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第二話 夏の魔女

 いつの間に意識を失っていたのか、わたしが次に目を覚ましたときにはベッドに寝かされていた。ここ数日の疲労もあったのか寝てしまっていたらしい。

 ベッドの上で上半身を起こすと、横に座っていたドロシーが気づいて飛びついてきた。

「希おはよう! 元気になった?」

「うん。体も動くし、麻酔も抜けたみたい」

「よかった!」

 広い洋室だった。ベッドは二つあり、品の良い調度品や家具が置かれている。客間というやつだろうか。

 ニコニコして抱きついてくるドロシーの頭を撫でていると、部屋のドアが開いて、車に乗せてくれたのと同じメイドさんが入ってきた。いくつか瓶やグラスを乗せたお盆を持っている。

「失礼いたします。お加減はいかがですか」

「大丈夫そうです。ありがとうございます」

「それは幸いでございました」

 メイドさんは微笑むと、持っていたお盆をベッド脇の机に置いた。

「冷たいお飲み物をお持ちしましたので、何か召し上がってみてはいかがですか? 温かい方がよろしければ紅茶などの用意もございます」

「え、あ、ありがとうございます。じゃあお水を……」

「かしこまりました」

 メイドさんは水差しからグラスに水を注いでわたしにくれた。ありがたく受け取って一息に飲む。

「ねえさっきの緑色のやつまだある?」

「メロンソーダでございますね、どうぞお召し上がりくださいませ」

 ドロシーはわたしが眠っている間にすでに飲み物をもらっていたらしく、おかわりをもらっていた。

「わたくし、このお屋敷でメイドをしております。佐野時子と申します。何かご入用でしたらどうぞご遠慮なくお申し付けくださいませ」

 丁寧な口調でにこやかに一礼するメイドさんに、わたしはあわてて頭を下げる。

「わたし、明智希といいます。助けていただいてありがとうございました」

「恐れ入ります。お礼でしたら後ほど、主人である涼子さまにおっしゃってくださいませ。わたくしなどにはもったいなきお言葉に存じます」

「あ、えと、はい」

 あまりにも上品で丁寧に接してくるので、分不相応な気がしてわたしは少々動揺する。客人扱いなど受けたことがなかったから。

「お風呂のご用意ができておりますが、いかがなさいますか? よろしければゆっくりと旅の埃を落としていただいて、そののち、お食事をご一緒したいと主が申しております」

「え、いいんですか? そんな」

「風呂! 希風呂入ろう!」

「かしこまりました。ご案内いたします」

「ちょっとドロシーちゃん! あの、すみません何から何まで。ありがとうございます」

「お客様をおもてなしするのは当然のこと、どうぞ我が家と思ってお寛ぎくださいませ」

 わたしはまた時子さんに頭を下げた。

「あの、時子さん。わたしどのくらい眠っていたんですか?」

「はい。希さまがお車の中でお休みになられてから、約四時間ほどが経過しております」

 そうか。確かに車に乗せられたところまでしか記憶にない。

「お医者さまのお話では、単に麻酔の効果と疲労とのことでしたので。お目覚めになるまでこちらの客室にてお休みいただいた次第でございます」

「そうだったんですね。いろいろとありがとうございます」

「どうぞお気になさらず。入浴はすぐになさいますか?」

「はい。そうします」

 体を心配してくれた時子さんに支えられ、わたしはベッドから降りた。窓の外を見る限り、時刻は夕方のようだった。


「希! この風呂超広いね!」

「うん」

 時子さんに案内されたお風呂場は、旅館にでも来たかと勘違いしてしまいそうなほど広い露天風呂だった。実際は施設にいた頃に旅行雑誌の写真で見ただけで、本物の旅館なんて行ったことないんだけど。

 ふぅ、とため息をつき、だんだんと日も暮れ夜に変わる空を眺めながら、久しぶりのお湯の心地よさに目を細めた。

 わたしたちの居た施設のお風呂はかなり狭くてお世辞にも綺麗とは言えなかったし、こんなに綺麗で雰囲気のあるお風呂は初めてだった、せっかくなのでわたしたちは満喫することにし、ドロシーは時折頭からお湯に突っ込みながら跳ね回ってはしゃいでいる。

 しかしここまで親切にされると、逆にあの人たちを親切な一般人と信じきれない自分もまだいる。わたしたちのことをどこまで知っているのか、能力は見たのか、何らかの利用価値を見出したから懐柔しているのか。

 どうもわたしには、初めて会ったときの高木涼子の雰囲気が忘れられなかった。すべてを見透かされているような、わたしたちが能力者だと知った上で匿っているような、そんな印象を受ける。

「そういえば希、希が寝てる間に涼子が来たよ」

 ドロシーがぷかぷかとお湯に浮かびながら目だけをこっちに向けて言った。

「え、そうなんだ。何か言ってた?」

「うん。今この辺りは、ぶっそう? だから、しばらく泊めてくれるんだって。やったね」

「物騒、か……」

 わたしたちの居た施設は、わたしを含む収容者たちの集団脱走により、事実上崩壊した。確か表向きには凶悪犯罪者の収容施設だったり、軍の秘密研究施設だったり、そんな風に言われていたと聞いているから、施設が崩壊して危険な人間たちが世に放たれた、という意味で物騒という言葉を使っている可能性は高い。

 高木涼子は今の所一般人に見えてはいるが、わたしたちが能力を使うところまで見ていた場合、まさにその施設から逃げ出した危険視される側の人間だと勘づいていてもおかしくはない。

「希見て。あたしも宙に浮けるよ」

 ドロシーが仰向けでお湯に浮かびながら、すーっとこちらに近づいてきた。

「空中に寝っ転がる希の真似」

「あはは。似てるかも」

 ドロシーにはこの状況を不安がるような様子は見られなかった。この子もこの子なりに考えてはいるのだろうが、その強大な能力ゆえに、突然襲われてもよほどのことがない限りは大丈夫だという余裕があるのだろう。

「ねえドロシーちゃん。よっぽど危ないことにならない限り、あの二人の前では能力使わないでね。まだ隠しといた方が良さそうだから」

「もう見せたよ」

「え?」

 まるで大したことではないという口ぶりでドロシーが言い、私は固まった。

「あいつら親切なフリしてるだけかもしれないし。希に何かあったら大変だから、希に何かしたら殺すって言っといた。能力見せながら」

「わ、わたしが寝てる間に……?」

「うん。あんまビビってなかったみたいだけど」

 ドロシーは腕を組み、不満げな顔で浮いていた。

「そっか……」

 困ったことになった。どう見てもワケありの女の子二人で、しかも能力者とくれば、さすがに某施設の脱走者ではないかという考えに至るだろう。もともと橋を落とすところや空中歩行も見られていたとしたら今更だけど、確信は与えてしまったはず。

「……そこまで知った上で匿ってるんだ」

 あの人の狙いはなんだろう。本当に一般人の単なる親切なのだろうか。

 ドロシーが能力を見せたときに怖気づかなかったということは、能力者を見たことがあるのか。もしくは何か目的があってわたしたちを利用しようとしている?

 匿うふりをしてあとで賞金稼ぎに引き渡すつもり、なんて可能性もある。だとしたら早々に退散しなければ。警戒するに越したことはないが、しかしどうもいまいち疑いきれないのはなぜだろう。

 ダメだ。頭が回らなくなってきた。

 しばらく寝たとはいえ、空腹とお湯の気持ち良さに思考を奪われつつあるのを感じる。そうも言っていられない状況かもしれないのに。

「そろそろ出よっか」

「うん」

 ドロシーに声をかけ、お湯から上がった。

 脱衣場には時子さんがニコニコしながら立っていた。わたしはなんとなく恥ずかしくてタオルで体を隠す。

「お楽しみいただけたようで何よりでございます。お身体の具合はいかがですか?」

「え、あ、大丈夫です、ありがとうございます」

「それは良うございました。差し出がましいこととは存じますが、お二方のお召し物は洗っておきましたので、乾くまでのあいだ代わりのお着替えをお持ちいたしました」

「え?」

 そう言って時子さんが差し出したのは浴衣だった。これも確か旅行雑誌で見た覚えがある。温泉街ではこれを来て出歩くのだそうだ。なんだかますます旅館に来たみたい。

「もしよろしければ着付けもお手伝いいたしますが、どうなさいますか?」

「ねえそれ涼しい?」

 ごく自然な様子でドロシーの髪を拭き始めた時子さんに身を任せながら、ドロシーが聞いた。

 この子いつの間にか、もてなされることに慣れてきてる……?

「はい。簡単なお召し物ですので、湯上がりにはちょうどよろしいかと」

「じゃあ着る。どうやって着んの?」

「お手伝いいたします。こちらの袖に腕を通してくださいませ」

 わたしが迷っているうち、時子さんは慣れた手つきでドロシーに浴衣を着せた。

「へーなんか綺麗な服だね」

 白地にうっすらと水色の麻模様が浮かび、パステルカラーで青と薄紫の紫陽花の花模様があしらわれた綺麗な浴衣だった。ドロシーのお風呂上がりでしっとりと光る金色の髪にもよく合っている。

 ドロシーは鏡を見るとまんざらでもなさそうな顔でニヤニヤしていた。

「よくお似合いですよ」

 時子さんがより一層ニコニコしながら、胸の前で小さく拍手していた。

 ドロシーは元々着ていたよれよれのシャツくらいしか服を持っていなかったから、他の服を着られて嬉しいらしい。旅の途中に寄った街でも、お金がなくて服はほとんど調達できなかったのだ。

「あいにくとぴったりのサイズがご用意できませんでしたので、大人用のもので一番小さいものを目一杯端折っております。着心地はいまひとつかもしれませんが、ご容赦ください」

「そう? 浴衣って初めて着るからわかんない。かわいいしこのまま着てる」

「さようでございますか」

「あの、すみません、じゃあせっかくなのでわたしも……」

「もちろんでございます」

 少し羨ましくなったのは事実だった。ここは思い切って好意に甘えることにする。

 私のはクリーム色の生地にオレンジの金魚の模様、青色の波紋のような模様の入った浴衣だった。帯の鮮やかなオレンジ色がアクセントになっていてとてもかわいい。

「希のやついいね。金魚の尻尾みたいなのもあるし」

 ドロシーの言葉に鏡を見ると、帯の結び目がひらひらとした美しい金魚の尾ヒレのように綺麗に結んである。

 わたしは自分たちが追われている身であり、正体もバレつつあるということなど一瞬忘れ、ぼーっと鏡に見惚れてしまった。

「……お気に召されませんでしたか?」

 時子さんに声をかけられ、我に帰る。

「あ、いえ、とっても素敵です。ありがとうございます」

 わたしは深々と頭を下げた。

 思えば施設を脱走して以来ずっと気も抜けなくて、服を着て似合うだの似合わないだのと思う余裕すらなかった。

 綺麗な服が着られることが、たったそれだけのことがなんだかとても嬉しかった。

「喜んでいただけて何よりでございます。それではお食事のご用意が整っておりますのでどうぞこちらに」

「……希大丈夫? どっか痛い?」

「ううん。平気。行こうドロシーちゃん」

 なんかもう人を疑うの、疲れたな。

 この人たちはきっとただの親切な人たちなんだ。このままここで、何も考えず休ませてもらってもいいんじゃないだろうか。

 わたしはこの逃亡生活に正直疲れてきていた。追われることにも、気の休まらない野外の夜にも。生きるためとはいえ、今みたいに親切にされても何かの罠なのではないかと考えてしまう自分が、少し嫌だった。


 お風呂場を出て、時子さんに案内されながら長い廊下を歩いた。

 わたしが最初に寝かされていた部屋が洋間だっただけで、どうやらこの建物自体は日本家屋らしい。木の廊下は外に面した縁側というやつだろうし、中庭には池があるし、二階のない平屋だった。西洋的なメイド服の格好の時子さんがやや浮いていた。

「涼子さま、お客様をお連れしました」

 涼子さんは縁側に外を向いて腰掛けていた。わたしたちと同じ浴衣姿だ。濃紺の地に白と紫の花模様があしらわれていて綺麗だった。あれは確か、なでしこの花だった気がする。

「あら。もう動いても大丈夫なの?」

 涼子さんがこちらを向いて言った。

「おかげさまで元気になりました。ありがとうございます」

「そう。ならよかった」

 改めて見ると、この高木涼子という女性は不思議な雰囲気の人物だった。一見まだ若いように見えるが、雰囲気は落ち着いた大人のそれであり、年齢はいまひとつ読めない。

「ふたりとも、浴衣がよく似合っているわ」

「ありがとうございます。服まで貸していただいて」

「いいの。その浴衣も、もし気に入ったようならプレゼントしちゃう」

「いいの? やった!」

「ちょっとドロシーちゃん! 悪いです、そんな」

 とはいえ本当にいいならかなり嬉しい。

「いいのいいの。そんなことよりあなたたち、お腹空いてない? ご飯にしましょう」

「する!」

 喜ぶドロシーに涼子さんは微笑み、わたしはこれ以上遠慮の言葉を発するタイミングを失ってしまった。

「時子」

 涼子さんが一声かけると、時子さんが後ろの部屋の障子を開けた。中の座敷には低い机がいくつも置いてあり、その上にはたくさんの料理が並んでいる。

「ふたりとも座って。遠慮せず食べてちょうだい」

「うひゃー! メシ!」

「こんなに! ありがとうございます」

 立ち上がった涼子さんに促され、わたしたちも机の周りに座る。

「どうぞ」

「いただきます」

「いただきまーす!」

 いざこうしておいしそうな料理の山を目にすると、現金なことに疑いとか警戒とかはどこかに飛んでいき、空腹で頭がいっぱいになった。

「とってもおいしいです」

「そう。好きなだけ食べてね」

 なすの揚げ浸し、きゅうりの漬物、冷しゃぶに冷奴、薬味の乗った出汁茶漬けなど、夏の食材をふんだんに使った料理が和食を中心にたくさん並んでいた。

 どの料理も野菜の色は鮮やかだし、盛り付けがとても綺麗で、家庭料理でよくあるメニューばかりでもとても上等なものに見えた。

「これうまい! まだある?」

 ドロシーはすごい勢いでなんでも食べていた。よほどお腹が空いていたのだろう。気持ちはわかる。なにせ昼間には生きるか死ぬかの窮地をかいくぐったのだから、まだ完全に涼子さんたちを信頼していないとはいえ、そのときと比べれば今の状況の安心感と言ったらなかった。

 そう思うと、きっと元からとても美味しい料理の味もまた格別となり、こうして食事しているだけで生きている実感が湧いてくるのだった。

「あるんじゃないかしら。時子」

「かしこまりました」

 時子さんが呼ぶと、給仕しながら一緒に食べていた時子さんは立ち上がり、どこか他の部屋に行った。長い付き合いなのか、具体的に何か言わなくても伝わっているようあった。そんな間柄の人がいるっていいな。少し羨ましい。

 すぐに時子さんが料理を乗せたお盆を持って戻ってくると、一緒に背の高い男の人が料理を運んできた。

 白いシャツを腕まくりし、黒のスラックスを履いた三十代くらいの人だった。誰だろうと思っていると、涼子さんが男性に目配せして彼は料理を机に置いた。

「お初にお目にかかります、希様、ドロシー様」

 落ち着いた低い声、ゆったりとした話し方で彼はわたしたちの名前を呼び、笑顔を見せた。

「使用人の早見と申します。お料理はお口に合いましたか」

「は、はじめまして、明智希です。お料理とってもおいしいです」

 久しぶりに男性と話すから少し緊張した。

「うまい! これあんたがつくったの?」

 挨拶もそこそこにドロシーが尋ねると、彼は笑顔のまま頷いた。

「私と、涼子様でございます」

「やるじゃん! あんた料理うまいんだね。涼子も」

「私は野菜を切ったりしただけよ。でもありがと」

 涼子さんは伏し目がちにくすりと笑った。

「ありがとうございます。よろしければまだまだお作りいたしますので、どうぞご満足いただけるまでお召し上がりになってくださいませ」

 この人がつくったんだ。すごいな。男の人って料理できないものだと思ってた。

「早見、今は外してもらえないかしら。いきなり大人の男性に近くに来られたら、この子たちが緊張しちゃうわ」

「それは失礼いたしました。ではごゆっくりおくつろぎください」

 早見さんは一礼して部屋を出て行った。

「お気遣いありがとうございます。わたし男性と話すの久しぶりで、正直ちょっと、緊張してました」

 彼は細身だが割とがっしりした体格で、良く日焼けしており、短い黒髪に彫りの深い精悍な顔つきだった。見ようによってはいかついその見た目の割に物腰は丁寧で、その優しそうな笑みを向けられると少しドキリとしてしまい、思わず目を逸らしてしまったのだった。

「そうなの。下がらせて正解だったみたいね」

「早見はお顔が少々険しいですからねえ。あれでも雰囲気は柔らかくなった方なのでございますよ」

 時子さんがいたずらっぽく微笑みながら言った。

「いつも顔を見るたびに思うんだけど、早見ってあれよね。サーフィンやってそう。日焼けしてるし」

「そういった趣味があるとは聞いたことはございませんが、そういえばわたくし以前海に出かけました際に、早見のような男がそこら中でサーフボードを抱えて女性に声をかけているのをお見かけしましたよ。笑いが止まりませんでした」

 涼子さんと時子さんの世間話に、想像して口の中の料理を吹き出しそうになった。

 今の話を聞いてわたしの頭の中に浮かんだ想像上の早見さんは意外と軟派で、これがまたあまりにも様になっていたのだった。初対面の人のことをそんな風に思うのは失礼に違いないので、なるべく私は笑いをこらえた。

「時子、それはとてもおもしろい光景でしょうけれど、早見が本当にそういう人だとお客様に思われかねないわ。かわいそうじゃない」

「大変失礼いたしました。久々のお客様ですので、わたくしついうっかり楽しくなってしまいました」

 涼子さんにたしなめられた時子さんは、やっぱりニコニコしていた。

「そういえば本当に久しぶりね。最近はこの辺りも物騒だから、こんな山奥にわざわざ来る人もいないし。迷った人を拾って世話するのも何年振りかしら」

「実際、早見が転がり込んで来たとき以来ではございませんか? たしか三年振りかと存じます」

「まあ。もうそんなに経つかしら。早いものね」

 物騒という単語が気になった。やはり“籠”の崩壊と脱走者の話を知っているのだろうか。少し探りを入れてみる。

「あの、物騒というのはどういう……?」

「それがね、ここから少し離れたところにある刑務所が何かの拍子に崩壊して、囚人たちが脱走したそうなの」

 やはりその情報は広まっているようだ。籠が能力者の研究施設ということまでは広まっていないようだが、わたしはわずかに緊張する。ドロシーが持っていたグラスを少しだけ強く握りしめたのが視界の端で見える。

「だからこの辺りの山には犯罪者たちが隠れ住んでいるかもしれないのよね。あなたたちもしばらくは旅なんてよした方がいいと思うわよ」

 ドロシーが能力者だということはすでに知れているはず。籠が表向きの情報通りただの刑務所だと思われているなら、脱走した囚人とわたしたち能力者を結びつけることはないだろう。

 だがもし涼子さんが、籠の真実まで知った上で探りを入れているのだとしたら。

 まだだ。まだ安心はできない。

「せっかくだし、良かったら好きなだけうちでゆっくりしていって。特に予定がなければだけど」

「そんな。いいんですか」

「もちろん。何も気にしなくていいわ。最近退屈で仕方がなかったんだもの」

 涼子さんは目を細めて微笑んだ。

「それとも、どこかに行く途中だったかしら」

「はい。この山の麓に街があると聞いて、そこに向かっていました。けど急ぎではありませんし、当てがあるわけでもなかったので……」

 これは事実だ。別に隠す必要もないだろう。予定外だったのはここ数日の異常気象で、あの暑さによって予定よりもかなり移動速度が落ちていた。

「ああ、そうだったの。けれど歩いていくにはかなり遠いから、その軽装じゃ無理があると思うわよ」

「実はその、橋が落ちるのに巻き込まれてしまって。荷物を川に落としてしまったんです」

 これも事実だ。あの状況では荷物を確保する余裕はなく、橋が落ちたことも彼女は知っている。

「そうだったのね。それなら良ければ明日にでも街に送ってあげるわ。車なら十分行ける距離だから。必要なものがあれば用意させるから、遠慮なく言ってね」

「そんな、でもわたしたちお金も一緒に落としてしまったので、せっかくですが……」

「あら、大変じゃない。そのくらい買ってあげるから気にしないで」

「お食事とお風呂を貸してくださったことだけで十分感謝しています。この浴衣だって、とても素敵で……恩を受けてばかりで、このままじゃとても受け取れません」

「そうは言っても遠慮できるほどの余裕なんてないでしょう。甘えられる時にうまく甘えておくのも処世術だと思って覚えておいた方がいいわよ。ね、ここはひとつ親切は金持ちの道楽だと思って、お買い物に付き合ってもらえないかしら」

 わたしはドロシーと目配せし合った。どこまで信用していいのだろう。

「うーん。なんだか信用ならない、って顔してるわね」

「あ、いえ、そんな……」

「いいの。妥当な反応だわ。じゃあこうしましょう。親切にしてあげる代わりに、いくつかお願いを聞いてもらえないかしら」

 なんだろう。この展開は予想外だ。

「なんでしょうか」

「あなたたち、籠から脱走してきた能力者でしょう?」

 一瞬の出来事だった。

 ドロシーの握っていたグラスの中身が、突然沸騰して爆ぜた。

 それとほぼ同時に時子さんが目に見えないほどの速さでわたしの額に拳銃を突きつけた。

 一変して緊迫した雰囲気がわたしたちの間に漂い、つんと鼻をつく腐臭が辺りに立ちこめる中、ドロシーは静かに時子さんを睨んでいる。

 時子さんは相変わらずニコニコしながらドロシーを見つめていたが、目元が笑っていなかった。

「……ドロシーちゃん」

「時子、しまいなさい」

 しばし間があり、先に時子さんが黙って銃を下ろすと、ドロシーもグラスを置いた。

「希に何かしたら殺すって、あたしちゃんと言ったよね」

 ドロシーが涼子さんをにらみつけながら静かに言った。

「安心して。あなたたちを捕まえようなんてつもりで言ったわけじゃないの。ただ聞きたいことがあるだけ。もし知っていたら教えて欲しい、というのが私のお願い」

 涼子さんは落ち着き払ってドロシーに言った。

 ドロシーはおそらく、涼子さんがわたしたちを捕まえるなんて気を起こさないよう、軽い脅しのつもりで能力を使って見せただけだろう。ドロシーの能力ならグラスの中身を腐らせるなんてのは遊びのレベルだし、本気で攻撃しているわけではないパフォーマンスだ。

 少々喧嘩っ早いところがあるドロシーは、涼子さんの素性や狙いがまだわからない以上、わたしたちに敵対する者だと少しでも思えたら今みたいな威嚇をするだろうとは予測できていた。

 驚かされたのは時子さんの反応だった。一体どこに隠し持っていたのか、拳銃を取り出してわたしの額につきつける一連の動作がまったく見えなかった。何よりも能力を見せたドロシーではなく、迷わずわたしを狙った頭の回転の速さが脅威だ。

 橋を落とすところを見られていたのだとしたら、ドロシーの能力が攻撃的なもので、わたしの能力が空中を歩くくらいしかできないものだというのは知られている。麻酔銃がドロシーに効かなかったのも、彼女の能力は強力すぎて当たった瞬間に銃弾の方が朽ち果てて砂になるからだ。つまりドロシーに銃をつきつけても脅しにはならない。

 しかしドロシーは、「希に何かしたら殺す」と明言していた。つまりドロシーにとってはわたしの存在こそが弱点だ。

 時子さんが涼子さんを守るためには、攻撃に備えて確実にドロシーの動きを止める必要がある。そのために最も有効なのはちゃんと銃弾が効き、ドロシーが大切に思っているわたしを人質に取ること。

 この一瞬でそこまで見抜いて行動する頭の回転の速さと判断力、そして拳銃を抜くプロフェッショナルな動きは、ただの使用人とは思えなかった。

 いざとなったら戦闘も想定していたが、この人が追ってきたらわたしはまず逃げきれないだろう。ここで争うのは得策ではない。

「……ご親切には感謝しています。できればご好意によるものだと信じたいです」

 わたしは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。

 こういうときにドロシーは余計なことを言わずに黙ってわたしに任せてくれるのがありがたい。

「そのことをわたしたちに聞いて、どうするおつもりですか」

 しばし沈黙があった。

 この話題になった途端ドロシーが能力で牽制を試みた時点で、籠から脱走してきたのを認めたも同然だ。これは仕方ない。

 その上でわたしたちには闇雲な敵意はないことを、今の言い方で伝えたかった。

 涼子さんの紫色の瞳でじっと見つめられると、すべてを見透かされている気がして動揺しそうになる。この人はどこまで知っているのか。

「“深層発現症候群”」

 わたしは小さく拳を握った。

 この人、“知っている”側だ。

「あなたたちも罹患しているわよね」

 しばし沈黙するが、沈黙を肯定と捉えたのか、涼子さんは話を続ける。

「籠と呼ばれた施設は表向きには刑務所だったけれど、実際はあなたたちみたいな患者、すなわち能力者を研究する軍事施設だった。そうでしょ?」

 沈黙するわたしをドロシーが横目で見る。わたしはちらりとドロシーの方を見て、何も言わないよう首を振った。涼子さんは構わず続ける。

「探している能力があるの」

「え?」

 この返答は完全に予想外だった。

「あなたたちが能力者なら、知り合いに居ないかと思って。本当にそれが聞きたいだけ」

 わたしはドロシーと顔を見合わせた。

「ドロシーちゃんの能力なんかは、まさに軍事利用目的で研究されてたんじゃないかしら。無粋な連中。私ならもっと平和で素敵な使い方を考えつくのに」

「……驚きました。あなたはどこまで知っているんですか」

 籠の出身であることを認めたも同然のわたしの言葉に、涼子さんは特に表情を変えるわけでもなく言った。

「施設の収容者たちの、名前と能力のリストくらいなら持ってるわ」

 やはりそういうものが出回っていたのか。

 もともとわたしたちの顔や素性の情報は、政府や賞金稼ぎにはとっくに出回っているのは知っていた。だから私たちはあの橋で襲われたし、襲われるのも初めてではない。

 とはいえそんなリストは出回るとしても裏の世界のはずだ。そんなものを持っている時点で、この人はもうただの一般人とは言えないだろう。

「でもね、そのリストには、あなたたちの名前はなかったのよ」

「え?」

 思わず反応して声を上げてしまった。じゃあなぜ賞金稼ぎに襲われるんだ?

「その反応だと、どうやらあなたたちが籠の出身というのは事実のようね」

 私は目を細めた。

 やられた。

「……カマをかけましたね」

 わたしたちが施設出身だということは、まだ涼子さんも確証を得ていなかったのだ。だからリストに載っているはずに違いない、というこちらの思い込みを逆手にとって、反応を引き出した。

「ええ、確証がなかったものだから」

「……わたしたちが籠から脱走した能力者だということは認めます」

「そのことを教えてくれたってことは、私を信用してくれたと思っていいのかしら」

「それはまた別です。現時点では、あなたのことをまだよく知らない」

「警戒心が強くていい反応ね。追われる立場なんだからそうあるべきだわ」

 涼子さんは微笑みを崩さずに続けた。

「あなたたちが真実を教えてくれたお返しに、私も真実を言うわ。能力者のリストの中にあなたたちの名前がなかったのは本当。この事実が私にどう見えてるか、わかるかしら?」

 私は沈黙した。

「あなたたち二人は、リストに載せられないほど秘匿性の高い研究対象だった。つまり捕まれば、良くて実験動物。悪くて、殺される。そういう風に解釈できる」

 涼子さんが淡々と告げる事実の重みに、押し潰されそうになる。

「始めに言っておくけど、私はあなたたち二人の能力を見ています。その上で言うけれど、特に希ちゃん。あなたの能力、“空中を歩く能力”じゃないでしょう? もっと異質な能力よね」

 私は涼子さんをまっすぐに見つめ返した。

「……そこまで知っているなら、私たちの今の目的もわかりますよね」

「ええ。あなたたちは、この私が追っ手側の人間なのか、安全に確認したい。そうでしょう? だから私も私の要求を正直に話したの」

「……あなたの言う通りです。それで、あなたが探している能力というのは?」

 私の質問に、涼子さんは少し間を置いて答える。

「ところであなたたち、橋での交戦より前に、一度追っ手と交戦していたわよね。しかも相手は能力者だった」

 この人はどこまで知っているのか。確かにそうだ。

「正確には私が探しているのは能力そのもので、誰が持っていようと構わないの。けれどあなたたちを追い詰めた能力者は、私が探しているのに近い能力を持っていたようなの」

「持って“いた”、ですか」

「そう。鋭いわね」

 涼子さんはくすりと笑った。どこかこのやりとりを面白がっているような感じすらした。

「あなたたちを追っていた能力者は、すでに過去の人。あなたたちとの戦闘で絶命しているわよね」

 この情報も正しい。わたしたちは生きるために必死だったし、殺さなければ殺される状況で手加減などできなかった。

「……わたしたちがその能力者を殺したと、そう言いたいんですか」

「ええ」

 ドロシーの方を一瞬伺うと、ドロシーは涼子さんではなく時子さんをにらんでいた。勘の鋭い子だ。もし涼子さんの探している能力者がわたしたちの追っ手だったのなら、追っ手を殺したことを認めるのは、すなわち涼子さんに都合の悪いことをしたと認めることになる。

 万が一涼子さんが機嫌を損ね、それに応えた時子さんが動くことをドロシーは警戒している。

 時子さんは相変わらずニコニコしながらわたしたちを見ていたが、敵意があるかまでは読み取れなかった。しかしこの短い時間で時子さんの表情が笑顔ですべてを隠しているタイプのものではないかという見方に変わった。油断はできない。

「ああ、心配しないで。別にそんなにその能力者に執着はないから」

「え?」

「仮に殺したのがあなたたちだったとしても、どうこうしようという気はないわ。あなたたちも生きるのに必死だったでしょうし。大事なのはそこじゃないの」

「……はあ」

 肩透かしを食らわされた気分だった。やはりこの人の考えていることはいまひとつわからない。

「ねえ、あなたはその追っ手の能力を見たの? どんなだった?」

 涼子さんはまるで少女のように、興味津々という顔で瞳を輝かせながら、机の上に身を乗り出した。

「……あの追っ手の能力は、視界に映る能力の一時的な無効化でした」

 わたしはやや気圧されながら答える。

「なんだ、視界に映るだったの。それじゃあ私の求めていることはできなさそうね」

 あからさまに残念そうな顔をして、涼子さんは乗り出していた半身を戻した。目を閉じて小さくため息をつき、きゅうりの漬物をかじり始める。

 え、今ので話終わりなの?

「……あの、涼子さん? お咎めなし?」

「おいし。ええ、求めていた風には使えなさそうだし。どのみちもう死んでる人の話だもの」

 心底興味なさそうに涼子さんは食事の続きを始めていた。

 どうもこの人には調子を狂わされる。時子さんによる脅しがあったかと思えば、目的を邪魔されてもあっさりと退く。もしかしたら緊張するだけ無駄なのかもしれない。

「私ね、自分の能力を抑える方法を探しているの」

「あなたも能力者だったんですか?」

 思わず声が大きくなってしまった。

「ええ。別に信じても信じなくても構わないけれど」

「とても驚きました。けど実際、ここまで親切にしていただけるのが同じ能力者のよしみだということでしたら、わからなくはありません」

「そうね。同じ能力者のよしみ。ただの気まぐれな親切。おおむねそんなところだと思ってくれて構わないわよ」

 涼子さんは少し間を空けて言った。

「私の能力にはね、自分では調整できない部分があるの。それがとても迷惑なものだから、抑える方法を探しているのよ」

「それで能力を無効化する能力に興味を持ったんですね」

「そういうこと」

 これまでの涼子さんの態度にも納得が入った。この人は多分、本当にわたしたちを歓迎してくれていて、親切にしてくれていて、打算があるとすればわたしたちの追っ手のことを直接聞きたかったからだ。しかしそれすらおまけのようなもので、すぐに興味を失くした。

 この人は、本当に親切なだけだったのだ。今はそう思っていい。

「……能力を抑えるなら」

 ドロシーがしばらく振りに口を開いた。

「練習すればいいんじゃないの」

 ドロシーは過去、身に余る力を制御するため死に物狂いの努力をしたという。もっともな言葉だった。

「最初は私もそう思っていたわ。これでもかなり長い間練習したんだけどね、それでも抑えられない部分があるから、こうして別の方法を探している。わかってもらえるかしら」

「あたしはできたよ。なんであんなたにはできないの」

「ちょっとドロシーちゃん! そんな言い方しなくても……」

「希は黙ってて。能力が制御できないと周りの人に迷惑がかかるんだよ。大事な人も傷つけることになる」

 涼子さんをまっすぐにらみつける瞳のその言葉には力があった。

「私の努力がまだ足りないと、そう言いたいのね」

「他の人の能力に頼ってなんとかしようっていう甘い考えがあるから、制御に失敗するんじゃないの」

 ドロシーの棘のある言葉にも、涼子さんは微笑みを浮かべたまま黙っていた。

「急にどうしたのドロシーちゃん。そんなに突っかからなくても……」

「はあ……希、なんで気づかないの?」

 ドロシーは涼子さんをにらみつけたまま言った。

「こいつが本当に能力者で、自分の能力を制御したいって本気で思って努力してきたなら、あたしにこんなこと言われて黙ってるはずないじゃん。怒るはずだよ」

「そうだけど、それは涼子さんも大人だからきっと抑えてるだけで……」

「同じ能力者だから親切にしてくれるって言うけどさ、だったら能力見せてくれてもいいじゃん。それをしないってことは、あたしたちのことを信用してないか、そもそも能力者じゃないか、でしょ。やっぱりまだ信用ならないよ」

 確かに一理ある。わたしが涼子さんを完全に信用しつつあったこのタイミングでドロシーがまだ疑いを表明したことは素直に感心した。

 てっきり自分の過去と重ねて感情的に言葉を発しているのかと思ったが、彼女なりに涼子さんを試していたのだ。

 ドロシーの言葉を聞いた涼子さんは、少し寂しげな笑みを浮かべているように見えた。

「ドロシーちゃんの言うとおりね。あなたたちも今まで命懸けで生活してきたんだし、警戒して当然だと思う。すぐに信用するのは難しいでしょう。言ってることは至極もっともだわ」

「すみません。ですがドロシーの言うとおり、あなたを完全に信用するためには、やはり能力を見せていただけると」

「慎重で賢明な判断ね。いいでしょう」

 涼子さんがゆっくりと目を閉じた。

「見せてあげる」

 目を開けた涼子さんは外を指差した。その動きに従うように時子さんが立ち上がり障子を開ける。

 涼子さんの指差した先には庭があった。さまざまな植物の植えられた日本庭園だが、特に変化はない。小さな池には相変わらず鯉が泳いでいるし、少し蒸し暑いだけの、天気の良い夜だった。

 その光景に一瞬、何か違和感を覚えた。

 違和感の正体がわからないまま涼子さんの方に視線を戻すと、涼子さんは手を下ろし、麦茶の入っていたグラスを手に取った。そのまま何事もなかったかのように麦茶を飲み始める。

「……えっと?」

 何が起きたのかわからず、わたしとドロシーが顔を見合わせると、外でぽつりと何かが落ちる音がした。

 振り向くと、池の庭にぽつぽつと水滴が落ち、波紋を広げていた。やがてその波紋は瞬く間に増えていき、水滴の落ちる音がザァ……という大きな音に変わっていく。

 雨だ。

「雨……?」

 雨が降る前というのは特有の匂いがある。しかし今の雨はまったく気配を感じられなかった。

 わたしの漏らした言葉に涼子さんは何も応えず、あっという間に豪雨となった外の景色を眺めていた。

 勢いを増すばかりかに見えた雨は、意外にもすぐおさまった。まるで夏の夕立のようだった。

「涼子さん、もしかして今の雨があなたの能力なんですか?」

 涼子さんはいたずらっぽく微笑むと、再び黙って庭先を指差した。

「あっ!」

 外から目を離さなかったドロシーが声を上げ、つられて庭を見る。

 花が咲いていた。

 さっきまで庭になかったはずの植物が、映画の早送りでも見ているかのような速さで生い茂り、日の光もないのに青や紫の淡い色の花を咲かせ始めた。紫陽花だ。

 次に背の高いひまわりたちがみるみるうちに伸びてきて、大輪の花をこちらに向けて開いた。そのひまわりたちに地面から蔦が伸びてからみ、淡紅や青色の朝顔の花が咲く。

「え!?」

「すご……」

 わたしたちは思わず感嘆の息を漏らした。

「能力の名前は“九夏”」

 蒸し暑い夜に残っていた熱気は、夕立によってすっかり取り払われていた。

「私の周りは夏になるの」

 その一言で、先ほど一瞬感じた違和感の正体に気づいた。

 秋の晩なのに、鈴虫が鳴いていないのだ。鳴いているのは、ジーと鳴く夏の虫だった。

「およそ夏に起きることはすべて、私の望むがままに起こすことができる」

「今の雨や花、全部ですか?」

「ええ。例えば夕立。例えば夏の花。他にもいろいろあるけど、少し派手な方がわかりやすいかと思って」

「……もしかして、この地域がやけに暑いのって」

「私の周りは夏になる。そのままの意味よ。これがさっき言った制御できない部分。気候が夏になることは、私の意思では解除できないの」

「どおりでここ数日クソ暑いと思った……」

 ドロシーが外の花を眺めながらうんざりした口調で言った。

 それならここ数日の秋にしては異常な猛暑にも説明がつくし、秋なのに夕飯が夏野菜ばかりだったことも納得がいく。

 いや、だとしたら能力の影響している範囲が広過ぎやしないか。

「あの、能力の影響範囲はどのくらいですか」

 私たちが異常な暑さを感じ始めたのはもう三日も前だ。暑さに参ってかなり休憩しながらゆっくりと歩いてきたとはいえ、最初に暑さを感じた場所とこの屋敷ではずいぶんと距離がある。涼子さんが近くに来ていたのか、それともまさか、能力の影響範囲がとんでもなく広いのか。

「そうねえ。この辺りの見える山は全部。とりあえず見渡す限りは範囲内ね」

 見渡す限り?

「それって、えっと……」

「もしかして数字で言った方がわかるタイプだったかしら。私を中心にして半径二十キロメートルの円が効果範囲よ」

 とんでもなく広い方だった。

 わたしやドロシーのような、よく居る触れたものに影響するタイプの能力とは、根本的にスケール感が違う。籠に居た頃はいろんな能力を見たが、ここまで大規模な能力は見たことも聞いたこともなかった。

「……わたしたちも旅の途中、ここからかなり離れたところで急に暑さを感じるようになりました。信じがたい能力ですが、本当のことを言ってくれたと判断します」

「やっと信じてもらえたわね。うれしいわ」

 涼子さんは本当にうれしそうに笑った。

 わたしは決めた。この人のことは信用してみよう。

「疑ってすみませんでした。ご親切に甘えさせていただきます」

 わたしは机に手をつき、頭を下げた。

「いいのよ、頭なんて下げなくても。しばらくは何も気にせずゆっくりしていってりょうだい」

 涼子さんの言葉に頭を上げる。

「とてもありがたいお話ですが、わたしたちがここに居ると涼子さんにも危険が及ぶかもしれません。ここに来るまでに二度、能力者を捕まえようとする人たちに襲われています」

「それはあまり心配しなくていいんじゃないかしら。一度目はあなたたちを狙ったというより、施設の脱走者を片っ端から狙っていたようだし。二度目も同じよ」

「同じというのは?」

「二度目、つまり橋であなたたちを襲ったのは、おそらく誰かの雇った傭兵部隊。あなたたちの居た施設が崩壊し能力者たちが脱走したという情報が出回ってから、この辺りにも能力者狩りをする連中、つまり賞金稼ぎが手を広げ始めたの。傭兵部隊は賞金目的の人間が集めたんでしょうね。この近くの街に向かう脱走者が多いと踏んで広くこの辺を張ってたんじゃないかしら。あなたたちは流出したリストに載っていないわけだし、単に能力者で女の子ふたりだから狙ったんでしょうね」

「ですが、この屋敷にもあまり人が居ないようですし、賞金稼ぎにもし涼子さんまで能力者であることがバレたら……」

「あら、私はいいのよ。もうこの辺りじゃ能力者として有名人だから。私が住んでいるせいでいつまでも夏のままだしね。それに、私に手を出すような人は滅多に居ないもの」

「どうしてですか?」

「どうしてかしら。ここしばらくめっきり減ったわね」

 涼子さんはあっけらかんとして言った。

「えっと、それって、昔はよく襲われていたってことですか」

「よく襲われてたわね。さらわれたりね。けれどここしばらくは、本当にないのよ、そういうこと」

 わたしがいまいち理解しきれずにいると、察したのか時子さんが口を開いた。

「簡単に申し上げますと、この辺り一帯は、いわゆる涼子様の縄張りだと思われているのでございます。涼子さまに手を出しても、麓の街に手を出しても、涼子様は毎回返り討ちに遭わせておりました」

「え」

 そういうことか。この人に戦闘というイメージはなかったが、単にこの人が“強い”という話らしい。どうやらこの辺り一帯は涼子さんの庇護の下に栄えているようだ。

 そんな涼子さんに匿われている以上、わたしたちも安全だということなのだろう。

「ふーん。あんた強いんだ」

 ドロシーはまだ半信半疑の様子だった。能力の使用を戦闘に特化させて訓練してきたドロシーにとっては、どんな相手でも触れさえすれば殺せるという自負がある。

 きっと「一対一ならあたしの方が強い」とでも考えているのではないだろうか。その辺はまだまだ子供っぽい。

「わかってもらえたかしら。それじゃあ小難しい探り合いはここらで終わりにして、明日からの話をしましょう。時子、そろそろデザートを持ってきてちょうだい」

「はい、ただいま」

 時子さんは部屋から出て行く時にさりげなくドロシーが飲み物を腐らせたグラスを回収していった。障子も開けっぱなしにし、換気をして出て行く。

「すみませんでした食事中に。ドロシーも警戒していただけなんです」

 ここ最近はずっとドロシーと一緒に過ごしてきたとはいえ、腐臭にはなかなか慣れなかった。食事中には誰だって嗅ぎたくない匂いだと思うので謝る。

「いいのよ。気にしてないから」

 ドロシーは「そんなに悪い匂いじゃないのに……」などと小さな声でぼやいていた。

「ね、ドロシーちゃん。その能力って、腐らせる速さや加減は調整できないの?」

「え? うーんできるんじゃないかな……」

「待って! ここで試さないで!」

 料理に触れようとしたドロシーの手を慌てて止める。

「とにかく早く腐らせようって、そればっかり練習したから。ゆっくりするのはやったことない」

「そうなのね。少し試してもらいたいことがあるんだけど、明後日にでも、いいかしら」

「いいよ別に」

 二人が話しているうちに、時子さんが再びお盆を手にして戻ってきた。カットされたメロンがひとりひとりの前に置かれていく。

「明日なんだけど、とりあえず服を買いに町に行きましょう。あなたたちのサイズに合う服がうちにはないから。結局しばらくはうちに居てくれるってことでいいのかしら?」

「はい。お世話になります」

「そう。じゃあ明日の予定は買い物だけにしておきましょうか。ひとまずゆっくり休んでちょうだい。疲れてるだろうし、思い切り寝てくれて構わないから。出発時間は起きてから決めましょう」

「ありがとうございます。本当に助かります」

「いいってば。それじゃ、今日はこのくらいにしましょう。時子、二人が食べ終わったら部屋に案内してあげて」

「かしこまりました」


 それからわたしたちはメロンを食べながらしばし談笑した後、今は時子さんの案内で廊下を歩いていた。

 最初に寝かされていた客間に戻るだけなのだが、この広い屋敷では案内がないと最初の部屋に戻ることすらできなさそうだ。

 それにしても、広さの割に人の気配がない。この屋敷で見た人といえば、涼子さんと時子さん、そして早見さんの三人だけだ。

「あの、時子さん。ずいぶん広いお屋敷ですけど、このお屋敷には他に住んでいる人はいないんですか?」

「はい。住んでいるのは涼子さまとわたくし、早見の三人だけでございます」

「あ、そうなんですか。すこい不用心な気もしたので」

「ご心配には及びません。わたくしが居ますから」

 時子さんは相変わらずニコニコしながら自信満々にそんなことを言った。

「時子さんは何か特殊な訓練を受けたことでもあるんですか? 銃の扱いに慣れているように見えましたが」

「秘密でございます」

「あ……えと、すみません。詮索するような真似をしてしまって」

「簡単にお教えするわけには参りません。乙女の秘密でございます」

「乙女の!?」

 何気なく聞いたつもりが、そういう言い方をされるとどんな秘密なのか気になってきた。

「とはいえ乙女の間に隠し事は無用。ふたりだけの秘密の共有こそが、うららかな乙女同士の秘めやかで美しい関係を生むのです」

「はあ……えっと……?」

「わたくし、ここに来る前は軍の諜報機関に勤めておりました……」

「それ言っちゃって大丈夫ですか!?」

 秘密じゃなかったのか。

「味方すら信頼できるかわからない極限の環境の中、度重なる過酷な任務にわたくしは疲れ果てておりました……」

 いつものニコニコがやや陰りのある笑みになり、時子さんは語り始めた。

 果たして語っちゃっていい内容なのだろうか。

「そんな時でした。極秘調査の任務で、涼子さまを調べることになったのでございます。身元を隠して接触するわたくしに、涼子さまは気さくに話しかけてくださいました」

 時子さんは胸に手を当て、大切な思い出を語るかのように話し続けた。

「しばらく接するうちに、“あなたのような話し相手が欲しいから使用人にならないか”とのお誘いを下さったのでございます。それまでわたくし、所詮は替えの効く組織の歯車、わたくし自体が必要とされているわけではないのだと強く感じておりましたから、擦れ切ったわたくしの心にそのお誘いはあまりにも甘美でございました……。こうしてわたくしは一切を投げ捨て、涼子さまに身も心も捧げることにしたのでございます」

「そうだったんですね……」

「嘘でございます」

「えっ、嘘、えっ!?」

「さ、お部屋は先ほどと同じこちらでございます。部屋の中のものはご自由にお使いくださいませ」

「あ、はい、ありがとうございます……」

 今の話はなんだったんだ。

「わたくしはただのメイドでございます。主人をお守りするのもメイドの務め。それだけのことでございますよ」

「はあ……」

 この人はどうやら嘘か本当かよくわからないことを、ニコニコしたまま言うタイプらしい。

 なんか胡散臭いメイドだな。

「ところで、浴衣は楽しんでいただけましたか? 寝巻きには向きませんので、簡単なTシャツなどをご用意しました」

「ありがとうございます」

 この浴衣という綺麗な服は、着ているだけでとても楽しかった。脱いでしまうのは残念だが、確かにこのまま寝るわけにもいかないだろう。

 わたしたちは時子さんに手伝ってもらいながら浴衣からTシャツとショートパンツに着替えた。 

「どっちもでっかい」

 肩からずり落ちそうになるダボついたTシャツを手で戻しながら、ドロシーがぼやいた。

「申し訳ございません。サイズの合うものが今は屋敷になく……。明日のお出かけまでには外に出られる程度のお召し物をご用意しますので、今晩はそれで辛抱くださいませ」

「あの、明日は浴衣で出歩くわけではないんですか?」

「それはやめておいた方がよろしいでしょうと、涼子さまが仰っております、浴衣を普段着としてお召しになる方はあまりおりませんから、少々目立ってしまうのではないか、とのことでして。お二人とも追われていた身でございますし、一応念のため目立つ格好は避けた方がよろしいのではないか、とのお考えでございます」

「それもそうですね」

「それに明日は服を買いに行くわけですから、浴衣ですと試着の際に着脱が大変でございます。ですから希様には元々お召しになっていた服を、ドロシー様には何か別の服を見繕って、明日のお出かけまでにご用意いたします。それでよろしいでしょうか?」

「はい。何から何までありがとうございます」

「お気になさらず。それではごゆっくりおやすみくださいませ」


「……ねえ希」

「なあに、ドロシーちゃん」

 部屋の灯りを消し、布団に入って少ししてからだった。眠れないのか、ドロシーが小さな声で話しかけてきた。

「あいつらのこと、ほんとに信用すんの?」

「……うん。してみようと思ってる」

「……ふーん」

 それきりドロシーは沈黙していたが、わたしも黙っているとやがて口を開いた。

「希が信用するなら、あたしも信用する」

「……そっか」

「うん」

 外の世界の人間はわたしたちを恐れ、恐怖はやがて敵意となりわたしたちを襲う。そう思っておいた方が、生き延びられると考えていた。

 でも今回は信じてみたいと思う。気持ちに余裕のある環境でこの先どうやって生きて行くかを改めて考えてみるのもいいだろう。

 やがてドロシーが寝息を立て始めたのが聞こえ、わたしも目を閉じた。

 今は眠ろう。明日は久しぶりに、二人きりではないお出かけなのだから。

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