心の演奏会
今回の夢は薫がテーマとストーリーを決め、葉裏が心理描写中心に膨らませ、最後香織の改善点の案を加えて完成させました。
私は二晩目に体を横たえると、枕元に置いたスノードームを動かした。
そして今夜もスノードームに新しい雪が降り始めた。
今度はどんな夢に私を連れて行ってくれるのか?
世界は静寂に包まれていた。
気づけば私は、見知らぬ音楽会場にいた。
客席は満席で、ステージには楽団が勢揃いしている。けれどもどんなに激しく指揮者が腕を振ろうとも、楽器が動こうとも、ひとつの音も聴こえない。
「なに、これ?パントマイムの発表会?」
「この劇場では、耳ではなく“失ったもの”で音を聴くのです」と。
「えっ?」
耳元で誰かが囁いたと思ったが、見回してもそれらしく人物はどこにもいない。
私はその言葉の意味を考える。
失ったもので音を聞く?
私が失ったものってなんだろう?
そう言えば……
昔、大事にしなかったためにボロボロになったので、捨ててしまった人形があったな。
あの後、自分がちゃんと大切にしなかったためにあんなになったのに、捨ててしまって可哀そうなことをしたって……後悔したっけ。
捨ててしまったのは私なのに、戻って欲しいって……なんて勝手な私。
……すると胸の奥にあの人形の歌声が聞こえた。
「睦月さん、あたいはもう少し一緒に長くすごしたかったよ♪」
その歌声は胸の奥で痛みとなってオルゴールの爪のように私の心をはじいた。
どうして失ってしまってから、その大切さに気付くんだろう。
なんて馬鹿だったんだろう!
そう言えば、失ったものはまだあった。
可愛がっていた柴犬の『ケイジ』。
ケイジの吠え声がドラムの音となって、お腹の中を響かせる。
ああ、お前は老衰して、ある朝冷たくなっていたね。
あの数日前散歩に連れて行こうとしても嫌がったお前。
『散歩もしないぐうたら犬なんか死んでしまえ』
私はそう言って、その後何日も相手にしなかったし口も利かなかった。
それが……あの朝冷たくなって死んでいたなんて。
ごめんよ、ごめんよ、ケイジ。
ひとりで死んでいくって淋しかったよね?
私が意地を張って口を利かなかったために。
私が優しい言葉をかけて、すこしでも労わってやっていれば、
ああああ、もうっ!
また心が震え、悲しいメロディが秋風のように流れる。
そしてまた思い出してしまった。
喧嘩して、仲直りできないまま、転校して行ったあの子。
どうして私は、あのとき謝らなかったんだろう?
言葉を飲み込んでしまった、たった一度の夜。
明日になれば言えると思っていた、あのとき。
けれど、明日は来なかった。
悪いのは私だったのに。あの子は少しも悪くなかったのに。
それなのに私は、その子の名前すら――もう思い出せない。
なんて、薄情な私……
唇を噛む。
記憶の中の笑い声も、泣き顔も、手の温かさもまだあるのに。
名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
本当に、一番仲良かった、大親友だったはずなのに。
私ってどうしようもない、大馬鹿ものだよね。
目頭が熱くなってトクントクンと瞼が脈打つ。それも心のメロディとなって私の胸の奥を抉って行く。
ああ、もう戻らない。私がうしなったものたち。
すると楽団の中でピアノを弾いている人を見た。
そうだ、私はピアノを習っていた。
そして誰かと一緒に弾いていたんだ。
そのときの楽しい気持ちがふと甦った気がしたが、待てよ……
私はどうしてピアノを弾くのをやめてしまったんだろう?
わからない。思い出せない!
私はどうしてピアノをやめたの?!あんなに楽しく弾いていたのに……
やめたピアノの曲が心に響いて来た。
今まで失ったものの音と一緒に。
捨てた人形の歌声、
老衰で死んだ愛犬ケイジのドラムの響き。
転校して行ったあの子を傷つけた私の後悔の旋律。
そして楽しかったピアノの音とそれをやめてしまった時の茫漠とした……
砂漠の砂嵐のような音の不気味な響き。
わからない。わからない。本当にわからない。
どうして私はピアノを……どうして私は弾くのをやめたの?
そして、最後の楽章。指揮者が消え、ひとりの奏者が現れる。女性らしいその人物は、静かにピアノの前に座る。
真っ暗なステージにその人物だけがスポットライトを浴びて、その姿を浮き上がらせる。
でも何故後ろ向きなの?
あの背中はどこかで見たような気がする。
どこかで?
演奏が始まる。今度は私にもはっきりと音が聴こえる。
涙が頬を伝うと同時に、劇場の壁が崩れ、星空が広がっていく。
私は目を閉じて最後の旋律を聴き終えると、ゆっくりと目を開いた。
そうだ。やっとわかった、
私がピアノをやめた理由を。
そうだ。私は思い出の中で誰かと一緒にピアノを弾いていた。
その人は私の大好きだった……あの人。
あの人が亡くなって、私はピアノを弾くのをやめたんだ。
そして今聞いた曲はあの人と一緒に弾いた曲だった。
会場を一杯に埋め尽くした観客が万雷の拍手を送っている。
皆立ち上がって。
そして私も立ち上がって胸の前で手を叩いていた。
ピアノ奏者の女性はゆっくりと振り返り正面を見た。
ああ、それは私の……
私の大好きだったお祖母ちゃん!
亡くなった、大好きだったお祖母ちゃん!
お祖母ちゃんは私の方を真っ直ぐ見てから深くお辞儀をした。
もう一度拍手の渦が響き渡る。
も私にはもう、なにも見えない。
目がぼやけて、光と影が滲んでいく。
鼻の奥がつんとして、喉がじんわり痛む。
そして、胸の奥から、ことばにならない声があふれていた。
ステージの幕が、ゆっくりと下りていく。
拍手の音も遠ざかり、静寂がふたたび降りてくる。
その静けさのなかで――
私の夢の幕も、そっと、閉じた。
睦月の枕元のスノードームがチカッと光って、ゆっくり動いた。
次の雪を降らせるためにひっくり返って準備をしているのだ。
部屋の中で睦月の静かな寝息だけが聞こえていた。
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