婚約破棄から始まる夢
第一話は葉裏の考えた粗筋を薫が文章に仕立ててくれました。最初の夢はよくある例の……です。
私は気がつくと、ひとつの大きなホールに立っていた。
天井から吊るされたシャンデリアが、金と銀の光を無数の粒に変えて空間に振りまいている。
広間には、まるいテーブルがいくつも並び、その上には果物やケーキ、透き通ったグラスに注がれた飲み物が溢れていた。
人々の話し声と笑い声が、耳元で小さく震えるように響いている。
けれど私は、誰の顔にも見覚えがなかった。
そこにいたのは、みな西洋風の髪と瞳を持った若い男女――
ドレスやタキシードをまとい、どこか中世の舞踏会のような雰囲気を纏っていた。
私はただひとり、その中に立っていた。
けれど誰も私を不思議がらなかった。むしろ、私こそがこの夜会の中心人物であるかのように。
その時だった。
「シャルロッテ!君との婚約を破棄する!」
ひときわ大きな声が、広間の空気を裂いた。
見ると、金髪に碧い瞳の美しい青年が、私を指さしていた。
彼の隣には、可愛らしい少女がぴたりと腕を絡ませて寄り添っている。
……シャルロッテ? 私が……?
気づくと私も、腰まで届くような波打つ髪と、重たいレースのドレスに身を包んでいた。
夢だ、と私は思った。
これはきっと、どこかで読んだ乙女ゲームの世界――
しかも「婚約破棄」というやつは、たいてい物語の始まりでしかない。
ここにいたら、何かとんでもない目に遭うに違いない。
私はドレスの裾をつかみ、振り返ることなく走り出した。
出口はどこ? この夢から出るには、どうすれば?
「シャルロッテ、待て! 僕の話はまだ……!」
彼の声が追いかけてくる。
でも、私は振り返らなかった。
私の知らない物語に巻き込まれるのは、もうたくさんだ。
目が覚めるまで、逃げなくちゃ――
外に出ると、夜風がドレスの裾を揺らした。
石畳の先には、煌びやかな馬車が何台も並んでいた。ひとつひとつが宝石箱のようで、どれもこれも身分の高い人々の帰りを待っている。
けれど私は、その中のどれが自分のものなのか、まるで見当がつかなかった。
だって私は――この夢の世界に、飛び入りで放り込まれた“見知らぬシャルロッテ”なのだから。
「シャルロッテ……たしか、そんな名前だったわよね」
でも家名も爵位も分からない。ヒントはあの“婚約破棄”。
この手の展開で相手が王子様ということは……それに釣り合うなら、公爵令嬢ってところ?
だったら、下級貴族の馬車を探れば、相対的に自分の身分が分かるかも。
私は、古びた装飾の馬車に向かい、馭者の少年に声をかけた。
「ねえ、私が誰だかわかる?」
少年は一瞬、まぶしいものを見るような目で私を見上げた。
「はい。シャルロッテ・リンドバーグ公爵令嬢様でございます」
……ビンゴ。
「私の馬車はどこにあるか知ってる?」
「はっ。何故か空のまま、先に戻られました」
……夢とはいえ、酷くない? 逃げる手段を封じられてる。これは、この世界の“シナリオ”の一部?
「この馬車の主は誰?」
「ローズ・カーマイヤ男爵令嬢の御用馬車でございます」
あの王子に寄り添っていた子じゃないの?! でももういい。乗る!
「お願い。商店街の方まで送って。彼女はまだ会場にいるはずよ」
「は、はい……」
少年は戸惑いながらも手綱を握り、馬車は走り出した。
途中、一台の豪奢な馬車が無頼者たちに囲まれて襲われていた。火の粉と悲鳴が舞う中、少年がぽつりと呟いた。
「あれは……あなた様の馬車です」
ゾクリと背筋が冷えた。もし最初から乗っていたら……私はもうこの世にいなかったかもしれない。
「知らないふりをして通り過ぎて」
「……はい」
私は身を屈め、馬車の座席に潜り込んだ。
やがて街の外れの小さな古着屋にたどり着いた。ほかの場所を知らない私は、とにかく逃げ込む。
「分かります。お嬢様、追われているのですね」
痩せた中年の女店主が、事情をすべてお見通しとばかりに言った。
「その高級ドレス一式と交換で、庶民の服を一揃い。さらに金貨10枚お渡しします」
取引成立。そして気がつけば、私はいつの間にか着替え終えていた。時間が飛んだ? 夢だから?
ドアをそっと開けようとした時、外が騒がしい。ドアの隙間から覗くと、あの馭者の少年がシスターたちと一緒にいる。
「多分、ここで服を着替えるはずです」
ローズから夢の“シナリオ”を知らされているの?!
「ところが、シャルロッテ様の修道院行きは取りやめになったのよ」
そう言ったのはスマホを持った、修道院長らしき人物だった。
私は安堵して、ドアを開けた。
「中止になったの? 良かったぁぁ」
その瞬間、背後から野太い声が響いた。
「その代わり、男爵令嬢毒殺未遂の疑いで断頭台送りになる」
「……えっ?」
振り返ると、兵士の鎧を着た男たちが私を取り囲んでいた。いや、気がつけばその兵士は、よれよれのレインコート姿の中年刑事に姿を変えていた。
「逮捕だ。殺人未遂の現行犯でな」
両脇を女性警官に固められ、私は護送馬車――いや、護送車のようなもの――に乗せられた。
向かいには、刑事、シスター、そしてあの馭者の少年が座っている。
そして馭者台を見上げると――
そこにはあの金髪の王子とローズがいて、私に向かってにやりと笑った。
「こんなの私が見たい夢じゃなーーーい!!」
私は絶叫した。
……その叫びと同時に、まぶたが開いた。
天井。布団。自分の部屋。
夢だったんだ。
けれど、胸の奥がまだザワザワしていた。
読んで頂き、ありがとうございます。また夢の中でお会いしましょう。