人生完全攻略本
毎日の憂鬱な出勤のためにスーツを装着し家の扉を開くと
謎に包まれた本が俺のアパートの部屋の目の前に落ちていた。
一体これは何なのか、なぜ俺の部屋の目の前という絶妙な場所に配置されているのかという疑問はさておき、俺はその書物のタイトルに不覚にも心を惹かれてしまった。
「人生完全攻略本」
しかもサブタイトルにはなぜか俺の名前も書かれていた。
「~山中哲へ向けたメッセージ~」と刻まれていたその表紙は、明らかに俺に対するもので。
人生完全攻略本と名のついたその書物は見る限り百何十ページ程度はあるようだった。
上に乗ったら3cmぐらいは身長が伸びるであろうページ数を見て、俺の人生にはまだ伸びしろがあるのかもしれないと思った。
今まで何もない人生だったがこれからの人生、もしかしたら恵まれた幸せな生活が待っているのではないかと思わせるほど、教科書のように厚い本。
それは俺の瞳に光を宿すには十分の代物だった。
俺の目前にこの本が姿を現してくれて、しかも俺の名前が刻まれているということは、この本は誰かからの俺に対してのプレゼントだと捉えてしまってもいいのだろうか。
俺にとってはプレゼントしてくれた相手が神様でも悪魔でもいい、そんなのは大した問題ではなかった。
俺の人生を良い方向に傾けてくれるのだとしたら、縋る存在や対象には俺は拘ることはない。
それでもきっと可愛い天使様が憐れな俺のために与えてくれたと信じるほうが幸せな気分になれるであろう。
俺みたいな汚らしいおっさんがこれを置いていったと考えると触れたくなくなってしまうからな...。
慈悲深い天使様が与えてくれたのだと、そう自分に思い込ませることで感情の昂ぶりが連鎖を生み俺の顔には自然と笑みが零れだしてしまう。
ここ数年は人に笑顔を見せたことがなかった俺の顔は、現在右頬だけ高く引き攣っており歪な笑顔になってしまっていることは間違いなかった。
それにしてもこんなタイトルの本、もしかしたら中身を開いたら宗教まがいのことを書かれていたりするのだろうか。
貴方は神を信じますか?信じればあなたも救われるでしょう。とかの酷い売り文句みたいなことが書かれていても困るんだけれども...。
まあいいだろう。
御年二十五歳、妻子は居ず、この壁の薄いアパートに淋しいながらも一人暮らし。
学生時代には程良い青春も送ることができず可もなく不可もないという言葉を使うなら不可不可不可しかなかった人生を送ってきていた俺にはいい機会だ。
この本を熟読して、俺は完全で完璧で最高の人生を送るのだ。
後悔してくれよ、中学二年生の時に俺の告白を拒絶したK子ちゃん!
絶対に見返してやると決意した、高校三年生の時に俺の告白を豚が喋るなよと罵倒したS美ちゃん!
現在進行形で無視されてる俺が彼女の教育係に任命されたN奈ちゃん!
絶対に幸せな人生を歩んでやる。俺をこんなにも惨めにさせた奴らに復讐してやるのだ。
俺がこんなに幸福な気持ちで日々を送っているのに、君たちはそんな俺に比べてどんな人生を送っているのだ、と。
今まで見下して軽蔑してきた俺に先を越される気分はどうだ、逆に見下される気分はどうだ。
俺にもっと媚を売って尻尾を振って服従しておけばよかったと、俺のペットになっておけばよかったと今更そんなこと思った所でもう何もかも遅いのだ。
俺は今日この本を手に入れてしまった。その運命だけは頑なに変えられないわけで。
この本で俺の人生が今までよりも良い方向、いや血迷って他人に自分の幸せを分けてしまいそうになってしまうほど良い方向に行くことは確実なわけで、確定事項なわけで。
だからこそ俺の右頬は現在引き攣っているわけで。
他人から見れば俺は気持ち悪い笑顔で手にしている本をニヤニヤ見つめていて、これからの人生がどれだけ良くなるのかを大声で語っている異常者なのだろう。
でも今だけはそんな笑われ者になっても良い気分なのだ。
だってその笑っている奴らよりも俺の方が幸せな人生を歩むのは当たり前なわけで、それはもう運命づけられたことなわけで。
俺を笑っている奴らを逆に笑ってやることで、俺の中の自尊心は更に欲望を食い潰してどんどん肥大化していくのだ。
表面の石を粗削りして加工したようなザラザラのやすりのような感触を指の先で味わいながら、俺はその本の表紙を捲っていく。
遂に俺は人生の希望の一ページを開いた。
そうして俺の目に入ったのは...
ん?まだ目次か。勿体ぶるなよ。
あれ...おかしいぞ...目次がおかしいぞ...。
どうしてこんなことが、俺の人生攻略本に書かれているのだというのだ。
「~不幸な貴方の人生に救いをもたらしましょう!~」
「命を絶つ二十五個の方法!」
01-圧死=5ページ<痛みを感じる前に命を絶つことができてオススメ!
02-絞殺死=13ページ<じわじわと苦しみを味わいたいマゾヒストにオススメ!
03-銃殺死=21ページ<派手に命を絶ちたい目立ちたがり屋な人にオススメ!
04-水死=26ページ<深海の魚介類の養分になってSDGSに配慮していてオススメ!
ああ、そうなのか。
この本まで、俺の幸せを邪魔するのか。
それならいい、こんな酷い本なら俺は必要ない。
そもそも俺は人生攻略なんて目指してない。
ささやかな喜びが日常を優しく包むようなそんな日々で十分なのだ。
だからこんなレビュー星1も付けたくねぇような本なんて要らねぇんだよ!!!
俺は助走をつけて五階のアパートからフェンスの奥の森林へと本を投げ捨てた。
ついでに獰猛なクマも逃げてしまうであろう泣き声とも怒り声とも取れない雄叫びをあげながら。
クソっ...最悪の気分だ...。
これでまた、いつも通りの平凡でちょっと不幸な人生に逆戻りだ。
それでも俺は絶対に自分から命を絶ったりしない。
それだけは俺心の中にいるお袋に誓うことができるから。
シングルマザーで忙しいにもかかわらずにこんな俺でも可愛がってくれて愛を与えてくれた、そしてこの歳になるまで育ててくれた俺の唯一の肉親のお袋。
俺、こんな惨めな人生送ってきてるのに、お袋だけは絶対裏切れねえよ...。
双眸から溢れ出てきていた涙はとどまることを知らず、町全体を溺れさせるような勢いで流れ出ていた。
俺の中から水分がどんどん失われていっていた、でも俺はこの涙を止める方法を知らなかった。
ああ、ああ、お袋、ごめんよ。
こんな俺でも愛してくれて、その愛に俺は報いることはできなかったけど。
優しいお袋ならきっと許してくれるよな。
今でも実家に帰ったら、待ってたよって言ってくれて、俺の大好物のきゅうりの浅漬けを大量に出してくれるはずだもんな。
それだけで俺は生きる意味があるんだもんな。生きなければならない理由ができるんだもんな。
だから俺はこんなところで命を絶つわけには...いか...な...
山中哲の体には、もう水分は残っていなかった。
残っているのは干からびた今まで人間だったとも言えないような干し肉の残骸のみ。
それでもきっと彼は幸せだったのだと、そう思いたい。
25-乾燥死=178ページ<人生も愛情もカラカラの惨めな人生の人にオススメ!