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外伝「狐が生まれた日」第1話

 丘の上は、一面のひまわり畑だった。

 山合いの広い敷地に広がる黄色い絨毯の中央付近には、背の高い花々に半ば埋もれるようにして、赤い屋根の小さな祠が建っている。

 風雨で痛み、朽ちかけた祠。その前には、供え物にしてはいささか場違いにも見える、年代物と思しきワインのボトルが供えられていた。栓は開いている。

 彼女はワインボトルを手で持ち上げると、自前のグラスに葡萄酒を注いだ。

 いつからいたのか、照りつける陽射しの中で非現実的なほどに白い手でワイングラスを傾ける彼女は、ためらいなく一息に赤い液体を飲み干した。

「……やっぱり、冷えてないといまひとつねえ」

 ぽつりと呟いた彼女は祠の側にしゃがみ込むと、長い黒髪をかき上げ、頬杖をついて空を見上げた。

 しばし沈黙した後、彼女は再びワインボトルを手に取ると、今度はボトルに直に口をつけ、喉を鳴らして飲み始めた。口の端から飲みきれなかったワインが一筋、赤い線となって血管のようにその白い喉を伝う様は、どこか淫靡なものすら連想させた。

 半分ほど一気に飲んだ彼女は、一息つくと、口の周りを手の甲でぬぐった。元は白かったであろう薄汚れたワンピースの襟元が、じんわりと朱に染まっていく。

 赤ワインをボトルの半分も飲み干したというのに顔色ひとつ変えない彼女は、不意にワインボトルを地面に置くと、服が汚れるのも構わずにゆったりとした動作で地面に寝転がった。

 仰向けになると、ひまわりたちの間から空が見える。

 彼女は大の字に寝転んだまま、ぼんやりと空を眺めた。

 空はずっと、青いままだ。

 彼女はゆっくりと目を閉じると、そのまま動かなくなった。



「涼子さま! 涼子さま!」

自分の名を呼ぶ声がして、私は目を覚ました。

枕元には、隣の部屋で眠っていたはずの女中がいつの間にか立っていて、私の名前を呼んでいた。

「……時子?」

「はい、涼子さま」

 にこやかに笑って返事をする彼女は、私の手を握っていた。

「……時子。時子なの?」

「はい。時子でございます」

 目の前の存在を確かめるかのように何度も名前を呼ぶ私に、律儀に返事をする時子。

「……ああ、時子。私、もしかしてまた」

「ご安心くださいませ、涼子さま。わたくしが来たからにはもう大丈夫ですよ。何かお飲みになりますか?すぐにご用意いたします」

 私の言葉を遮るようにして、彼女は言った。

「……そう。そうね。じゃあ、水をもらえるかしら」

「はい、ただいま」

 そう言うと彼女は私の手を離し、正面から抱き締めてきた。

「んむ」

 顔に押し付けられた彼女のふくよかな胸につぶされて、変な声が出てしまった。

「……時子」

「はい、涼子さま」

「……水が飲みたいわ」

「はい。しばしお待ちを」

 そう答えた彼女だったが、それからしばらく私を抱き締めたまま離そうとはしなかった。

「涼子さま」

「なあに、時子」

「時子は必ず戻って参りますからね」

「……ええ。待ってるわ」

 彼女は満足したのか、それでも名残惜しそうに私から離れると、そそくさとベッドを降り、台所に向かった。

 水を取りに行くだけで大げさな、などとは思わなかった。彼女は私を安心させるためにああ言ったのだから。

 周りに誰も居なくなる恐怖に不意に飲まれてしまう私のために、小さな約束をして、それを守ってみせる。

 普段はいい加減なことを言う彼女はこういう時、真っ先に行動で示す女だった。

「お待たせいたしました」

 約束通り、時子が水を入れたグラスをお盆に乗せて、再び現れた。

「ありがとう」

 水を受け取ると、私は一息にそれを飲み干し、ため息をついた。やっと人心地がついた。

 久しぶりに、あの夢を見た。

 そう、あれは夢だ。

 山奥の丘にあるひまわり畑。

 小さな赤い屋根の祠。

 神木は一輪に幾百の種をつけ転生を繰り返す、すべてのひまわり達。

 夢の中で、私は直感的に理解する。

 百年経っても私だけが生きていて、永遠の夏に囚われたまま、朽ちることもできずにいることを。

「しばらく、ここに居てもよろしいですか?」

「……ええ」

「恐れ入ります。では失礼して、わたくしも一杯」

 そう言って水を飲む時子が、努めて明るい声を出しているのがわかる。彼女はいつも笑っているが、その何もかもを覆う笑顔の仮面の下で、いつしか本当に私のことを心配してくれているのが、わかるようになった。自惚れでもいい、私にはわかるのだ。

 佐野時子。

 私は彼女を、金で雇っている。

 金による雇用契約を彼女がどこまで果たすか、それは彼女が決めることで、別に彼女は契約を破棄することもできる。それは彼女の自由だと思う。いつか私がそう話したら、彼女は私のことを「度を超えた自由論者」だと言って笑った。彼女のそういう遠慮のない言動を私は気に入っているし、それが彼女を雇った理由のひとつでもあった。

「……私、そんなにうなされてた?」

「ええ、初めはてっきり早見でもベッドに連れ込まれたのかと思いまして、好奇心から少し覗いてやろうかと伺ったのですが」

「ええ?」

 いつもと変わらない顏で嘘と冗談を言うところも、まあ、気に入っている。内容はともかく。

「私、どんな声出してるの」

「それはもう、悩ましい艶やかな声を……早見もあれでなかなか、上手なものだと感心していたのですが、しかし少々、嫉妬してしまいますわね」

「聞こえてますよ、時子様」

 今まさに話題となっていた男、早見が、時子の冗談に辟易した表情でドアの前に立っていた。手に持ったお盆の上にはティーポットとカップがいくつか並んでいる。

「ちっ、起きていましたか」

「舌打ちしないの、時子。ああ、早見、あなたまで起こしてしまったかしら。すまないわね」

「いえ、たまたま喉の渇きで、目が覚めてしまいまして。よろしければ涼子様もいかがですか」

 そう言うと早見は、ティーポットの乗ったお盆をベッド脇のテーブルに降ろした。

「カミツレのハーブティーです。よく眠れますよ」

「ありがとう。頂くわ」

 落ち着いた花の香りの茶をすすり、ほう、と息をつく。私の周りは年中夏になるとはいえ、山の上にあるこの屋敷では、夜はそこそこ冷える。今はティーカップのぬくもりが素直に嬉しい。

 おそらく早見も、私のうなされる声で目を覚ましたのだろう。水を取りに行くついでに時子が起こしたにしては、用意が早すぎる。こういうとき、このふたりは本当に手際が良い。

 見事な連携と気遣いを見せてくれる、有能な使用人たち。時子は私が見つけ、惚れ込んで引き抜いた。早見は心身共にぼろぼろで転がり込んできたのを、拾って育てた。ふたりとも私のことを思って、よく働いてくれる。

 しかしこのふたりとも、いつか別れる時が来ることを、あの夢を見た後はつい考えずにはいられない。

 私は一体、いつから歳をとっていないのだったか。

 一体、いつまで。

「そうだ、涼子さま」

 まるで私の思考を遮るように、時子が楽しげな声をあげた。

「せっかくこうして三人で起きていることですし、たまには少し夜更かしをして、お話でもいたしませんか?」

「……ああ。そうね。いいかもしれない」

「そうですね。こんな時間ですが、せっかくですし何か、軽くつまめるものでもご用意いたしましょうか」

「そうねえ。夜中だし、どうしようかしら」

「わたくし茶碗蒸しが食べとうございます」

「え?」

「茶碗蒸しですか。それでしたら材料はありますから、十五分ほどお待ちいただければ」

「ちょっと、早見まで」

「わたくし、お腹が空いております」

 時子がにこにこしながら言った。

「代謝が良いので」

「でも、あなた、夜中に茶碗蒸しって……」

「代謝が」

 時子は笑顔を崩さずに繰り返した。

「良いので」

「……はあ。わかったわ。早見」

「かしこまりました。涼子様も召し上がりますか?」

「食べる、食べるから」

「ではしばしお待ち下さいませ」

 早見は一礼して台所へと向かって行った。夜中に茶碗蒸しって……いや、もうなんでもいいか。

「時子。あなた時々、強引よね」

「わたくし、いつでも最後は力ずくで解決して参りました」

「そうね。昔からあなたはそうだったわ」

 まあ、代謝が良いというのも本当のことだろうし。それに起きてから今までのやり取りのおかげで、大分気が紛れた。やはりふたりは有能である。

「これでも随分大人しくなった方よね、昔に比べれば」

「よしてくださいまし。言葉通り、昔のことでございます」

「まあね。もう何年前になるかしら」

「よりによって今、そのお話をするので?」

「あら、話でもしようと誘ったのは時子でしょう。たまには昔話でもしましょうよ」

「はあ。ま、止めはいたしませんが」

 時子の許可を得たところで、たまには昔話でも。


 私と時子が、出会った時の話をしよう。


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