8
窓の外で何羽もの雀が競い合うようにさえずっている。
久しぶりに風がおさまった今朝は太陽が優しく照っていて、まさに小春日和だ。
相変わらず部屋のカーテンは締め切っているが、隙間から漏れ入ってくる陽光に穏やかな街並みの様子が伝わってくる。
「ピンクノリボンだなんて可愛い名前。これが勝つよ」
半ば夢を見ているような状態でぼんやりとテレビの競馬中継を眺めていた透は千春の声に驚いて、胸に掛けていた毛布を剥ぎ取り座椅子から背を浮かせた。
「起きてたのか。熱は?」
「熱?何のこと?」
千春は強引にとぼけて見せると、勢い良く布団をはねのけて透と並んで毛布に滑り込んできた。「そんなことより、この子かわいいじゃん。鬣にピンクのリボンがついてる」
寒空の下、クリニックの前で透を待っていた千春は案の定夜になって熱を出し、晩ごはんも食べずに早々に床についた。
その昨日の発熱を強引になかったことにしようとしているのは、照れ隠しなのだろうか。
確かに体調を崩した原因は格好の良いものではなかったし、寝込んでいるのは活発さや元気さを売りにしているはずの千春のキャラではないのかもしれない。
透に寄り添う千春の顔色は微塵も体調の悪さを感じさせず、触れる肩や腕からも熱っぽさは伝わってこない。
透は胸に痞えていたものが消えていくのを感じた。
「ねぇねぇ、この馬勝つよ、きっと」
「いや、負ける」
透は反射的に断言していた。
来ないとは言い切れないが、明らかに何の根拠もなさそうな千春の予想には反対したくなる。
競馬はそんなに簡単なものではない。
「どうしてよ」
千春は口を尖らせて見せる。「可愛い名前じゃん」
やはり素人の理由などこの程度のものだ。
そこには馬そのものの要素は何も計算されていない。
透は冷ややかな視線を千春に送った。
「名前が走るんじゃない。走るのは馬」
「ふーん。でもこの馬、一番人気ってことでしょ?みんな来ると思ってるんじゃないの?」
テレビに表示されているオッズによれば、団子状態ではあるが千春が言うとおり一番人気には違いなかった。
「一番人気だからって勝つとは限らない」
人気というものに透は何度も泣かされてきた。
単勝が二倍を切る、俗に言う鉄板の馬でさえも平気で他馬の後塵を拝して透を裏切るのだ。
「でも勝つ可能性が高いから人気になるんでしょ?」
千春も退かなかった。
初めて競馬を見るという顔つきをしているのに、妙なところで頑固さが顔を出す。
透は千春の意外な攻勢に窮してこたつの上の携帯電話に手を伸ばした。
面倒臭そうな顔をして見せながらも、内心焦りながらインターネットで競馬の情報を検索し、ピンクノリボンのデータを拾う。
そして思わず低く唸り声を上げた。
前走は未勝利戦を七馬身差で圧勝しており、しかもタイムも優秀で、今回は五百万下クラスに格上げだが、すんなり勝つ可能性はかなり高いと評判だった。
しかも現在の競馬会で最も注目を集めている種牡馬を父親に持っており、血統的にも実力が裏打ちされている。
この人気もおかしくはない。
横目で千春を見るとデータの読み方も知らないくせに、難しい顔をして透が開いている画面に目を落としている。
予想屋顔負けの鋭い眼光に透は気後れしそうになる。
しかしここで病み上がりの「ど」が付く素人に言い負かされていては立つ瀬がない。
透はじっとテレビに映る馬の様子に目を凝らした。
「見てみろ」
透はテレビを指差した。
そこにはピンクノリボンがパドックを歩く姿がある。
「腹回りが他の馬と比べてぼてっとしてるだろ。肉のつきやすい冬場に馬体が増えるのは、ある程度仕方ない。だけど、プラス十六は明らかに増えすぎだ。これはきっと前走で走り過ぎた反動が出て、トレーニングを控え目にしなくちゃならなかったからだろうな。調教タイムも平凡だ。それに何よりパドックを回るのが遅い。前の馬とどんどん差ができて、後ろの馬の顔が尻にぶつかりそうだ。これは元気がない証拠。血統的にはこの馬はもっとちゃかついていていい。牝馬だからなおさらだ。ってことでつまり今日のこいつは体調が悪い。どことなく毛づやも冴えないしな。それに過去のレースは三戦とも出負けしてる。今回はスプリント戦だからスタートの悪い馬には分が悪い」
持っている知識を総動員しての難癖だが、口に出してみれば案外的を射ているような気がしてくる。
気付けば千春は眼を真ん丸にしてぽかんと口を開けていた。
その顔は、透がこんなに喋ることがあるのかと驚いているようだった。
透は我ながら口数が多かったと思いつつも「なんだよ」と凄んで見せた。
千春は慌てたように目を逸らし、テレビに視線を戻した。
「ちゃかつく?けっとう?けづや?」
千春は諦めたように首を横に振った。「全部同じに見えちゃうよ。お兄ちゃんは何が勝つと思うの?」
千春はテレビを指差して透をせっつく。
「そうだなぁ」
さあ困った、と思いながら透は腕組みした。
携帯電話を片手で操りながら、次々とテレビに映し出される馬を食い入るように睨みつけた。
当たり前だが出走馬のうち一頭以外は全部負ける。
従って、けちをつけるのは簡単なのだ。
しかし、一頭だけ他馬に勝る馬を言い当てるのはそうはいかない。
透も馬についての知識は素人の域を超えないし、テレビの解説者や新聞記者でさえ勝ち馬を当てるのは難しい。
レースには馬の体調以外にもジョッキーの腕、馬場の状態、出走馬の数、展開のあやなどたくさんの要素がある。
従ってパドックの様子を見ただけでぱっと当たり馬券を予想することは誰にもできないのだ。
しかし、ここで予想を放棄することはできなかった。
千春の一押しをすげなく切り捨てた以上後には退けない。
そして出走まで残された時間はわずかだった。
「こいつだな」
透が指名したのは五番人気の馬だった。
「マツリバヤシ?えー、ほんとにこんな名前のが勝つの?」
「だから」
「はいはい、そうでした。名前じゃなくて馬が走るんだもんね。でもこの馬のどこがいいわけ?」
「馬体重を見ろよ。他の馬は全部プラス体重なのに、こいつだけが二キロ減ってる。さっきも言ったけど、冬場は体重が落ちにくい。それでもこいつは体重を減らしてきた。体調が悪いわけじゃないのは調教の本数の多さから分かる。つまりびっちりしごかれてきたってことだ。それにパドックの外側外側を歩いていて動きも落ち着いてる。二人引きで気合も十分だ。前走が一番人気だったのに連を外したから、今日は人気を落としてるみたいだけど、前走はちょっと距離が長かった可能性があるな。成績を見るとどちらかと言えば短距離向きだから、前回よりも二ハロン短くなる今回の方が勝機がある。このクラスでは三走目で慣れてきただろうし、ここが狙いどころだ」
ふーん、と千春は嬉しそうに頷く。
透の言ったことがどれだけ理解できたかは定かではないが、何やら満足そうな表情を浮かべている。
それを見て透は、また喋り過ぎたと口を噤んだ。
どうも今日は千春の口車に乗せられて、べらべら喋らされてしまう。
テレビ画面では本馬場入場の様子を放送していた。
まるで春を思わせるようなうららかな陽光を浴びて、出走を控えた競走馬達が次々とターフに走り出てくる。
青々とした芝の上をうっすらと汗を帯びた鹿毛や栗毛の身体を光らせて何頭もの馬が伸びやかなフォームで過ぎていく。
ターフ隅の溜まり場へ踊るように駆けて行く人馬を見ていると透の胸にも何か弾むような気持ちが兆してくるようだった。
風のない穏やかな日曜日。
まだ二レース目だというのにスタンドに大勢のファンが詰め掛けている様子がテレビに映される。
馬券売り場のある建物とスタンドとの出入り口の混雑ぶりは、春先の蜂の巣周辺の様子に似ていた。
誰もが働き蜂の羽のように新聞を振り振りせわしなく動き回ってレースを待っている。
隣に座っていた千春が透の肩に頭をもたらせる。
「お兄ちゃん、寝てないんでしょ?」
ゴメンね迷惑かけて、と透の右腕に額を押し付けてきた。
透が寝るときは睡眠薬を服用するのが常で、その効き目が切れるまで少なくとも六時間は目を覚ますことはない。
さらに一度目が覚めても頭の中も目の周りも重い幕が張り巡らされたようなぼんやりとした状態が続き、完全に身体が自分の意思どおりに動くようになるまでには、さらに数十分を要するのだった。
今までの生活で千春はそのことを知っている。
その知識から逆算すれば透は一睡もしていないという結論に至るだろう。
透は空いている左手で千春の頭を軽く撫でた。
「病人が他人の心配するな」
透が半分冗談でそう言うと、千春は困ったような顔で微笑み「ごめんなさい」とさらに謝って、透の肩に額を擦り付けてきた。
千春の予想に違い、昨晩透は眠っていた。
しかも透自身信じられないことだが、アルコールも睡眠導入剤などの薬も飲んでもいないのに、いつの間にか眠りに落ちていたのだ。
二時ぐらいに千春の額に濡らしたタオルを置いていた記憶はあるのだが、次に気がついたときには座椅子に深くもたれ胸の辺りまで毛布を被っていた。
凝り固まった首をさすりつつ時計に目をやると午前五時だった。
意識の欠落は三時間ほどだったろう。
たった三時間のことでも、透にとっては快挙だった。
睡眠薬による強制終了的な意識のシャットダウンではない。
ここ何ヶ月と経験したことのない自然発生的な眠りへの移行は、透に目覚めの爽やかさと本来的な睡眠による体力の回復を実感させた。
部屋の中も外も海の底のようにしんと静まり返った真冬の夜明け前という最も闇の濃い時間帯に、透は一人で自分の身体の回復方向への変化の兆しに胸を高鳴らせていたのだ。
実況のアナウンサーがスタートが間近に迫っていることを知らせた。
ゲート前で輪乗りしている人馬を見ていると、まだ若駒ながらどの馬もそれなりの風格を漂わせていて、甲乙つけがたく見える。
各馬がそれぞれ鼻先から荒々しく白い息を吐き出している様子に、テレビを通しても辺りに漲る気合と緊張感が伝わってくるようだった。
「何だか手に汗握るね」
ぎゅっと硬く握り締めた千春の手には馬券が見えるようだった。
金を賭けたわけではないのだから何が勝っても構わない。
そう思いつつもどうにもマツリバヤシとピンクノリボンを目で追ってしまう。
中継を見ているとピンクノリボンは大外で枠も桃色だということに気付いた。
何となくこの馬に験の良さを感じてしまう。
アナウンサーがピンクノリボンの名前を呼ぶ度に千春は目を輝かせて頷いた。
自分が入れ込んでいる馬が負けるはずがないと信じているようだ。
スターターが緑色の台上で真紅の旗を振る。
ファンファーレが鳴り響き整然とゲートに人馬が収まっていく。
祈るように胸の前で手を合わせ、食い入るように画面を見つめる千春の脇で、透もいつしか瞬きを忘れ固唾を飲んでスタートを待っていた。
ゲートが開いた瞬間、地響きと共に各馬が駆け出していく。
揃ったスタートに見えたが一頭だけダッシュのつかない馬がいる。
アナウンサーが驚きを交えてピンクノリボンの出遅れを指摘すると、千春が声にならない嘆息を漏らした。
それ見たことかという顔を向けると、千春は腹立たしげに透の顔を見上げ、すぐに画面に視線を戻した。
二頭の馬が競い合うようにして先頭に立ち、その後に規則正しく他の出走馬が列を成す。
マツリバヤシは特に入れ込む様子も見せず、淡々と馬群の中団あたりを走っていた。
先頭が前半の六百メートルを過ぎ、アナウンサーが「少し速めのペース」だと指摘する頃に、ピンクノリボンが猛然と最後尾から捲り上げてマツリバヤシを追い抜いて行った。
その様子に千春がピンクノリボンの勝利を確信したように邪気のない頬を輝かせるが、少し競馬を知っている人間なら、これは人気馬の形だけの見せ場作りだと判断する。
ピンクノリボンは馬群の外を回らされて無駄な足を使ってしまっているのだ。
そのことに気付かず「来たよ!来た来た!」と目を見開き手を叩く千春を、透は胸の中で哀れみつつマツリバヤシの姿を画面の中に探した。
しかしマツリバヤシがいるであろうあたりは馬が密集していて何が何だかよく分からない。
それを尻目にピンクノリボンは馬群の外側で快調にコーナーを回り、やがて先頭に並びかけてきた。
千春は取り付かれたように立ち上がり、透は悪い夢を見ているような感じでテレビからの歓声を遠くに聞いていた。
各馬が一気に最後の直線になだれ込む。
一旦先頭に立ちそのまま突き抜けるかに見えたピンクノリボンはゴール前の坂で急に失速し、千春の失望の声と共に再び馬群に飲み込まれていった。
そのピンクノリボンと交代するように画面に一気にフレームインしてきたのはマツリバヤシだった。
一頭だけ脚の回転の速さが全く違う。
坂でもたつく他馬を尻目に、馬場の中央をどんどん加速していく。
その次元の違うスピードにスタンドの観衆が一様に低い声でどよめいた。
透は思わず拳を強く握りテレビの映像を見つめた。
マツリバヤシはあっという間に先頭に立つと、そのまま五馬身差をつけてゴールした。
最後は手綱を緩めての圧勝にアナウンサーまでもが一瞬声を失っていた。
気持ち良さそうにキャンターで向こう正面を流す勝馬の黒鹿毛の身体は汗に覆われて朝の陽光に照り輝いている。
テレビにアップで映し出された鬣やゼッケンの辺りからは、微かに白く湯気が立ち上がっている。
透の身体中の血が熱く音を立ててたぎった。
しかしそれはすぐに冷え、胸は一瞬にして灰色に塗り変えられていった。
買えば外れ、買わなければ当たる。よく考えればいつものことだった。
「すごいっ」
千春はぽつりと小さく呟いたかと思うと急に透の方を向いて「すごいすごい!」と連呼し出した。
「すごい」の対象が透の予想なのか、マツリバヤシの勝ちっぷりなのか分からないが、痛いぐらいに透の腕を掴んで揺する。
「分かった分かった」となだめようとするのだが、千春は興奮冷めやらぬようで、まるで万馬券を的中させたように真ん丸く目を開いて頬を紅潮させている。
「お兄ちゃんって競馬場行ったことある?」
「あるよ」
透が答えるや否や千春はさらに目を爛々と輝かせて透に迫ってくる。
「私、一度でいいから行ってみたかったの。連れてって」
「あ、うん。別にいいけど……」
「じゃあ、今日!今から!」
「え?今日?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
今日は昨日の寒さが嘘のような風のない穏やかな天候だ。
久しぶりに広い競馬場で腹の底から歓声をあげてみるのも良いかもしれない。
数日前まで声を出すのも億劫だったのが、こんな風に思えるのはやはり心の健康が回復してきている証拠だろう。
今自分は変わりつつある。
変わっていく自分を少々持て余し戸惑っている。
少し上向いたぐらいで調子に乗るとすぐに足元をすくわれて、今まで以上に体調を崩すことも考えられる。
大事な時期に差しかかっているという医師の言葉を思い出す。
ここは慎重であるべきかもしれないが。
「ダメじゃないなら決まりね。さぁ、立って立って」
千春は透を「早く、早く」と急き立てる。
「ちょ、ちょっと待って」
「待てない。今から行くの。ね、早く。早く行こうよぉ」
「分かった。分かったよ」
透は渋々立ち上がった。「そんなに急がなくても午後のレースには間に合う」と言っても千春は全く取り合わない。
昨晩は熱を出して寝込んでいたとは思えないぐらいのはしゃぎぶりだった。
千春の方こそ急に動き回ってはぶり返すのではないかと思ったが、今さらそんなことは口に出すことはできないぐらいの意気込みだ。
着替えが済むと透は千春に引きずられるようにして玄関から外へ出た。
思っていた通り日差しは暖かかった。
太陽の位置は高くなく、夏のそれと比べるとやはり小さく遠くに感じるが、それでも懸命に熱の光を送ってくる。
ここ数日のっぺりと天界を支配していた雪雲も今日は全く見当たらない。
「デートだ、デートだ」
千春はいつも以上にはしゃいでいるように見えた。
千春は透の腕に絡まりつくようにしてマンションの階段を降りていく。
千春が足を踏み外し、バランスを崩して透にすがりつく。
慌てて透が手すりに掴まり、千春を抱きかかえるようにして支え何とか事なきを得る。
透は怒りを込めて千春を睨みつけたが全く効き目がない。
懲りずに千春は透の腕を取って弾むように歩き出し、相手をする透は苦笑するしかなかった。
昨日の体調の悪さは透の見た夢だったのかと思わせるほどの陽気さだった。
その千春の底抜けの明るさも昨日までなら多少鬱陶しく思っていただろうが、今朝はそういったマイナスの感情が透に芽生えてこない。
たった三時間とは言え薬の力に頼らない自然な睡眠を得ることができた気分の爽快さが透のメンタル面に大きく影響しているようだった。
いつもは視界や思考に常にぼんやりとした靄が張ったような状態なのだが、今日は頭上の空模様のようにどこまでも澄み渡った晴れがましい気分なのだ。
「ねぇ。今日は勝ちそう?」
「ああ。そんな気がする」
透はほんの少しだが頬を緩めた。
千春は透の顔に流れ星でも見つけたかのようにはっと目を見開き急に「やった!やった!」と飛び跳ねた。
「お兄ちゃんが、笑った!」
「おいおい。ちょっと、恥ずかしいから……」
やめろよ、と千春を止めようとした透は千春の向こうに見える交差点を横切っていった人影に瞠目した。
今、道路を渡って行ったのは教頭の景山ではなかっただろうか。
その疑問は透の動きを完全に制止した。
顔の筋肉が硬直し血の気が引くのが分かる。
胸が押し潰されるような暴力的な圧迫感があった。
急に呼吸の仕方を忘れてしまったように酸素を取り込むことがままならず、あまりの息苦しさに意識が遠のきそうになる。
乱舞していた千春が透の様子に気づき怪訝な表情になる。
しかし、それが分かっていても透は取り繕うことが一切できなかった。立っていられず、その場にうずくまる。
目を閉じとにかく深く息を吸いこむことに集中する。
どこかへ逃げたい。
逃げて逃げて、どこか静かで暖かい場所でひっそりと自分を抱いて時間が過ぎるのを待ちたい。
そういう気持ちだった。
恐らくあれは景山教頭で間違いない。
一年半近く顔を合わせてはいないが、威厳ある上司の姿はしっかり心に刻みこまれていたようだ。
彼は紙を手にしながらどこかを探すような足取りで歩いていた。
どこかとは……。
不意に昨日の公衆電話からの入電を思い出す。
もしかするとあれは景山教頭からだったのかもしれない。
今まで景山教頭が学校の電話から掛けてきたことは度々あったが、最近はそれに出ないようにしていたので公衆電話から掛けてきたということはあり得る。
大方学校の入り口の横に設置されている電話からだろう。
それでも透が出なかったものだから、今日は直接出向いてきたということか。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
千春が心配そうな表情で透の顔を覗き込む。「顔色悪いよ。もしかして私の風邪がうつっちゃったかな」
「いや、そんなことはない」
透は口早にそう言うと、立ち上がり再び歩き出した。
とにかく自宅のマンションからは離れたかった。
あと数分で景山教頭は透の部屋を見つけ、チャイムを鳴らすだろう。
そう思うと何かに追われるように透は足を速めた。
景山教頭には申し訳ないが、今日はとても顔を合わせる気にはなれない。
それは急なことで自分に構えができていなかったからか。
それともまだ心が仕事のことに向き合えるほど回復していないからか。
自分でもよく分からないが、透の心と身体は逃避を選択していた。
「お兄ちゃん、ちょっと待ってよ」
千春が透に並びかけてきてまた心配そうに透の顔を見上げる。
そして透の前に回りこむと両腕を掴んで透の前進を押し留め、決然と言い放った。
「お兄ちゃん、駄目。帰ろ」
「急に何言い出すんだよ。千春が競馬場に行こうって言いだしたんだろ」
「そうだけど、今日はもう駄目。とにかく駄目」
そう言って千春は急に自分の額に手を当てた。「あ、駄目だ。頭が痛い。何だか目まいもする。ちょっと調子に乗りすぎた。部屋に帰って横になりたい」
明らかに仮病で取り合う気になれない。
しかし、透ももう競馬場に行って賭けごとに興じる気分ではなくなっていた。
「じゃあ、ちょっとあそこで温かいものでも飲んで一休みしよう」
透は少し先にあるなじみの喫茶店を指差した。
そこは洋風の一軒家にも見える外見で、店の真ん前まで来ても看板を目にしないと喫茶店であることは分かりづらい。
うなぎの寝床のような細長く奥行きのある造りに透は妙に居心地の良さを感じるのだった。
店内の壁、カウンター、テーブル、椅子など目に入るもののほとんどが木材でできていて、雰囲気に温かみがあり、窓が少なく橙色の灯りで統一されている頼りない明るさなども好ましい。
その店の一番奥の四角いテーブルを透は特等席としていた。
そこに小さく座ると洞穴の中の熊になったような気分になれて落ち着けるのだ。
いつ行っても空いていて静かなところも透にとってはプラスだった。
客が少なすぎて潰れてしまうのではないかということだけが、この店に対する懸念材料だ。
店の前まで来て扉のガラス越しに中を見遣る。
いるのはマスターとカウンターに白髪の男性客。
その二人以外に人影はない。
相変わらず閑古鳥が鳴いている。
「感じのいいお店ね」
千春は店の外見だけで既に気に入った様子だった。
店の看板を目にして小首を傾げながる。
「アドゥマン?このお店の名前、何て意味だろ?」