落陽の帝都
葉裏のストーリに薫の描写、さらに若干葉裏が加筆しました。
いつの時代のどこの国なのか、私にはわからない。
私自身が時空をさまよう旅の鳥なのだから。
そう、私はいま帝都の主道に面する高い建物の屋根に降り立ち、下界を見下ろしている。
夕日が帝国の西門を赤く染めていた。傾きかけた太陽の光を背に、帝国軍の行列がゆっくりと帰還する。城門から東へと続く石畳の大通り。その両脇は黒山のような民衆で埋め尽くされ、幾千の喚声と歓呼が空へと舞い上がっていく。
だが、人々の視線が向けられていたのは、勝利の旗でも、武勲を誇る軍の行列でもなかった。
彼らの瞳に映っていたのは、あの女王――
かつて帝国の半分をその手中に収めた、伝説の征服者。彼女の名を、誰も口に出しては呼ばなかった。畏れと敬意と、そして哀惜がそれを妨げていた。
将軍の隣に並んで馬を進めるその姿は、敗者のそれではなかった。
薄く埃をかぶった深紅のマント、まっすぐ前を見据える漆黒の瞳、両手は形ばかりの細い金の縄で縛られているが、その背筋は凛と伸びていた。
将軍は、その女王のわずか半歩後ろに馬を進めている。
誰の命令でもなく、誰に見せるでもなく。
ただそれが、この女を戦場で相対した者としての礼だった。
群衆は、その光景を見て、次第に喧噪を止めていく。
ざわめきは沈み、無数の視線が、ひとつの祈りのように女王に向かう。
小さな子がそっと母の手を離して両手を胸の前に重ねた。
老婆が杖をついて跪き、ひと筋涙を頬に伝わせた。
彼女が悪しき支配者ではなかったことを、誰もが知っていた。
――彼女は、夫王の死後、幼子を玉座に立て、自らはその背後に立ってこう言った。
「この子こそ、我が国の王である。この国と王を、我が身に代えて守ろう」
その言葉のとおり、女王は諸国を平定し、征服した地の民の声を聞き、慮り、穏やかに治めた。
彼女が通った後には、血ではなく、安寧と教養が残った。
だから帝国の民であってさえ、彼女を憎む者はいなかった。
その行進が王宮の門に差しかかったとき、軍列は立ち止まった。
――天蓋付きの馬車が、静かに近づいてきたのだ。
濃紫の簾の奥から、威厳と猜疑を湛えた帝王の声が響いた。
「将軍よ。なぜ、この女を生かして連れ戻った。朕の命を聞かねばならぬ。
今この場で、その首を斬り落とし、朕に捧げよ」
静寂が、風のように軍列を包む。
将軍は鞍上で姿勢を正すと、自らの剣を抜き、その鍔元を上にして、馬車に向かって高く掲げた。
「陛下、この剣をもって、どうぞ私の首をお斬りくだされ。
この女王は、私が剣を交え、命を賭けて戦った敵です。
しかしそれゆえにこそ、私は彼女を敬っております。
彼女を斬ることは、私自身の武人としての誇りを殺すことと等しうございます」
一瞬、帝王の馬車の前で風が止まったかのようだった。
やがて簾の奥から剣が引き抜かれる音がした。
銀光が閃き、帝王の怒声と共に、剣が将軍の頭上へ振り下ろされる。
その刹那、民衆の中からひとりの老人が「やめよ」と叫んだ。
続いて千の声が、万の叫びが轟く。
将軍を、英雄を、誰もが讃えていた。
だが、帝王は剣を止めなかった。
光が落ち、血が噴き、ひとつの命がその場に崩れ落ちた。
そのとき私はその屋根から高く…空高く飛び立った。
高く高く飛び、空に向かって叫んだ。
雲よ湧きあがれそしてここに集え。
空に心あれば理不尽な王への怒りを地上に伝えよ。
空に心あれば多くの民の怒りを伝えよ。
空に心あれば誇りをもって散った命に涙せよ。
空に心あれば敬愛する者を失った民の涙を
より大きなお前の涙で洗い流せ。
そして私はまた元の場所に舞い戻った。
そして……
――雷鳴が、空を裂いた。
それは夏でもないのに湧いた黒雲の裂け目からの、轟きだった。
冷たい雨が地を叩きつけ、将軍の骸を覆った。
誰ともなく、嗚咽が混じった慟哭が立ち昇り、通りは泣くような雨音に包まれた。
帝王は濡れた剣を鞘に収め、黙して女王を見据える。
そして命じた。
「女王には居館を与える。城より離れた西の丘の離宮にて、蟄居せよ。
……将軍の亡骸は、国葬に処す。名誉を以て葬れ」
それは誠意ではなかった。民の怒りを逸らすための計算だった。
だが、帝王がどう思おうと、その日、民が見たのは――
敗れてもなお誇り高き女王と、死に臨んでも誇りを選んだ将軍。
そして、彼らに背を向けた、帝王ただひとりだった。
睦月は寝返りをうった。
夢はまだ続くらしい。
同じ夢の続きか、それとも全く別の夢なのか
それは少女にも知りえない。
ここまで読んで下さって、ありがとうございます。