第一話 橋
「気をつけてね、ドロシーちゃん」
「大丈夫!」
「落ちそうになったらわたしに捕まってね」
「だから大丈夫だってば!」
わたしたちがたどり着いた水場は、谷底を流れる大きな川だった。ちょうど近くに川の元へ降りる細い道があり、そこを下る。
空中を歩いているわたしはともかく、やんちゃなドロシーは子供特有の無謀な大胆さで岩場を駆け降りていくものだから、わたしは気が気でなかった。
無事何事もなく渓流までたどり着いたわたしたちは、文字通り浴びるように水を飲んだ。少しくらい服が濡れても構わず、顔を洗い、体を拭き、足を洗い、髪をすすぎ、ここしばらくの炎天下での不快感を振り払った。
「ねえ希。水ってこんなにおいしいんだね」
「わたしも心底そう思う」
「なんとか持っていけないかな? 希の能力でコップつくれない?」
「うーん、難しいね。動かせないし」
「そっかぁ。あ! 見て希、橋がある!」
ドロシーの指差す先には、渓谷に架かる大きめの鉄橋があった。
「ほんとだ。もう少し休憩したらあそこから向こう岸に渡ろっか」
「うん」
「―――能力の使用を目視確認。能力者とおぼしき人物二名は現在この橋へと向かっています」
「了解。では作戦通り包囲しろ。対象が橋の中心に来た時点で捕獲を開始する」
「了解」
鉄橋の近くの茂みに隠れ、数人の男が希たちを見下ろしていた。いずれもこの暑さの中だというのに重装備の特殊部隊のような服装で、手には大ぶりな銃を抱えている。
何も知らない希とドロシーが橋の中央まで来ると、渇いた銃声が渓谷に響いた。
「希!」
突然の衝撃に悲鳴を上げ、首筋に手をやり倒れ込むわたしに、慌ててドロシーが駆け寄る。
銃弾ではない。震える手で何とか引き抜くと、首に刺さっていたのは小さな針だった。
全身に力が入らなくなっていくのがわかる。
麻酔銃。追っ手だ。
「なにしてんの希! 起きて! うわっなんだこれ!」
続けざまに発射されたネットに捕らえられ、ドロシーがその場に転ぶ。
「誰だ出てこい! 殺してやる!」
激昂し暴れもがくドロシーの体に触れた部分から、ネットが煙を上げて千切れ始める。
「強化繊維のネットをあの体格の少女が千切れるはずありません! やはりもうひとりも能力者です!」
「奴にも麻酔弾だ! 撃て!」
どこからか声が聞こえた。追っ手は複数いる。まずい。
再び何度も銃声が響くが、ドロシーに当たった麻酔針はさらさらと粉状に変化して彼女の体を滑り落ちていく。
「麻酔弾が効きません!」
「捕獲網を追加しろ! 動きを止めて包囲するぞ!」
次々と発射される捕獲用ネット、わたしたちを取り囲む銃を構えた男たち。
「動くな! 抵抗すれば次は足を撃つ!」
「やってみろォ! てめぇから殺す!」
ネットを振り解きながらドロシーが吠えた。ドロシーひとりなら確かにこの人数相手でもどうにかできるだろう。けど今はわたしもいる。動けないわたしは、例えば頭を打たれれば死ぬ。
“撃たれれば死ぬ”。
当たり前のその言葉が浮かんだ瞬間、一気に脳内をその文字列が埋め尽くした。
ダメだ考えなくちゃ。死ぬ前に死なない方法を考えないとわたしは死ぬ。きっと殺される。生きるためにはどうしたらいい。殺される前に死ぬ前に、考えろ考えろ考えろ……!
恐怖で錯乱しそうになるのを必死でこらえ、暴れるドロシーになんとかしがみつき、耳打ちする。
「……わかった!」
今にも網を引きちぎり男たちに飛びかかりそうだったドロシーはわたしの言葉に頷くと、橋の床に両手を当てた。
次の瞬間、鉄橋が地震でも起きたかのように振動した。奇妙な浮遊感を味わいよろめいた男たちが、鉄橋の支柱が一瞬にしてすべて錆びつき風化していくのを見て大きく目を見開いたのを、彼らのヘルメット越しにわたしは見た。
きっと彼らもまた、自分が死ぬかもしれないという恐怖で頭がいっぱいになっただろう。
当たり前だよね。
死ぬのは怖いもの。
「……ごめんなさい」
やがてゆっくりと加速しながら落下し始めた橋の上で、男たちの絶叫と橋の崩れる轟音に、わたしが小さく呟いた声はかき消された。
谷底に大きな水柱が上がったのを見届け、ドロシーが空中で足をばたばたさせながら歓声を上げる。
「やったよ希! あいつらざまあみろっての!」
「あ、暴れないで……」
わたしはドロシーを引きずりながら気力だけで空中を這い進み、向こう岸に辿り着くと地面に倒れ込んだ。
心臓の動きが激しいまま治らない。これでは麻酔の成分が体にすぐ回る。
荷物もすべて落ちてしまったけど、緊急離脱できただけマシか。
「希! 大丈夫!?」
「麻酔が効いてきて……ダメ、みたい……体が……動かなく……なって……きて……て……」
「どうしようどうしたらいい!? 希死んじゃうの!?」
「だから……ね……麻酔……」
「うわぁん希死んじゃやだ! ねえどうしよう希! 希が死んじゃう!」
「えと……多分……死なない、から……揺らさ……ない、で……」
「まあ大変」
後ろから声がした。
さっきの男たちの中では聞こえなかった声に驚き振り返ろうとするが、うまく体が動かない。なんとか顔だけをそちらに向けると、日傘を差した女性が立っていた。
涼しげな格好をした女性だった。まるでここ数日の暑さが当然であるかのような、ずっとこの真夏日の中で過ごしてきたかのような格好。夏の陽射しがその顔に濃い影を落とすせいで顔はよく見えないが、長い黒髪を片側に流しゆるく編んでいた。
「あんた誰?」
ドロシーがわたしを庇うように立ち上がり、女性をにらみつける。
この女性はいつからここに居たのだろう。先ほどの男たちの仲間だろうか。それにしては武装も何もしていない。
「私はね、そこの橋の持ち主」
「は?」
ドロシーがきょとんとした顔でわたしを見る。
「橋って誰かのものなの?」
「……わたしも、初耳」
あの橋が公共物ではなく私物だというのか。出資したお金持ちということだろうか?
言っていることの意味はさておき、もし男たちと関係のない一般人なら、いつから見られていたのかが問題になる。
具体的には、能力を使うところを見られたかどうか。
わたしたちみたいな存在は一般人には危険視されているはず。助けてもらえるとは思わない方がいい。
わたしは警戒を解かないまま目だけで彼女の様子をうかがう。
「すごい音がしたから来てみたら、橋が落ちてるんだもの。びっくりしちゃった」
そう言いつつ驚いた様子など微塵もなく、むしろ面白がっているかのような口ぶりで彼女は言った。
「そっちのあなたはどうして倒れているの? どこか具合でも悪いの? それとも怪我かしら?」
穏やかな口調だったが、あまりこちらを本心から心配しているようには聞こえなかった。むしろ自分で言ったそのどれでもないことをすでに知っているかのような、いまひとつ真意の読み取れない口ぶり。
この女性は警戒した方がいい。直感がそう告げる。
「……希どうする? こいつ殺す?」
ドロシーも警戒を強めたのか、いつでも飛びかかれそうな体勢になる。
「待って……ダメだよドロシーちゃん……」
「まあ。私殺されちゃうのかしら」
彼女は口元に手をやり、くすくすと笑い始めた。
子供の冗談を相手にする、大人の反応。
本当にそうだろうか。
「ねえ。どうしてこんな山奥に女の子ふたりで居るの?」
口がうまく動かない。そろそろ話すのも難しくなってきた。
「山奥に軽装の女の子が二人。汚れた服。一人は倒れて、近くの橋は落ちていた」
彼女は心なしかやや楽しげな声音で、まるで犯人を追い詰めた探偵が証拠を数え上げるかのように一方的に話し始めた。
「これだけなら、遭難や事故にあったところかな、とも思えるけれど」
風が吹き、日傘が少し傾いた瞬間に彼女の顔が見えた。
「私を“殺す”だなんて、まるで“何かに追われていて、都合の悪いものでも見られた”みたいね」
紫の瞳だった。
梅雨の雫を湛えた紫陽花のような、それ自体うっすらと発光しているのではないかと錯覚してしまいそうな色の瞳がわたしたちを見据え、はなからすべてを見透かしているかのように、目元には笑みが浮かんでいた。
「ねえ」
女の周りの、空気が揺れた。
「あなたたち、とぉーっても怪しいわよ」
ドロシーが女に飛びかかろうと踏み出した瞬間だった。
「涼子様ー!」
渓谷の対岸から、誰かが呼ぶ声がした。
女はくるりと振り向き、その視線から解放されたわたしは安堵した。
この女性はどこまで知っているのだろうか。早々に逃げた方がいいのかもしれないが、麻酔が効いてきてもうほとんど体が動かない。
向こう岸ではクラシカルなメイド服の女性が手を振っていた。この女性に使えるメイドということだろうか。橋を所有していると言ったりメイドが居たり、どうやら本当にお金持ちらしい。
日傘の彼女はメイドにひらひらと手を振り返し、懐から携帯電話を取り出して電話をかけた。すぐに向こう岸のメイドがポケットから電話を取り出し、電話に応じる。どうやら二人は電話越しに会話しているようだった。大きな声を出すのが嫌なのだろうか。
少しして会話を終えた日傘の女性は携帯をしまうと、再びこちらを向いた。
「ごめんね。あなたたちからしたら私の方が怪しかったわね」
先ほどまで感じていた圧力が嘘のように穏やかな笑みをこちらに向けて、彼女は名乗った。
「私は高木涼子。この辺りに住んでいるの。どういう事情でこんなところをうろついているのか知らないけれど、よかったらうちで休んでいって。医者も今呼ばせたから」
「希、この人もしかして、親切な人?」
高木涼子と名乗ったその女性から目を離さないまま、ドロシーが小声で言った。
「……わかんない」
信じていいのだろうか。
しかし疑って逃げ出すにしても、実際わたしは動けない。ドロシーにはわたしを運んで逃げるほどの力はないし、この女性が本当に一般人なら口封じのために殺すなんてことはしたくない。
ただ匿ってもらうとなると、いずれこの女性にもわたしたちの追っ手による危害が及ぶかもしれず、巻き込むのは気が引ける。
わたしが迷っているうちに、近くで車の停まる音がした。
何とか首だけ動かし振り向くと、オフロード向けの大きな車から先ほど向こう岸にいたメイドが降りてきたのが見えた。黒髪を肩上で切りそろえた利発そうな女性で、目を細めて人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。
「お待たせいたしました。こちらのお二人ですね」
「ええ、お願い。屋敷に戻るわ」
「かしこまりました」
わたしが何も言わないことを承諾と受け取ったのか、高木涼子と名乗った女性はメイドに簡単に指示を出すと、日傘を畳んでさっさと助手席に乗り込んでしまった。
「そちらの金色の髪のお嬢様、こちらで伸びていらっしゃるお嬢様とご一緒に後部座席にお乗りくださいませ。わたくしどものお屋敷にご案内いたします」
メイドは軽々とわたしを肩に担ぎ上げた。本物のメイドさんってみんなこんなにも力持ちなのかな。外の世界にはいろんな人がいるものだ。
後部座席に横たえられて、隣にドロシーが座った。エンジンのかかる音がして、車が動き出す。
「今はこの人たちを頼ってみようよ、希。早く元気になって」
もう口を動かすことすらままならないわたしは覚悟を決め、目を閉じて山道の振動に身を任せることにした。




