ヴィンセントの憂鬱
セレーネが雷に打たれて倒れた日の翌日、国王からの書状がノルクシュタット公爵家へ届いた。
国王の書状を読んだノルクシュタット公爵家当主アドルフは、怒りをあらわにヴィンセントの部屋の扉を乱暴に開ける。
「ヴィンセント! 王太女殿下との婚約が白紙に戻ったとはどういうことだ!?」
「父上!? いきなり何ですか?」
礼儀には厳しいはずの父がノックもせずに部屋へ飛び込んできたことに、ヴィンセントは驚く。もっとも怒号に驚いた割合の方が大きいのだが。
「説明しろ! お前の有責により、王太女殿下との婚約を白紙に戻すと国王陛下よりの書状が届いたのだ」
「え? は? セレーネ殿下との婚約が白紙に戻ったのですか?」
「とぼけるな! お前はいったい王太女殿下に何をした!?」
父の怒号よりセレーネとの婚約が白紙に戻ったことに、ヴィンセントは歓喜した。まさか本当にセレーネが自分から婚約破棄を申し出るとは思わなかったのだ。
「セレーネ殿下から国王陛下に婚約破棄を申し出てほしいと頼んだだけですよ」
「何だと? 何故そのような戯けたことを申したのだ?」
「僕はフローラを愛している。彼女以外との結婚など考えられない。だから正直にセレーネ殿下に伝えただけです。まさか本当に国王陛下に婚約破棄を申し出てくれるとは思わなかったですが」
アドルフは拳をぶるぶると震わせる。ヴィンセントの愚かさにさらに怒りが増したのだ。
「この痴れ者! 何というバカなことをしてくれたのだ! 王太女殿下との婚約を結ぶのに私がどれだけ苦労をしたと思っている!?」
「父上。そんなに怒らないでください。王家との縁が結びたいのであれば、フローラと婚約をすればいいだけのことではっ……ぶっ!」
突然の頬への衝撃にヴィンセントは文字どおり吹っ飛んだ。度重なるヴィンセントの失言に堪忍袋の緒が切れたアドルフは息子を殴った。
「どこまで愚かなのだ! そのような単純なことではない! とにかく明日は王宮へ赴き、国王陛下と王太女殿下にお詫びをしなければならぬ。お前も一緒に来るのだ、ヴィンセント! ん?」
胸倉を掴んで引き起こしてみれば、ヴィンセントは気絶していた。
アドルフは現在領地経営に力を入れているが、若い頃は近衛騎士団で武を極めていた強者だ。そんなアドルフに殴られたヴィンセントは壁まで吹っ飛ばされる瞬間、気を失った。
「全く軟弱なヤツだ。おい! 誰か治癒術師を呼べ!」
治癒術師のおかげで頬の痛みはなくなった。だが、父親に殴られた衝撃はまだ忘れられない。ヴィンセントは頬にそっと触れる。痛くはないが、痛い気がした。
「父上の馬鹿力め! 相変わらず手加減というものを知らない」
ヴィンセントは次男で周りから甘やかされて育った。しかし、父親は違う。悪いことをすれば、怒号が飛んでくるし、時には殴られる。おかげで受け身をとるのが上手くなった。
「それにしても、セレーネ殿下は何で自分から婚約破棄をする気になったんだ?」
なかなか婚約破棄に応じないと思っていたセレーネが、意外に早く行動を起こしたことにヴィンセントは少し驚いた。恥ずかしいくらいにヴィンセントのことが好きだと周りにアピールしていたというのに……。これだから卑しい市井育ちの王女は嫌だと、心の中でセレーネを罵倒していた。
ヴィンセントは十六歳の時にセレーネと婚約をした。
父親から王女との婚約が決まったと知らされた時に、相手がフローラだと勘違いして喜んだものだ。だが、実際の婚約相手はセレーネだった。何度も婚約破棄をしてやろうと思ったが、王家との婚約を高位貴族とはいえ公爵令息に過ぎない自分から破棄できるはずがない。
ヴィンセントはセレーネのことが嫌いだ。美しい容姿をしているが、それだけだった。国王の嫡子とはいえ王女らしくない。生まれながらの王女として洗練されたフローラとは全く違う。フローラとは何を話しても楽しいし、一緒にいると華やいだ気分になれる。
「ちょっと優しくしてやったら、まとわりつかれて迷惑だったよな。話をしてもつまらないし、フローラとは大違いだ」
明日は父とともに王宮へ赴き、国王とセレーネに謝罪をしなければならないのだ。それを考えると気が重い。
「あの女が婚約を白紙に戻したいと望んだんだ。それで国王陛下が認めたのならそれでいいじゃないか」
不貞腐れたヴィンセントはそのままベッドに横になり、朝まで眠り続けた。
◇◇◇
翌日王宮に赴くと、国王はアドルフだけと話をしたいと言う。
「お前は王太女殿下に直接謝罪に行け!」とアドルフに命令されたので、仕方なくセレーネの執務室に行く途中にフローラと会った。ヴィンセントはすっかり目的を忘れて、フローラにせがまれるまま植物園へと向かう。
植物園でセレーネに会った瞬間、ヴィンセントは当初の目的を思い出し、怒りを覚えた。なぜ自分が謝罪をしなければいけないのか? と。だから、婚約破棄をしてくれたお礼の言葉を述べたが、セレーネは受け入れなかった。また怒りが湧いたが、同時に違和感を感じたのだ。今までのセレーネとは明らかに雰囲気が違う。
いつも恥ずかしそうにヴィンセントを見つめていたアースアイは、冷たい光を宿している。有無を言わせない毅然とした態度は、洗練された王女そのものだ。
セレーネがヴィンセントをクズ男として見ていたからなのだが、彼はそう勘違いした。
植物園を去る際、すれ違いざまにローラントがヴィンセントの耳元で囁いた。
「王太女殿下と婚約破棄をしてくれてありがとう」 と……。
雰囲気の全く違うセレーネと最後にローラントが囁いた言葉が妙に気になったヴィンセントだが、振り払うように首を振る。
「これでフローラと結婚できるんだ」と自分に言い聞かせた。
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