第三話 大丈夫、荷物なら早見に持たせればいいわ
目を覚ましてカーテンを開けると、陽はすっかり高くなっていた。部屋のアンティーク調の壁掛け時計を見ると、時計の針はもうすっかりお昼になろうかという時間を指している。
「ドロシーちゃん、そろそろ起きよう」
やはりこれまでの疲労もあったのか、久しぶりのやわらかいベッドでわたしは今の今まで一度も目を覚まさなかった。夕方にも寝たのに朝までぐっすりである。おかげで体が軽い。
ベッドの上で半身を起こしたままぼーっとするドロシーをとりあえず放っておき、部屋を出た。
廊下を歩いて洗面所に向かい、冷たい水道の水で顔を洗う。備え付けのタオルをお借りして顔を拭き、部屋から拝借してきた櫛で適当に髪をとかした。
「……伸びたな」
旅の間も手鏡で身だしなみは整えるようにしていたが、そういえば大きな鏡で顔全体を眺めるのは久しぶりだった。
施設を脱走してからどのくらい経ったんだっけ。
みんなどうしているだろう。無事だといいな。
手で後ろ髪をひとまとめにして束をつくり、ポニーテールのようにして持ち上げてみる。
顔を横に向けて鏡を見ると、結ぶにはやや長さが足りない気がした。髪色も相まってすずめの尻尾みたいだ。結ぶならもう少し伸ばしてからだな。
「なにやってんの?」
部屋から出てきたドロシーが声をかけてきた。
「おはよう。髪伸びたなーと思って」
頭にできたすずめの尻尾を手で持ったまま、ぴこぴこと振ってみせる。
「ふーん」
眠たげな半目でわたしの尻尾を一瞥したドロシーは、ひとつ大きなあくびをすると、隣の洗面台に来て顔を洗い始めた。
ドロシーの細くてやわらかい金色の髪は、毎朝寝癖で大変なことになっている。せっかくの綺麗な金髪に彼女は関心があるのかないのか、いつも適当なところで髪を結んで終わりだった。結び目のできる位置は毎回日替わりだ。
顔を拭いたドロシーは濡らした手ぐしで大雑把に髪をとかし、ゴムで留めたり解いたりをしばらく繰り返していた。
「ドロシーちゃんがそんなに髪をいじってるの珍しいね。やりたい髪型あるの?」
「いや、うーん……」
ドロシーはすぐには答えず曖昧な返事をし、またしばし髪と奮闘してから小さく呟いた。
「なんていうか。希がいつもやらない髪型してたから。なんかそーいうの、やってみたい」
鏡を見ながらそう言ったドロシーは、ややむすっとした表情で髪をいじり続けている。
「けどうまくできない。いつも適当だったし」
「ふーん」
どうやら関心はあるらしい。
「やってあげようか?」
「え、ほんと? いいの?」
「いいよ。どういうのがいい? あんまり難しいのはやめてね」
「じゃあ、なんか……いい感じに」
「いい感じに……?」
なんだその美容師が困りそうな注文の仕方は。
単に髪型を知らないのもあるだろうし、やってみたいのがあっても言うのが恥ずかしいのだろう。
ドロシーを椅子に座らせ、後ろに立って鏡を眺める。
ひとまず肩くらいまであるドロシーの髪の上の方をひとつかみ、後ろでまとめて結んでみた。後ろ髪は流したままの、いわゆるハーフアップだ。
「どう? ハーフアップ」
「……おお」
ドロシーは頭を動かしたり、結んだ毛束に触ったりしながら、小さく感嘆の声を漏らした。
ハーフアップは上品な印象を与えるからか、普段はやんちゃなドロシーも西洋の美しい金髪の少女という感じに見えてくる。顔立ちも整っているから、素材が良い。
「編み込みとかはできないから、結局どこでどう結ぶかくらいになっちゃうんだけど……ポニーテールとかもやってみる?」
「うん」
一旦髪を解き、後ろで一本に束ね直した。ドロシーに顔の向きを変えてもらいながら、頭の形が綺麗に見えるように毛束をつまんで結び目から引っ張り出し、シルエットを整える。
「どう? ポニーテール」
「……おお」
今まで他人の髪を触ることなんてほとんどなかったけど、けっこう上手にできた。もともとわたしはかなり不器用なので、一回目でこの出来は奇跡である。今日は調子が良い。
「希すごいね。よくできるねこんなの」
「自分でもびっくりしてる」
「ありがとう。今日これにする」
ドロシーはポニーテールが気に入ったらしく、鏡に映る自分の姿をいろんな角度から眺めていた。
鏡越しにわたしと目が合うと、少し照れくさそうに笑っていた。
朝昼兼用となった食事を済まし、わたしたちは時子さんの運転する車で麓の街に向かった。相変わらずゴツい大きなオフロードの車だったが、これは時子さんの趣味らしい。ちなみに休日は車弄りをして過ごすそうだ。
街に着き車を降りると、涼子さんは時子さんに連絡したら迎えに来るよう指示し、時子さんはそのまま車で帰っていった。
「今日は荷物持ちも居るからたくさん買うわよ」
「どうぞお手柔らかに」
白いブラウスと青いスカートでなぜか一番張り切っている涼子さんの横で、荷物持ちに指名された早見さんが苦笑していた。
女子供だけより大人の男性も保護者として居た方が安心だろうと、涼子さんに連れてこられたのだった。
子供扱いは久々だったから少しそわそわしたが、ここしばらくは自分がドロシーの保護者として気を張っていたので、久しぶりの感覚だった。頼れる大人が居るのはいいものだ。
「今時の十代の女の子ってどういう服が好きなのかしら。とりあえず何軒か回ってみるから、気に入ったのがあれば遠慮なく選んでいって」
「はい。本当にありがとうございます」
「いいのいいの。私と希ちゃんの仲じゃない」
「えっと……はい……?」
昨日知り合ったばかりで仲も何もないと思うのだが、それ以上何も言わないようにした。
「まずはその店から入ってみましょう」
「どう? いいのあった?」
「うーん、悩みますね」
「希ちゃんってどういうのが好みなの?」
「えっと……あんまり可愛すぎるのはちょっと」
「ああそうなの。じゃあこれなんかは?」
「あっ、それいいですね。着てみてもいいですか」
「どうぞ。待ってるわね」
わたしは涼子さんと一緒に、時には試着しながら服を選んでいった。
涼子さんは本当に楽しそうにするので、もうこの際何でも遠慮なく買ってもらおうという気持ちになりつつあった。
「ねえ希、これひらひら過ぎない?」
「大丈夫、かわいいから!」
「やっぱこういうのはあたし似合わないと思うんだけど……」
「大丈夫、かわいいから!!」
ドロシーは服を見ても自分ではいまいちわからないと言うので、涼子さんと二人でいろんな服を着せて楽しんだ。
ドロシーに何を言われてもかわいいを連呼して興奮しているのは主にわたしね。
ドロシーは金髪に緑の瞳という素材の良さを持て余している少女なので、正直自分の服を選ぶより楽しかった。
ドロシーも最初は照れくさそうに試着した服を披露してくれたり、まんざらでもない様子で楽しんでいたが、何度も着替えさせられてだんだん疲れてきたのか、後半は「もうどれでもいい……」と呟きながら着替えていた。
「ねえ何回着替えればいいの……もうめんどくさい……」
「あぁんドロシーちゃんかわいい! かわいいよ!」
「希ちゃん大丈夫? 興奮し過ぎじゃない?」
「わたし今、ここ数年で一番楽しいかもしれません」
「そう。よかったわ。あらドロシーちゃん、その服もなかなか似合ってるわね。素敵よ」
「涼子は全部そう言う……」
実際涼子さんの選ぶ服はどれもドロシーに似合っていたので、わたしは涼子さんのセンスに感服しながらうんうん頷いていた。ドロシーの魅力をわかっているではないか。
わたしたちによってそれはそれはいろんな服を着せらられたドロシーだったが、彼女は実は寝る時に着たTシャツの着心地が気に入っていたらしく、プリントTシャツの店に入ったときは再び元気を取り戻した。
ドロシーの選ぶ柄は変わったものが多く、例えば大きなサイの顔がリアルタッチで描いてあるものや、緑色の生地にピンクの字で大きく“フレッシュ”と描いてあるようなものを見つけては、目を輝かせて「これにする!」とわたしたちのところに持ってくるのだった。
その絶妙なセンスにわたしは何も言えずにいたが、ドロシーが楽しそうなので邪魔しないことにした。
「ドロシーちゃんのセンスは独特ねえ」
「そう? あ、これも良くない?」
ドロシーの服選びをニコニコしながら見ていた涼子さんに、ドロシーが今度は大きなさやえんどうの絵と“プライド”という文字がでかでかとプリントされたものを持ってきた。どうしてそうなってしまうんだ。
「あら、さやえんどう? かわいいわね」
「違うよ、これはカッコいいんだよ」
「確かにそんな風にも見えてきたわ。でもきっと似合うわよ」
「ほんと? じゃあこれにする」
涼子さんに褒められるとまんざらでもないらしく、ドロシーはまたひとつ面白Tシャツを買った。実際似合うしいいか。
「そういえば希ちゃん、裁縫が趣味なのよね? このあと裁縫道具でも見に行ってみる?」
「え、いいんですか? 行きたいです!」
Tシャツ屋をもう一周し始めたドロシーを早見さんに任せ、わたしは涼子さんの計らいで裁縫屋に行くことになった。裁縫道具は荷物と一緒に橋で落としてしまっていたからありがたい話だ。
わたしはもともと手先が不器用なのだが、施設にいた頃に不安を紛らわすためあえて苦手なことに挑戦しようと裁縫をやっていた。余裕が出てきたらちゃんと勉強したいとも思っていたのだ。
「こんにちは、お久しぶりね」
涼子さんが連れてきてくれたこの店は、裁縫道具や布を売っている小さな店だった。店内は少し薄暗く、開け放たれた窓から差し込む昼下がりの夏の日差しだけが灯りだった。
かなり高い天井のてっぺんまで伸びる棚にぎっしりと布が詰まっていて、壁にはハシゴが掛けられている。
布製の小物や可愛らしいぬいぐるみなども棚に並べて売っており、カウンターの奥にはいくつもの服が壁に掛けられ、洋服の直しもやっているようだった。
素敵な雰囲気の店だと思った。
店員はカウンターの奥のミシンの前で黙々と作業をする男の人がひとり。
大柄な太った体で小さく背を丸め、大きな手で針やハサミを器用に扱っているその男性は、もう老人と言ってもいい年に見えた。彫りの深い険しい顔つきの口元は長く白いヒゲにすっかり覆われ、ぼさぼさの白髪頭に頭頂部は禿げ上がっていた。
彼は店に入って声をかけた涼子さんを小さな丸メガネの奥から一瞥すると、低い声でぼそりと「いらっしゃい」と言った。
「こ、こんにち、は……」
店の雰囲気からは想像もできないような大柄でいかつい店主に面食らい、やや動揺した声で挨拶する。
「ねえドラゴネッティさん。この子が裁縫道具を探しているらしいのだけど、一式見繕ってもらえないかしら」
すごい名前だ。確かイタリア系の名前ではなかっただろうか。
ドラゴネッティと呼ばれた店主は黙って作業を続けていたが、やがてこちらを見ないまま日本語で言った。
「……珍しいな。初夏の魔女が、ついに弟子でもとったのかい」
魔女?
今のは涼子さんのことだろうか。どういう意味だろう。
「あら、弟子くらいとるわ。魔女だもの」
涼子さんが楽しげにくすくすと笑いながら答えると、ドラゴネッティさんのヒゲがもさもさ動いた。多分笑っているのだと思う。
「お嬢ちゃん、裁縫をしたことはあるのかい」
相変わらず手を止めないまま、こちらに目を向けずに彼はわたしに聞いた。
「えっと、簡単なものなら……あ、でも少し本の図を見たくらいで、知識もないですし手先も不器用なんですが」
なんだか緊張してしどろもどろになってしまった。不器用なわたしの裁縫の腕なんて本職の方相手に「裁縫ができる」だなんてとても言えないレベルのものなのだ。
わたしの言葉を聞いたドラゴネッティさんは、しばし黙って作業を続けていた。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。
「自分の道具はひとつも持ってないのかい」
「は、はい、今は……」
針のひとつも持っていないようなやつが裁縫だなんて、このいかにもベテランの職人にどやされてしまうのではないかと、内心ビクビクしながらわたしは答えた。
彼はまたしばし沈黙したまま作業を続け、わたしはドキドキしながら返答を待った。
「……明日には一式揃えておく。またあの気取ったメイドにでも取りに来させな」
「ふふ、そう言ってくれると思ってた。希ちゃん、お礼言っておきなさい。この人見た目はいかついけれど、本当はとってもやさしいのよ」
「あ、ありがとうございます!」
「……他ならぬ魔女様の頼みだからな」
こちらを見ないまま答える彼の白ヒゲで覆われた顔が、少し赤くなった気がした。思ったより怖い人ではないのかもしれない。
それから涼子さんとドラゴネッティさんは少し世間話をして、わたしたちは再びお礼を言って店を後にした。
「はあ……緊張しました」
「やっぱり怖かった?」
「はい。でもあんなに大柄で手も大きい方が裁縫のプロだなんて意外です。器用なんでしょうね」
「どうかしらね。職人だって最初からなんでもできたわけじゃないわ。案外彼って、昔は不器用だったらしいわよ」
「あ……わたし、失礼なこと言っちゃいましたね」
「ま、本人に言わないうちに撤回したんだしいいんじゃないかしら」
涼子さんは涼しい顔でそんなことを言った。
「早見たちと合流しましょうか。ドロシーちゃんはもう満足したかしらね」
涼子さんは集合場所のカフェに向かって歩き始めた。
「そういえば、ドラゴネッティさんの言っていた魔女というのはどういう意味ですか?」
早見さんたちと合流する前に、わたしは気になっていたことを涼子さんに聞くことにした。
確かドラゴネッティさんは、涼子さんのことを“初夏の魔女”と呼んでいた。
「そのままの意味よ。この街の人たちはみんな、わたしのことを魔女と呼ぶの。この辺一帯はわたしの能力のせいでずっと夏のままだから、それを魔女の呪いのせいでこの街はこうなんだ、ってみんな子供に教えてるのよ」
「え、それって……」
「ああ、別にそのせいで虐げられてるなんてことはないの。ただ、人によっては私のことを怖がったりするわね。ドラゴネッティさんなんかは全然平気みたいだけど」
歩きながら答える涼子さんの声には、特に何の感情も込められていないように聞こえた。もうすっかりこの状況に慣れてしまった、という声だった。
「それより、そろそろ一度休憩にしましょう。集合場所のカフェがもうすぐよ」
「あっ、はい。結構歩きましたもんね」
涼子さんはあまりこの話題を続けたくないのかもしれない。これ以上は詮索しないことにして、わたしは遠くで手を振るドロシーちゃんに手を振り返した。
「思ったより買わなかったわね」
カフェに入り、店のソファに几帳面に並べられた大量の買い物袋を眺めながら涼子さんが言った。
「涼子様、私一人が手荷物として持てる量は、そろそろ限界なのですが……」
一人だけ汗の量が違う早見さんが、額の汗のハンカチで拭きながら言った。
「あら、そうなの? じゃ、今日はこのくらいにしておきましょうか」
「申し訳ありません」
汗だくで水を飲んでいる早見さんを見ていると、わたしまで申し訳ない気持ちになった、なにせ彼の抱える荷物のほぼすべてが、わたしとドロシーの荷物なのだ。「自分で持ちますから」と何度か言ったものの、「お気遣いなく」と早見さんは笑顔を見せるばかりで、荷物を持たせてはくれなかった。
そのまましばらくしばらく休んだ後、わたしたちは迎えに来た時子さんの車で家に戻った。
夕飯の時間まで暇だったので、手持ち無沙汰なわたしは夕飯の支度をする早見さんを手伝おうと、台所に向かった。
台所では早見さんが腕まくりをして魚を捌いているところだった。
「あの、何かお手伝いできることはありませんか」
「ああ、希様。ありがとうございます。お気持ちはうれしく思いますが、お客様の手を煩わせるわけには参りませんよ」
ちなみにわたしは、料理がほとんどできない。
……本当に気持ちだけで来てしまった。
「ですが、えっと、何だか毎回申し訳ないですし……」
「お気になさる必要などないのですが、まあそういうことでしたら。少し手伝っていただいてもよろしいですか?」
「はい! 何をすればいいですか?」
「そうですね。私は今手が汚れていますから、そこの棚から皿をいくつか出して、机に並べていただけますか」
「はい」
よかった。これなら料理ができなくても手伝える。
次はサラダの盛り付けをするように言われた。
「も、盛り付けって、どうやったらいいんですか……!?」
「難しく考えずとも、適当に乗せていただくだけで結構ですよ」
動揺するわたしに、早見さんはやさしく指示をくれた。まあ乗せるだけならとわたしも気を取り直し、大きなボウルからサラダを取り分けていく。
「あの、早見さんって料理がお上手なんですね。わたし全然できなくて、すごいと思います」
「それはありがとうございます。以前レストランに勤めていたものですから」
いつの間にか魚を捌き終わり他の調理をしていた早見さんは、そう言ってわたしに笑顔を向けた。
「失礼ですが、希様は料理のご経験はあまりないのでしょうか?」
「はい。ほとんどやったことなくて、何も知らないんです」
「そうでしたか。そのご様子ですと、興味はおありのようですが」
「できたらいいなとは思ってるんですけど、これまで練習する機会もなかったので……」
「そういうことでしたら仕方ありませんよ。料理などというのは、必要に迫られれば案外すぐにできるようになるものです」
「そういうものでしょうか」
そうは思えなかった。なにせわたしはとんでもなく手先が不器用なので、包丁なんてものを扱うのは危険極まりないと自分でも思っており、料理は到底できそうにないことの一つとしてカウントしているのだ。
ドロシーと旅をして居た頃も、ほとんどの食事を袋から出してすぐ食べられる携行食品やレトルト食品で済ませていた。わたしだって携帯用小型コンロでお湯を沸かすことならできるのだ。
「早見さん。その、もしよければ、わたしに料理を教えていただけませんか?」
わたしは恐る恐る聞いてみた。図々しいかもしれないが、料理を誰かに教わる機会なんて、この屋敷に滞在している今を逃せばしばらくはないだろうと思ったからだ。
「お食事の準備の邪魔をしてしまうことにはなると思うんですが、わたしも何かお手伝いできるようになりたくて……食事の準備のときに、ついでに少しずつ教えていただきたくて、ダメでしょうか?」
早見さんは意外そうな目でわたしも見た。
「私に料理を教わりたいなどとは、珍しいことを仰る方ですね。料理ならたまに呼ぶ専属のシェフもおりますが」
「あっ、いえ、できれば、その、早見さんに教わりたくて……」
言い終わってから、ちょっと大胆なことを言ってしまったかもしれないと思った。
でも専属のシェフなんていう料理の専門家を呼ばれた日には、わたしの不器用さにその人を怒らせてしまうに決まっている。早見さんならやさしく教えてくれそうだな、というやや甘い気持ちもあったのが正直なところだ。
「私は構いませんが、希様はお客様ですからね。今回はお気持ちを汲んで手伝っていたdかいましたが、やはりお客様に毎度食事の支度を手伝わせるのは少々気が引けます」
「やっぱりいきなりで図々しかったでしょうか。すみません。」
「そんなことはありませんよ。ではこういたしましょう。毎日の夕食の支度の前に、簡単な料理を一品お教えします。それでいかがですか」
「いいんですか! ありがとうございます!」
「構いませんよ。早速何か、一品つくってみましょうか」
「はい! でもできれば、包丁の持ち方から教えていただけると……」
「承知いたしました。ではこちらに」
こうしてわたしはやさしい早見さんに促され、おっかなびっくり包丁を握ったのだった。
その日の夕食には、もしかしたらわたしがまともにつくった初めての料理かもしれない、冷奴が並んだ。




