9
甘い香りがする。
花の蜜のようで、もぎたての果実のような芳しいにおいがどこからともなく漂ってくる。
大きく吸い込むと全身がとろけてしまうような弛緩した気分になる。
透は目を閉じたまま手探りで布団の端を掴み肩まで引き上げた。
暖かい布団と心地良いその香りに包まれて、透はまどろみの中にふわふわと漂った。
しかしその安寧は長くは続かなかった。
ガリガリ、ガリガリ。
突然工事現場でコンクリートに穴を穿つような騒音が透の耳に飛び込んできた。
ドリルが刺さっているのは自分のこめかみかと思うぐらいに、その音は強く透の脳に響いた。
透はあまりの不快さに唸り声を上げて、蜘蛛の巣を掻き分けるように両手を耳の辺りで闇雲に振った。
しかし手は空しく空を切り続け、音は一向に止む気配を見せない。
透は疲れた腕を下ろし布団を頭から被った。
「お兄ちゃん。寝ぼけてないで、そろそろ起きたら?電話だよ」
優しく誰かが布団を叩く。
誰かと言っても千春しかいない。
騒音が止まり布団が捲られ、今度は耳元で何かが振動している音が聞こえる。
「出る?」
うっすらと目を開くと、ぼんやりと白く膜が張ったような視界の中心に千春の顔があった。
彼女の髪が先ほどの眠りの中で感じたものと同じ甘いにおいを漂わせて、さらさらと透の頬を滑っていく。
よく見ると手には透の携帯電話を持っている。
先ほどのドリルのような音はこたつの上でそれが振動していたのだろう。
透はゆっくりと首を左右に振った。
「いいの?かずちゃんからみたいだけど」
「かずちゃん?」
「お兄ちゃんのお兄さんのこと」
透は迷わずに首を振り続けた。
睡眠薬で痺れた頭で考えても即答できる。
一体こんな時間に何だと言うのだろう。
きっとろくでもない用件に違いない。
自分本位の兄に気持ち良い睡眠を妨害されたかと思うと腹の奥で怒気が蠢いてくる。
しかし結果的にはそれで休止状態の頭に血が巡り覚醒が促進されてきた。
千春の手の中で携帯電話の振動が事切れる。
諦めたのかと思うとほっとして漸くベッドから抜け出ようかという気にもなってくる。
むっくりと身体を起こすといつもなら後頭部にずんと鈍痛を感じるのだが今はそれもない。
専門的なことは分からないが、おそらく和馬からの電話で生まれた軽い憤りが、透の血圧を上昇させ透の全身に力を漲らせたのだろう。
「今、……何時?」
台所に向かう千春の背中に問いかける。
さっきは「こんな時間に」と思ったが、よく考えれば今が何時なのか分からない。
今の時間帯は電話を掛けることよりも寝ていることの方が非常識なのかもしれない。
「七時を回ったところ。夜のね」
ただでさえ一日中薄暗い空模様が続くこの時季に、遮光カーテンを引いた部屋の中では「七時」と聞いただけでは朝か夜かは判断がつきにくい。
朝ではないことを強調したのは、嫌味ではなく思いやりだと受け取っておくべきだろう。
電子レンジが鳴ったと思ったら、千春が湯気の立つマグカップを持ってきてくれた。
礼を言って受け取るとミルクティーだった。
白い湯気に混ざって透の頬を湿らす紅茶と牛乳の香りが柔らかい。
一口啜ると甘くて優しい味が身体に染み渡った。
自律神経の失調に潰瘍性の胃炎はつき物だ。
さらに薬剤を服用するとどうしても胃に負担がかかる。
千春の何気ない思いやりが胸に温かかった。
近くで何かがブーンと震え出した。
枕元に目を落とすと携帯が着信を表す光を発している。
液晶画面を見るまでもない。
「また、かずちゃんみたいね」
人は誰かに話しかけられているとき、それを無視していると負い目からか大なり小なりストレスを感じてしまう、と聞いたことがある。
透は電話が掛かってきているのに出ないでいるということにも少なからず罪の意識で苦痛を覚えてしまう。
たとえろくでもない話だと分かっていても、二度も掛かってこれば出ないわけにはいかない。
それに二度も掛けてきたということは和馬の性格からして透が出るまで掛け続けてくるだろう。
うんざりしたような顔で透が携帯電話を耳に当てると、千春はそれで良いのだと言うようににっこりと微笑んだ。
「もしもし」
「もしもし、じゃねぇだろうがぁ!」
鼓膜が破れそうなほどの怒声に透は慌てて電話を耳から遠ざけた。「どうせ部屋でいじいじ燻ってんだろ?さっさと電話に出やがれ」
いきなりの粗暴な声に透の心も余計にささくれる。
部屋に燻っていたことは事実だが、心を病んでいる弟の状態を少しぐらい慮ることができないものだろうか。
そんな考えが頭を過ぎったが透はすぐさま追い払った。
和馬という人間には気遣いという言葉が最も似合わない。
とにかく寝起き早々兄と悶着を起こす気にはなれない。
そんな気力が備わっていれば仕事だって休んでいない。
透は努めて冷静な声での応対を試みた。
「何か用だった?」
「おう。それよ、それそれ」
弟としても怖くなるぐらい兄は単純だ。
こちらが水を向けると先ほどの剣幕は嘘のように和馬は途端に声のトーンを低くした。
「千春ちゃんは今そばにいるのか?」
言われて透はベッドに腰掛けたまま千春の姿を目で追った。
千春は冷蔵庫を覗きこんでいる。
何かを炒める音も聞こえてきている。
「台所で料理してるけど」
「そうか。じゃあ丁度良い。ちょっとテレビを点けてみろ」
リモコンに手を伸ばし和馬に言われるままにチャンネルを合わせる。
画面には最近昼のワイドショーの司会を務めるようになったお笑いタレントとテレビ局の女子アナウンサーが並んで映っている。
その二人に紹介され紫色のダブルのスーツを着た白人男性が、重々しい扉の向こうから白いスモークとともに現れた。
肘まで捲り上げた袖の先から毛むくじゃらの腕をこれ見よがしに露わにしている。
顔に浮かべた柔和な微笑がいかにもテレビ慣れした感じがあって胡散臭い。
掌を胸の辺りで大きく広げる仕草はまるで、種も仕掛けもありません、と示す手品師のようだ。
女子アナウンサーが語学能力をひけらかすように、その手品師と英語で簡単な挨拶を交わし握手をした。
「何、これ」
「知らないのか?一年に一回この時期にやってる全国の失踪者を公開的に探す番組だ。結構有名なやつだぞ。んで、あの紫色のスーツのおっさんがとてつもない能力の持ち主なんだとさ。おっさんの超能力で失踪者の居場所を突き止めるっていうのが今回の目玉らしい」
「それで?」
話の道筋が全く見えてこない。和馬が透に見せたいものは何なのか。
「俺も真剣にこの番組を見てたわけじゃないんだ。その、なんだ。うちのアパートは壁が薄いもんだから、あれのときのカモフラージュのために点けてただけなんだけど……」
電話の向こうで「余計なこと言わなくていい!」と春美が怒っている。
こちらもそんなこと、聞きたくもない。
「で?」
「おう。それで、気になる名前が出ててな。俺じゃなくて春美が見つけたんだけど」
「気になる名前って?」
「今、画面の右側に本日の捜索対象者って二人名前があがってるだろ。その二番目に何て書いてある?」
そこには「河本さゆりさん(二十歳)」とあった。河本という姓は千春と同じだ。
「まさか……」
透は思わず声を潜めた。
一旦電話を耳から離して千春の様子を確認する。
千春はこちらに背を向けてまな板で何か切っていた。
透は息を詰めて再び電話を耳に当てる。
「千春なのか?」
そうである確率は低くはないように思える。
これまで千春の口から両親や友人の話を聞いたことがない。
千春が失踪者だったとしたら……。
千春の家族はこの寒い冬空の下を重い足を引き摺って彼女を探し回っているに違いない。
千春のことを想って何日も眠れない夜を過ごしているだろう。
寝つけずに何度も寝返りを打つことの何と空しいことか。
その苦痛は日々数種類の薬を服用して強引に自分の意識を捨てている透には容易に想像できる。
「分からない。俺たちも半信半疑ってところだ。そう言えば千春ちゃんって幾つだっけ?」
「俺が高三のときに高一だったって言ってたから、今は二十四歳かな」
「お前、何かでそれを確認したか?」
「いや、同じ高校の後輩らしいんだが俺は記憶にない。千春が普段着に使ってる体操着は俺の高校のものと同じやつだけど」
「じゃあ、やっぱりお前の後輩なんだろ」
「だけど、いくら学年が違っても同じ高校に通ってたら千春なら目立つだろ」
「そうだな。あのど田舎にハーフは珍しい。とすると、作り話の可能性もあるわけだ。千春ちゃんなら二十歳でもおかしくない」
「確かに」
白人との混血である千春は目鼻立ちが整っているのでもっと年上に見えなくもなく、逆に肌理の細かい瑞々しい肌の感じからして二十歳と言われても納得できてしまう。「でも、何のために嘘なんかつくんだ?」
「そりゃあ、お前にうまく取り入って……」
「取り入って?」
「金品をせしめる」
「俺から金を?それはないだろ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに透は思わず失笑する。「これって生放送か?」
「そうだ。生がこの番組のウリの一つでもあるからな」
透は立ち上がってカーテンの隙間から窓の外を見た。
いつもの街灯の暗い道路にはテレビ局のクルーどころか通行人一人見当たらない。
このゲストの能力がどれほどのものかは分からないが、今から動き出しても放送中に失踪者を見つけることなど無理に決まっている。
もし河本千春が「河本さゆり(二十歳)」と同一人物であるなら、既にテレビ局の人間がマンションのそばで待機していてしかるべきだ。
透はベッドから移動してテレビの前に座った。
画面の向こうでは一人目の失踪者の居場所について霊視とやらが始まったようだ。
手品師がさらにスーツの袖を捲り上げ、目を閉じて顔の前で祈るように手を組んでいる。
その様子を三人の人間がまさに滑稽なまでに真剣な眼差しで見守っている。
二人は司会者でもう一人は失踪者の母親らしい。
「本当にそんな能力がこいつにあるの?」
「さあな。でもこの番組の視聴率は毎回かなり良いらしいぞ」
それらしい緊迫感は画面から伝わってはくるが、どうにも作り物のにおいがしてならない。
いんちき臭い霊能力者だけでなく、失踪者の母親だとかいう人も本物かどうか疑わしい。
しかし透は笑い飛ばすことはできなかった。
千春が「河本さゆり(二十歳)」である可能性が全くないとは言い切れない。
手品師が何やらぼそぼそと呟き始める。
気がつけば手品師の口の動きに透の目は釘付けになっていた。
隣に座っている女子アナウンサーが手品師の言葉を通訳し始めた。
「川が見えます。長い川です。川に沿って何本も何本も木が植えられています。えー、それから、少し離れるとテニスコートが何面も見えます。照明の設備のあるテニスコートです。それから……」
そんな風景は日本中で幾らでもあるだろう。
それに失踪者が日本にいるとは限らない。
「この調子だとまだまだ時間がかかりそうだな。春美が帰るって言うから、とりあえず切るわ」
「ちょ、ちょっと待てよ」
慌てて呼び止めても既に電話は切れていた。
いつものことだが、和馬はこちらの気持ちなど一切考えていない。
今回もわざわざ問題を見つけてきては一方的にこちらに投げつけて、そのままほったらかしだ。
透はベッドに電話を放り投げそのまま床に寝転んだ。
両手を枕に天井を見上げると、仁王立ちしている千春が透を見下ろしていた。
「私、失踪なんてしてないよ」
「わっ!」
驚いた透は反射的に身体を起こし、千春を見上げた。
口を尖らせて眉間に皺を寄せていた千春は視線を透からテレビへ移した。
「こんな胡散臭そうな超能力者なんてあてになるの?」
「さ、さあ」
「私、二十四歳って言ってるじゃない。二十歳なら二十歳って言うわ。年齢を上に偽る必要がどこにあるの?」
「そりゃあ、そうだよな」
千春は怒りでどんどん興奮してくるらしく、白い頬が朱に染まっていく。
透は千春の迫力に通り一遍の相槌を打つことしかできず、どう対処したら良いのか思案に暮れた。
「金、金ってどういういことよ?」
「それは、その……」
和馬との電話を千春に全て聞かれていたようだ。
透は取り繕う言葉が見当たらなかった。
「陰で私のこと泥棒扱いにしてたんでしょ!もう!ムカつく!」
千春はこたつの上にあるリモコンに手を伸ばし、テレビに向かって力強く投げつけた。
八つ当たりを受けたリモコンはテレビの角に当たって跳ね返り、その後ろの壁にぶつかって中の乾電池が飛び出した。
スローモーションのように二つの金色の乾電池が舞い踊る。
千春は鼻息一つ残して透に背を向けた。
部屋の壁に掛けられているダッフルコートを掴み、玄関に駆け出そうとする。
透は慌てて立ち上がった。
玄関から無造作に鍵が開く音がする。
「千春!」
ドアノブに掛けた千春の雪のように白い手を上から押さえつける。
「何よ!」
乱れて顔に降りかかる細く柔らかそうな髪の向こうから、暗く光る蒼い瞳が見えた。
その瞳がさらに光を集め何かが零れ落ちた。頬を伝っていく雫。
「千春……」
「だから何?」
涙声で叫ぶように千春は問い返してきた。
ぽたぽたと足元に落ちる涙を隠そうともしない。
血走った目は開いた傷口を見るようで痛々しい。
しかし、透は千春から目を離さなかった。
事ここに至っては、全てをはっきりさせておいた方が良い。
「ここにいることを千春の親は知ってるのか?」
「私、子供じゃないの。私がどこか行くのに親の了解なんて必要ないわ」
千春はまるで頭の中で想定問答を用意していたかのように、息継ぎもせず言い切った。
ドアのノブを回そうとする千春の手を透がさらに力を込めて押さえつける。
「子供だとか大人だとかいう問題じゃない。家族が行き先も告げずに急にいなくなったら誰だって心配するだろう」
「心配しようがしまいが私には関係ないわ。私は自分の行きたいところに行くし、したいことをする」
「そんな勝手通用するかよ」
「じゃあ、お兄ちゃんはどうなのよ。毎日好きなようにやってるんじゃないの?」
痛いところを突かれて透は返答に窮した。
確かに仕事もせず自分の嫌なことからは全て逃げて暮らす毎日だ。
少なくとも千春の行動をとやかく言えるほど立派な人生を送ってはいない。
しかし、今はどういう生活を送っているか問題ではない。
千春のことを透がもっと知りたいと思っているから訊ねているのだ。
透と千春との隔たりは次第になくなりつつある。
二人の距離は、今や互いの背後にある風景まではっきりと見分けられる近さになっている。
霞んでいたものがくっきりと姿かたちを現し、何かを隠そうとするには意識的な繕いや嘘が必要となるほど、二人の関係は親密なものに変わってきていた。
「とにかく、今から親に電話しろよ。元気にやってるってことだけ伝えてくれればいいんだ。あとは親の了解があってもなくても今までどおりここに居てくれていいからさ」
やはり家族には少なくとも生きていることだけは伝えておくべきだろう。
透も和馬とはここのところよく会っているし、一年に一度ぐらいは父親とも当たり障りのない程度ではあるが電話で話している。
好きでも嫌いでもそれが家族というものだ。
「……いないのよ」
「いない?」
「そう、いないの。死んじゃったのよ。両親とも十五年前に」
「同時に?」
「交通事故よ。対向車線を走ってたトラックが何かの拍子にセンターラインをはみ出してぶつかってきたの」
千春は目を伏せたまま事故の様子を語った。
トラックに衝突されて、千春の乗っていた車はおもちゃのようにくるくると回転しガードレールに激突した。
そこへ後ろから走行してきた乗用車が避けきれずに追突。
乗っていた車は元の姿が分からないほどに形を変えてしまっていた。
奇跡的に千春が座っていた助手席だけは何事もなく、結果千春だけが生き残ることができたと言う。
二人の間に重苦しい空気が流れる。
「俺に似てるって言う千春の本当のお兄さんは?」
訊かなくても千春の表情から何となく答えは分かっていた。
しかし訊かずにはいられなかった。
「そのとき一緒に……。だから私は天涯孤独の身なの。電話をする家族がいないのよ」
ごめん、という言葉も軽々しくて口に出せなかった。
透はただ黙って千春の手を握り締めるだけだった。
透は二十年前のあの日のことを思い出していた。
あの火事のとき父親と和馬は軽トラックで注文先に配送中だった。
二人が急遽家に駆けつけたときには透は病院に搬送された後だった。
消火活動も空しく燃え崩れていく我が家を前に父親は何を思ったのだろう。
消防隊員から母親が逃げ遅れたことを聞かされて和馬は何を考えたのだろう。
透の脳裏に浮かんだのは今まで幾度となく考え、一度も口に出したことのないそんな疑問だった。
透と千春はドアノブを掴んだまま動かなかった。
「俺ってそんなに本当のお兄さんに似てるのか」
「……うん。うまくいえないけど雰囲気がね。何考えてるか分からないところとか、それでいて優しいところとか」
ベッドの上でまた携帯電話がブーンと振動している。
重苦しく張り詰めた雰囲気に針が刺さったように千春がぷっと吹きだして笑う。
「きっとかずちゃんからよ」
涙を湛えた千春の瞳が冬空の星屑のようにキラキラと光っている。
透は濡れた彼女の頬を優しく拭うと、千春の手を引いてベッドに戻った。
テレビはまだ先ほどの失踪者捜索番組をやっている。一目で漁師と分かるよく日に焼けた丸坊主の中年男性と、その妻と思われる丸々と太った化粧気のない女性が神妙な面持ちで瞑想に耽っている霊能力者の言葉を待っていた。
透は「河本さゆりさんを捜索中」というテロップを横目で確認しながら電話に出た。
電話の向こうから和馬の声と共に、透が見ている番組と同じ音声が聞こえてくる。
和馬は車を運転しながら番組の続きを見ているようだ。
「河本さゆりの親は漁師なんだってな」
「そうなの?」
「わりい、わりい。千春ちゃんは河本さゆりとは別人だ。カズオとヒサエからあんなエキゾチックな子は生まれねぇ」
「そりゃそうだ」
「ま、今日のことは忘れろや。やっぱよく考えたらさ、お前を騙してもいい事なんて何もねぇもんな。それに千春ちゃんなら可愛いから泥棒でも失踪者でもなんでもいいじゃん。あんないい子他にいねぇから大事にしろよ」
「勝手なことばっか言うな!」
強めの口調で言い返してはみたが、和馬の言い草には透は呆れて頬を緩めるしかなかった。和馬の言うことに耳を傾けた自分の愚かさに笑ってしまう。
「勝手でも何でも千春ちゃんを泣かしたら俺が許さねぇぞ。速攻九十万払ってもらうからな」
電話を切るとこたつの上にはチャーハンが二皿並んでいた。台所からビールを二缶持って現れた千春はこたつに座ると平然とした顔でプルタブを開けた。
細く白い首を露わにして美味しそうに咽喉を鳴らす千春は新鮮だった。
やけにその姿が様になっていて、透は呆然と眺めていた。
ひょっとすると千春は鬼も逃げ出す酒豪なのかもしれない。
「かずちゃん何て?」
「ああ。千春を泣かしたら九十万円払えってさ」
「ふーん。じゃあ、早速払わなきゃね」
千春はそう言っていたずらっぽく微笑みながら「もう要らない」とビール缶を透に差し出した。
目の周りをほんのり朱に染めて、実は下戸だと白状する千春の愛らしさが透の胸を甘く緩く締め付けた。