が銃口を向け、マリアがその腕を弾く。
弾かれたまま手首を返し発砲した時子の銃弾が、動きを読んでいたマリアに最小限の動きでかわされる。
もう片方の手で向けた銃口もマリアの腕に捌かれ、銃弾は地面にめり込んだ。
この間わずか数秒。
「お見事です! 銃との戦いに慣れていらっしゃいますのね!」
「あたしは素手喧嘩が好きでね!」
時子のゼロ距離射撃を次々と腕ごと弾いて避け続けるマリアに、腕が弾かれた勢いを利用して不意に時子が後ろ回し蹴りを放った。
瞬時に身を沈めたマリアにかわされたハイキックはそのまま後ろの細い木をなぎ倒し、半分に折れた木の上部が二人の上に降ってくる。
同時に反対方向に飛び退いた二人だったが、その隙を逃さず時子が発砲する。と同時に横から現れた黒い拳に殴りつけられる。
とっさに腕と足を上げガードするも、重い衝撃に体が浮かび上がり、数メートル吹き飛ばされる。
「なにこいつ。ほんとに人間?」
折れた木が地面に土煙を上げながら倒れる中、銃弾のかすった肩を撫でながらマリアがぼやいた。
「まあ。今の口振りですと、まことにお猿さんの方でしたの?」
着地した時子は左腕をだらりと垂らし、油断なく右腕で銃口をマリアに向けた。
「やっぱてめえ殺すわ」
マリアの元に再び集まった二本の猿腕が、マリアと同じ構えを取る。
「殺す気でいかないとこっちがやられそうだし。さっきの木をぶち抜く蹴りの威力、あんたも何かしらの能力使ってんでしょ?」
「何か勘違いなさっているようですけれど、わたくし、能力など使っておりませんわ」
「はぁ? 生身であの威力なワケ?」
「女たるもの、どこかミステリアスでなくてはいけません」
時子は微笑んで片手でスカートの端をつまみ、軽く膝を折って洋風の礼をしてみせた。
「ですがまあ、今回は宣伝も兼ねて、ネタばらしをいたしましょう」
足先をすっと前に出す。
「このパンプス。街の裁縫屋特性、総鋼鉄製の特注品でございます」
街の裁縫屋ドラゴネッティ作、特注の鋼鉄製パンプスである。
裁縫屋なら戦闘用の靴もつくれるのではないか、などという時子の頭の痛い注文に、鍛冶屋と靴屋のコネを使って応え、仕上げに美しい細工を自らが施した、職人の意地を見せたドラゴネッティ入魂の一品であった。
「……あんたってさ、もはや存在が冗談みたいなやつだよね」
「メイドをやるのも、こう見えていろいろとたいへんなのです」
先ほどの黒い腕による攻撃はガードには成功したものの自動車衝突並みの衝撃を二度も当てられてはさすがに回復に時間がかかっていた。特にガードに使った左腕、左足にはまだダメージが残っている。
会話をしながら息を整えていた二人の間に、つかの間の静寂が流れる。
(だいぶわかってきました。あのお猿さんの拳、単純な腕力は確かに強力ですが、あまり操作は得意ではないようですね)
黒い拳のこれまでの動きを思い出す。
空中を殴るマリアと、同じ動きで殴りつけてきたこと。
時子の腕を弾いた瞬間、二人が動きを止めた一瞬に横から攻撃してきたこと。
(よく見れば“本体と同じ動き”か“本体が止まっている間に黒い拳だけ動かしているか”しかしておりません。おそらく自分と違う動きをさせるには集中が必要なのでしょう。拳の威力も、二本同時に殴られたり捕まったりしなければ、耐えられない威力ではありませんし……といってももう二、三発が限界ですが)
この女の脚力が相手では逃げることもままならない。思い切って向かっていこうにも、大木を折って投げるほどの膂力を秘めた黒い拳の攻撃は脅威だ。
一人では分が悪い。
時間稼ぎ。時子が出した結論はそれだった。
「てかさ、能力無しってのがほんとなら、生身でここまで食い下がったのはマジであんたが初めてだよ。あたしの能力“シャングリラ・マーチ”は見ての通り肉弾戦じゃ負けなしだから。そろそろ大人しく帰んなよ、じゃないとマジで殺し……」
「シャンゴリラ?」
「あああぁぁてめぇやっぱ殺す!」
「ああっ! わたくしとしたことが、ついコンプレックスを刺激するようなセリフを!」
「……退屈だわ」
椅子に縛り付けられたまま、涼子は天井を見て一人呟いた。
マリアに続きしほりも先ほど部屋を出て行ったところだった。
時子はおそらく援軍に早見を呼んでいる。しほりがその存在に気づいて向かったとしてもおかしくはない。
希とドロシーまでこちらに来ていなければいいのだが。涼子はそれが心配だった。
能力のせいで辛い目にあってきた子供たちに、命懸けの戦いなどとは程遠い平和な日常を送らせてあげたいという想いから、二人の面倒を見ていた。
しかしそれに恩を感じていた二人が取った行動は、やはり戦いの中で生きてきた子供としての行動だった。
涼子を連れ戻す。そのために二人が動いていることを、涼子はまだ知らない。
洋館の外からは銃声や木々の折れる音がした。時子が見つかり、マリアとの戦闘が始まったのだろう。
時子は能力者相手の戦いに慣れており、実践経験も豊富だった。敵わないと判断した相手からは即座に逃げる賢明さも持ち合わせている。よほどのことがない限りじゃ大丈夫だろうと、涼子は特に心配していなかった。
(しほりったら、久しぶりに会えたと思ったらまさか私を誘拐するとはね……あの子昔からやけにお金に執着してたけれど、お金目的だけで私を狙うものかしら?)
涼子が真意を問い正す前にしほりは部屋を出て行ってしまった。こうして一人椅子に縛り付けられたまま考え事をするくらいしかすることがなかった。
誘拐されている状態というのは案外暇なものだと涼子は思った。
せめて手足の縄くらいは解けないかと部屋にあるものを見回すが、使えそうなものは見当たらない。涼子の能力もこういう時には役に立たないのだった。
「早く誰か来ないかしら」
使用人の時子が死闘を演じる中、主人の涼子はのんきなものであった。




