8.
アンカーレ地方は王都から馬車で一日かかる道程だ。セレーネを乗せた馬車は朝早く王都を出発したのだが、アンカーレ地方に入った頃にはすでに日が傾いていた。
「殿下。まもなく離宮に到着いたします」
視察は三日の予定でその間は離宮に滞在することになっている。
「道中長かったわね。お尻が痛くなっちゃったわ」
王族の馬車は割と乗り心地を重視して作られてはいるが、それでも長時間座りっぱなしだと疲れるのだ。ただ、道中はローラントと建国祭の最終的な打ち合わせや、例の法案について話し合っていたので、退屈はしなかった。
「あまり人前でそういった発言はされませんように」
オブラートに包まず、ダイレクトに”お尻”と言っていることをローラントは諫めているのだ。
「心得ているわよ。これだから市井育ちは~とか言われたら、お父様の顔に泥を塗ってしまうものね。私はどれだけ悪く言われても構わないけれど……」
「殿下を悪く言う人間は滅多におりませんよ。王太女となられてからは特にです。もっと自信をお持ちください」
「滅多にということは稀には悪口を言う輩がいるのよね。別に全ての人間に褒められようとは思っていないから平気よ」
自己評価が低いセレーネだが、実際のところ国の重鎮たちのセレーネに対する評価は高いのだ。ヴィンセントと婚約して彼にかまけてばかりいたわけではない。王太女として仕事をよくこなしていた。物語では悪役王女としてしか描かれていないが、セレーネはなかなかハイスペックなのである。
「割り切っていらっしゃるのであればよろしいのですが……」
「それより、今日の予定を確認するわ。今夜は特に予定はないのよね?」
「長旅でしたので、本日はそのままお休みいただいても構いません。明日は穀倉や収穫の様子を視察していただく予定です」
すでに収穫が終わっているところもあるが、これから収穫するところもある。その様子を視察する予定なのだ。
「分かったわ。離宮に到着したら、少し休んで軽食をとろうかしら?」
「かしこまりました。では、そのように手配いたします」
王女の身の回りの世話は本来専属の侍女がするものだが、現在セレーネにはいない。王宮では身支度を整えてくれる侍女がいるのだが、専属ではない。手が空いている侍女が入れ替わりで世話をするといった感じだ。セレーネ自身はほぼ執務室で籠りきりのため、お茶を淹れる雑用などは自分でやったり、ローラントがやってくれたりする。
今回の視察には侍女を連れてきてはいない。離宮にも使用人がいるはずなので、必要であれば身支度などの手伝いをしてもらおうとセレーネは考えている。
「離宮が見えてまいりましたね」
車窓から白亜の建物が目に入る。三階建ての瀟洒な建物だが、一見すると王族の住まいには見えない。広いところが落ち着かないセレーネとしては、こじんまりとして静かな佇まいが気に入った。
「なかなか素敵なところじゃない。ローラントは来たことがあるの?」
「国王陛下のお供で何度か来たことがございます」
「そうなの。私は初めてだわ」
王女として王宮に迎えられて四年経つが、国王の名代として視察に赴くのはこれが初めてだ。もちろんこの離宮に来るのもそうだ。国王と一緒に海辺の離宮へ行ったことはあるが、単独で王都を出て旅をするのも初めてだった。
「いろいろ初めてづくしで楽しみだわ。おにぎりは特にね」
おにぎりの辺りは小声で、さらに心の中で「この世界でのおにぎりは初めて」という注釈がつく。
「何かおっしゃいましたか? おにぎりがどうとか聞こえましたが?」
「そんなこと言ったかしら? あら? 到着ね」
ちょうど馬車が停車したのでごまかしたが、ローラントは意外と耳が良いので、気をつけなけばいけないとセレーネは自分を戒めた。
◇◇◇
セレーネに用意されたのは、三階の一番日当たりが良い部屋だ。国王が王太子時代に使っていた部屋だという。王宮の自室ほど広くはないが、落ち着いた色合いの品が良い調度品が設置されており、居心地の良さそうな部屋だった。
「ああ、疲れた!」
誰もいないのを良いことにベッドにダイブする。ローラントがその場にいたら、口うるさく説教されたことだろう。
そのまま仰向けになり、しばらくゴロゴロしていると扉がノックされる。
ローラントが軽食の準備をしてくれたのだろうと思ったセレーネはベッドから起き上がり、ソファに座り居住まいを正す。
「入りなさい」
入室の許可をすると、「失礼いたします」と女性の声がする。
扉が開くと、侍女服に身を包んだ十代と思われる少女が入室してきた。セレーネより少し年下に見える。明るい栗色の髪を結いあげているが、まだ初々しい。
「王太女殿下にご挨拶を申し上げます」
きれいなカーテシーで挨拶をした後、頭を下げたままの少女にセレーネは声をかける。
「頭を上げなさい。貴女は離宮の侍女かしら? 名前は何というの?」
「ミレーヌ・アルムグレンと申します。半年前よりこちらの離宮に仕えております」
ミレーヌは頭を静かに上げ、姿勢を正す。完璧な礼儀作法だ。そして、セレーネはミレーヌの家名を聞いたことがあった。
「もしや、アルムグレン伯爵家の令嬢ですか?」
「わたくしをご存じなのですか? まだ社交デビュー前なのですが……」
ミレーヌは首を傾げている。セレーネが自分を知っていることが意外だったのだろう。
アルムグレン伯爵家はアンカーレ地方の隣に領地がある。セレーネはまだアルムグレン伯爵に会ったことがないのだが、実直で領民に慕われていると聞いたことがあった。
「ええ。アルムグレン伯爵家の三女ですね?」
国内の貴族の家族構成などは全て頭に叩き込んである。社交デビュー前ということであれば、現在十五歳になるアルムグレン伯爵家の三女だろうと推測できた。
「左様でございます。王太女殿下がわたくしをご存じだなんて、光栄です!」
大きな緑の瞳がキラキラと輝いていて可愛らしい少女だ。とても好ましい雰囲気にセレーネはくすりと微笑む。
「ところでミレーヌ。私に何か用事があるのでしょう?」
「申し訳ございません! つい、はしゃいでしまいました。軽食のご用意が整いました。食堂でお召し上がりになられますか? それともこちらでお召し上がりになられますか? こちらでお召し上がりになられるのでしたら、ご用意いたします」
白磁のような肌をバラ色に染めて恥ずかしがりながらでも、ミレーヌは用件をしっかりとセレーネに伝える。
「食堂で食べるわ。ドレンフォード卿に一緒に食事をするように伝えてもらえるかしら?」
一人で食べるよりはローラントと一緒に食事をした方が楽しいだろうと考えたセレーネは、ミレーヌに伝言を頼む。
「かしこまりました。お伝えいたします。先にお召し替えをなされますか?」
「いいえ。このままで構わないわ。湯浴みの後、寝支度を手伝ってくれるかしら?」
「もちろんでございます」
ミレーヌは嬉しそうに顔を綻ばせると、再び丁寧に挨拶をした後、退室していった。
「なかなか好ましい態度の侍女ね。専属侍女に欲しいところだわ」
初対面ではあるが、洗練された礼儀作法に明朗快活そうなミレーヌをセレーネは気に入ったのだった。
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