10.
アンカーレ地方に降り始めた雨はますます雨脚が強まり、夜には豪雨となった。時々雷も伴っている。雷に打たれた瞬間をセレーネは思い出すが、不思議と怖くはない。おかげでクズ男と無事に婚約破棄することができたことの方が、セレーネとしてはうれしい。まさに雷様様だ。
セレーネは初日と同じくローラントと夕食を食べながら、窓に激しく叩きつける雨を恨めし気に眺める。
「収穫の様子を視察できなくて残念だったわ」
「この雨ですと、例え晴れても明日も収穫はできませんね」
雨の後は地面がぬかるみ足を取られるので、すぐに収穫をすることができない。
「視察の日程を伸ばすことはできないかしら?」
何としても獲れたての米でおにぎりが食べてみたいセレーネは、なかなか諦めることができないのだ。
「一日、二日でしたら何とか調整できると思いますが、それ以上は難しいです」
帰ったら決裁の書類が山ほど溜まっていることだろう。セレーネは書類の山を想像してぞっとする。
「今年は収穫の様子が見れないかもしれないわね。ううう。残念だわ」
「また来年も視察にいらっしゃればよろしいでしょう?」
半ば諦めて落ち込んでいるセレーネにローラントが慰めの言葉をかけている時――。
食堂の扉がノックもなく、けたたましい音を響かせて開かれる。
「王太女殿下! ドレンフォード卿!」
穀倉の警護をしている騎士が慌てた様子で転がるように飛び込んできたのだ。
「何事だ!? 王太女殿下の御前で無礼だぞ!」
ローラントが食卓から立ち上がり、騎士の無作法を咎め、叱責する。だが、騎士は一刻の猶予もないという様子で、緊急事態だということがセレーネには容易に想像できた。
「ドレンフォード卿、構いません。そこの貴方、何か急用なのでしょう?」
セレーネも食卓から立ち上がり、ローラントの横に並ぶ。
「火急の用件にてご無礼を承知で申し上げます! カーネ川が氾濫いたしました!」
騎士はその場に跪き、必死の形相で簡潔に用件を告げた。
カーネ川というのはアンカーレ地方に流れる河川で、農業用水や生活用水に使われている。
「何だと? 状況はどうなのだ?」
「はっ! 川の水位が限界まで上がっており、まもなく堤防が決壊するかと思われます」
「大変じゃないの! カーネ川付近に住んでいる人たちは避難したの?」
堤防が決壊した場合、その付近に住んでいる住民が危険だ。浸水の深さが増すほど、避難するのが困難になる。
「はい、殿下。女子供は高台に避難させました。男たちは土嚢を積んで、堤防の決壊を防いでおります」
「男たちもすぐに避難させなさい! 堤防が決壊したら危険なのよ」
「ですが、堤防が決壊しそうな地域には穀倉がありまして……」
「何ですって!?」
堤防が決壊して川の水が穀倉に浸水すれば、穀物はダメになる。セレーネは堪らず駆け出し、馬小屋に向かう。血相を変えたローラントがセレーネの後を追ってきた。
「お待ちください! どちらに行かれるのですか? 殿下!」
「決まっているでしょう! 堤防が決壊しそうな地域に行くのよ。住民を避難させて穀倉を守るわ!」
「何故、殿下が直接行かれるのですか? 住民の避難の誘導は離宮の騎士たちにお任せください!」
普通であればセレーネが直接行く必要はない。アンカーレ地方は王家直轄地なので、その地を守るのも離宮の騎士の役目だ。
しかし、この世界には魔法がある。そして、ショボくてもセレーネは魔法を使うことができる。こういった事態に魔法を使って被害を最小限に食い止めることができるのではないかと、セレーネは咄嗟に思ったのだ。
「穀倉はどうするのよ? 普段警護をしていると言っても、騎士全員が有効な魔法を使えるわけではないでしょう? こんな時に魔法を使える人間が出ていかなくてどうするのよ!」
セレーネの言うとおり、災害に有効な魔法を使える騎士ばかりいるわけではない。住民を避難させることはできるだろうが、穀倉まで守ることができるとは限らないのだ。
ローラントは、はあとため息を吐く。
「では、私も行きます。どうせ止めても聞かないと思いますから。ただし、私の傍を離れないでくださいね」
ローラントはてきぱきと馬に馬具をつけ始める。
「分かっているじゃないの」
「わたくしもお連れください! 殿下」と馬小屋に入ってきた人物がいた。雨よけのコートを手に二人に近づいてくる。ミレーヌだ。
「ミレーヌ? ダメよ。貴女は離宮に残っていなさい。危険だわ」
「殿下。わたくしも魔法が使えます。水を食い止める助けになると思います。どうかお連れください」
貴族には得意な魔法がそれぞれある。アルムグレン伯爵家は水魔法や土魔法が得意だ。水や土を操る魔法が使えるのであれば、ミレーヌの言葉どおり浸水を食い止めることができるかもしれない。
「分かったわ。無理をしないこと。約束してちょうだい」
小指を立てるセレーネをミレーヌは不思議そうに見ながら首を傾げる。
「あの……殿下。その小指は何かのサインですか?」
「えっ? 約束をする証よ。こうするのよ」
ミレーヌの小指と自らの小指を絡ませる。
「王都では約束をする時にこのようにするのですか? かしこまりました! 今後はわたくしも約束をする時はこのようにいたします」
アルムグレン伯爵領では「指切りげんまん」という習慣はないのかもしれない。
「ミレーヌ、馬には乗れる?」
「乗馬は得意でございます」
にっこりとミレーヌは微笑む。アルムグレン伯爵領は畜産が盛んな地域だ。幼い頃から馬に乗れる子供が多いと聞いたことがある。ミレーヌもそうなのだろう。自ら馬に馬具をつけ始める。
「殿下。準備が整いました」
「行きましょう! まずは人命優先で次に穀倉を救うのよ!」
三人は激しい雨の中、カーネ川に向かって馬を走らせた。
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