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 クリニックの自動ドアが開くと、中から鳥のさえずりや川のせせらぎが聞こえてきた。

 柔らかく降り注ぐ春の陽光に川の清流や木々の緑が鮮やかにきらめき、吹き抜ける風が多様な鳥の鳴き声を花の香りとともに運んでくる。

 そんな春真っ只中の爽やかな風景をイメージさせるようなBGMは、少しでも患者をリラックスさせようということで流しているのだろうが、透にはどうにもまぶしいようで落ち着かなかった。

 今日は真冬の寒い道を歩いてきたからか特に違和感が強くて溶け込めない。


 ふと振り返ると千春はドアの外に立ち尽くしていた。

 ドアガラスを通して見る千春の顔は、ちらちらと小雪が舞う空模様のせいか、どこか青ざめて見えた。

 普段は見せない険しい眼差しは、透にではなく院内に向けられているようだった。


「どうした?」


 ドアの外に出て声を掛けても千春は応答しない。

 顔を強張らせているのは寒さのためだけではないのだろうか。

 透は千春の真正面に視界を遮るようにして立った。


 すると千春は怯えたように激しく首を左右に振った。


「何でもない。やっぱ、私、外で待ってる」


「外で待ってるって言ったって……」


 透は反射的に空を見上げた。

 頭上を覆う雲は次第に厚みを増し、北からの冷たい風に運ばれてくる雪はこれからどんどん勢いを増しそうだった。

 こうして吹きさらしの中で突っ立っていると、足の指や手の先がじわじわと痛くなってくるほどの厳しい寒さだ。


「ほら、お兄ちゃん言ったじゃない。元気な私が病院にいるのは治療に来ている患者さんに失礼だって。ここから中を覗いてみてお兄ちゃんの言ったとおりだなって思えたの。だから外で待ってる。ほら、あの喫茶店。あそこでお茶してるから」


 確かに、人一倍陽気な千春は心療内科のクリニックにはそぐわないとは思っていた。

 心のバランスを失い体調まで崩してしまった患者は、彼女に元気さを見せ付けられているようで顔を伏せたいような気持ちになるだろう。

 ドアガラス越しではあるが、その理屈を千春は肌で感じたのかもしれない。

 しかし、透の静止に全く耳を貸さずに強引にここまでついて来たのに、と思うと千春の突然の方向転換には小首を傾げてしまう。

 このドアの向こうに何が見えたのか。

 今、千春の顔に浮かぶ悲壮感はこのクリニックの待合室に座っている人たちと遜色ないぐらいだ。

 ただ、その追い詰められた鼠のような相貌にも、いつもどおりの一度言い出したら聞かない強情さは健在だった。


「分かった。終わったらすぐ行くから」


 努めて優しい声で了解すると、千春は漸く眉宇に漂う力を抜いてこくんと頷いた。

 相変わらず顔色は冴えないが、冴えないからこそ病人たちと同じ空気を吸うよりも、暖かい喫茶店で紅茶でも飲んでいる方が健全な気もする。

 ドアの外で弱々しい笑顔を浮かべて手を振る千春に背を向けて、透は受付に向かった。


 待合室は混雑していた。

 壁に沿って並べられたソファには何とか一人分のスペースだけが空いている。

 部屋の中央に設置されている二脚の背もたれのない長椅子は全て埋まっていた。

 この込み具合はいつもの光景だった。

 他の医院のことを知らないので比較はできないが、このクリニックが特別狭い感じはしない。

 医師が抜きんでて優秀だという評判を聞いたこともない。

 要は心を病んでいる人間がこの国には驚くほど多いということなのだ。


「掛けてお待ちください」


 診察券を窓口に出すと受付の女性はこちらを一瞥しただけで何か書き物をしながら機械仕掛けのように台詞を喋った。

 硬貨を入れてボタンを押せばジュースが出てくる自動販売機のようなものだ。

 味も素っ気もない応対だが、執拗に調子を訊ねられるよりは気楽で良い。


 透は一人分空いているソファに向かって歩を進めた。

 空席の隣に座っている上品そうな白髪の老婆に軽く会釈を済ませて腰を下ろす。


 老婆は透の姿を認めると、軽く腰を浮かしにっこりと微笑みを浮かべて丁寧に頭を下げ、ソファの軋み一つ怖れるようにゆっくりと座った。

 その柔和な表情には微塵も暗さを感じないが、彼女も食を細らせ眠りを妨げる「ストレス」という名の怖ろしい病原体に身体を冒されているのだ。

 ソファに座っても背凭れに背を付けない彼女の生真面目な性格が残忍な病魔の温床になってしまっていることが素人目にもすぐ分かる。

 几帳面さ、真面目さという性向はこの種の病気に罹患する人に共通して言える特性だ。


 待合室に人は多いが診察の回転が遅いわけではない。

 次から次へと奥の部屋に呼ばれ、ソファに空席ができる頃にはまた新たな患者が受付に顔を見せる。


 やがて隣の老婆の番になると、彼女はただ隣の席に座っただけの透に目礼して、周囲を窺う小動物のようにびくびくと立ち上がった。

 順番が来たから名前を呼ばれたのだが、彼女は何か特別な配慮を受けて割り込みをしたかのように申し訳なさそうに肩をすぼめて診察室に向かう。

 彼女は幼い頃からずっとこんな風に周囲に気を遣って神経をすり減らして生きてきたのだろう。

 さぞかし息の詰まる人生だろうと思っても透も他の誰も彼女を笑うことはできない。

 ここにいるのは誰もが似たり寄ったりの窮屈な道のりを歩んできたのだから。


 しばらくすると透が着ているダウンジャケットのポケットの中で携帯電話が震え出した。

 誰からだろうか。

 透の携帯電話の番号を知っている人間は限られている。

 マナーモードにしておいたのだが、ブーンという低い振動音が静かな待合室にやけにクリアに響く。

 透は舌打ちするような気分で電話を取り出した。

 どうせ和馬だろうと高を括っていたのだが表示は「公衆電話」となっていた。

 携帯電話を持っていない千春からだろうか。

 そうでなければ単なる間違い電話だろうか。

 「公衆電話」の文字が「匿名希望」に見えて、何となく不気味な感じがする。


 受付で透の名前が呼ばれ診察室へ促される。

 透は追われるような気持ちで慌てて携帯電話の電源を切った。


 診察室に入ると、いつもどおりくすんだ白衣を纏った初老の医師が机に向かってカルテを覗き込んでいた。

 医師はチラッと透の足元に目をやっただけで、自分の横にある背もたれのない丸椅子を左手で指示し、またカルテに視線を落とした。


 心療内科のルールなのかもしれないが、どうもここの医院の人間は患者と目を合わそうとしない。

 決して嫌ではないのだが、心理的に一線を感じてしまうのも確かだ。


 勧められるままにその椅子に腰を下ろし正面に初老の男性のしみの浮いた青白い横顔を見た。


 医師は少し顔をこちらに向け、眼鏡の奥からちらりと盗み見るように透の顔を確認して、再び卓上に目を戻した。

 白衣の胸ポケットからボールペンを取り出し書く体勢に入る。


「今回もおよそ一ヶ月ぶりかな。薬は……」


 医師はボールペンの先でカルテをコツコツ叩いた。「これで五ヶ月間同じやつだね。どう?」


 これも心療内科のルールなのかもしれないが、問診は常に軽いトーンで行われる。

 気軽な雰囲気で負担が少ないと言う患者もいるかもしれないが、時に医師が真面目に診察してくれているのか分からなくなる。

 このクリニックに通い始めて一年を過ぎたが、透は未だにこの医師の間合いの取り方になじめないでいる。


「……どう、って?」


「食欲は?」


「ないことはない、というぐらいです」


「疲労感や不安感はない?」


「ありますけど、一時期に比べればましです」


「眠れてる?」


「まあ、薬を飲めば」


「ぐっすり?」


「そうですね。次の日もなかなか起きられません」


「飲まない日はある?」


「ないです。寝付けないのが怖いので」


 医師は卓球のラリーのようにぽんぽんと質問を繰り出してくる。

 まるでそのリズムを崩すと患者が何も喋らなくなると思っているかのように常に一定だ。

 患者の数をこなすために時間に追われているのかもしれない。


「寝付けないのが怖いと。なるほどね。起きたときはどんな感じ?」


「頭の芯が痺れてて、やっぱ、ぼーっとしますね」


 ぼーっとすると。

 医師は透が答えたことを繰り返しながらカルテに何か書き込んでいる。

 首を伸ばして覗き込むが、ミミズが這ったような字で、何のことやらさっぱり分からない。


「夢は見る?」


 再び質問が始まり、透は慌てて亀のように首をすぼめる。


「たまに」


「同じ夢?」


 透の目に暴れ狂う赤々とした炎の群れが浮かぶ。

 鼻の奥を焦がすような刺激臭。

 熱風が吹きつけケロイド化した皮膚がぶくぶくと音を立てて溶けていく。


 透はギュッと強く目を閉じた。

 しかし一度脳裏に出現したイメージを拭い去ることはなかなかできない。


「そうですね」


「ってことは、実家が火事に遭ったときのことだね?」


 医師の軽い口調の質問が透の胸に切り裂いたような痛みをもたらす。

 不意に鋭利な刃物で刺されたようなものだった。

 赤く血塗られた刃物の柄が左胸に見えるようだ。

 こんな踏み込んだ質問を受けたのは初診以来だった。


「……そうです」


 透は目を閉じたまま力なく頷いた。

 瞬時に全身に回った虚脱感はこのまま床に寝転んでしまいたいほどだった。


 医師はテンポを変えず、矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。


「今でも自分がお母さんを殺したと思ってる?」


 炎の向こうに母の顔が見え隠れする。

 何かを叫んでいるが炎が燃え広がっていく音に掻き消されて全く聞こえない。

 助けを求めているようでいて透を早くこの場から立ち去らせたいような、どちらにしてもまさに命がけの目だ。

 そして透はどちらもできなかった。

 母を助けようにも、逃げ出そうにも身体が竦んで言うことを聞かない。

 あのとき腰を抜かして座り込んだ尻の辺りに濡れた感触が広がったのを透は鮮明に覚えていた。

 失禁したのだった。

 それを情けないと感じることもないぐらいに、あのとき透は怯えていた。


 透が答えられないでいると、痺れを切らしたように医師は言葉を変えて同じ質問を切り出してきた。


「自分のせいでお母さんが死んだという考え方は変わらない?」


「……はい」


 透は身をよじり搾り出すようにして答えた。

 心臓が強く激しく脈打っている。

 自律神経失調症の典型的な症状だ。

 交感神経が突発的に緊張を強いられ、全身の筋肉が硬直し空気がうまく肺に入ってくれない。


「不可抗力だとは思えない?」


「フカコウリョク?」


「つまり、あなたの力ではどうしようもなかった。慰めとか同情とかじゃなくてさ、今まで語ってくれたあなたの話を私なりに解釈した結果思ったことだけど、身体が弱かったお母さんが料理中に貧血で倒れたのも、倒れた拍子にサラダ油が零れて引火したのも、火が家全体に広がって、逃げ遅れたお母さんがあなたの目の前で炎に飲まれていったのも、小学生だったあなたが幾ら頑張っても、どうにもならなかったんじゃ……」


「でも、人を、助けを呼ぶことはできたはずです」


 透は医師の言葉を遮るようにして声を張った。

 家の外へ駆け出して大人を呼べば、結果は違っていたのではないか。

 実際、透が今生きてここにいられるのは、どこかの誰かが家から出ている煙を見て消防へ通報してくれたからだ。


「しかし、あなたも背中や脇腹にやけどを負っていた。燃え広がった炎に囲まれて身動きが取れなかったんでしょう?」


 十数年前の熱さと痛みの記憶がまざまざと蘇ってくる。

 暑くもないのに全身からうっすらと汗が噴く。

 透は思わず右手で左の、左手で右の脇腹を抱え込むようにしてさすった。

 そのあたりの皮膚の下から、じゅくじゅくと体液が滲んでくるようなイメージが脳裏を掠める。


 医師の言葉は正確ではない。

 火が家全体を覆うまでには時間はたっぷりあった。

 しかし巨大化した炎を目の前にして声も出ないほどの恐怖に怯え戦いているうちに火神の勘気にふれてしまったのだ。

 怯懦な自分に克っていれば、激しいやけどで身体をケロイドだらけにすることも、最愛の母を死に追いやることもなかったに違いない。


「自分を責めるのは簡単。でも責めたところで、何も解決しやしない」


「……はい」


 医師は眼鏡を軽く手で押さえた後、座っていた椅子を回転させて透に向かって正対した。

 今までにない真剣な表情で透を見つめてくる。


 この医院に通うようになって透は初めてこの医師と真正面に向かい合った。


 意外に大きくくりくりとした女性的な瞳をしている。

 対照的に太腿の上に置かれた手の指はごつごつと武骨な造りで、黒く長い毛に覆われていた。

 白衣もその下に覗いて見えるネルシャツも襟が汗染みで汚れている。


「今日あなたを見て感じたんだけど、今までで一番覇気のある顔をしてるよ。僕の目には明らかに違って見える。何か回復のきっかけを掴んだんじゃない?」


「さぁ、……どうでしょうか」


 口では曖昧に否定しつつも脳裏に千春の顔が浮かんだ。

 医師に指摘されて、自分は確かに回復しつつあるのかもしれないと透は思った。

 寝て、起きて、ぼーっとして、ゲームをして……。

 毎日やっていることは千春と出会う前から変わらないが、気付けばどことなく身体に軽さが戻り、力が漲っているような感覚がある。

 外出するのも以前ほど億劫ではなくなった。

 これが回復の兆しだとすれば、そのきっかけは彼女しかない。

 半強制的に始まった同棲生活で、未だに親しく言葉を交わすこともないし、さっさと出て行ってほしいという気持ちは変わらない。

 しかし、過ぎていく時間に張りのようなものが生まれているのを感じないと言ったら嘘になる。


「まだ自覚はない?」


「まあ、そうですね」


 確固とした自覚はないが、真っ向から否定することもできない。

 それは長い間本来の自分というものを見失っているため、回復度合いを計るものさしを持ち合わせていないからかもしれない。


「そうですか……」


 透の返事に失望したのか医師はまた向きを戻し、カルテに何やら書き加えた。「薬は前回と同じものを同じだけ出しておくね。実感があるのかないのか分からないけど、今、あなたは大事な時期に差しかかってるからお大事に。少しずつ調子が良くなってきたからって服薬を勝手にやめちゃだめだよ。すぐに逆戻りになっちゃうから」


 診察室を出ると妙な気分だった。

 ぼろ雑巾にでもなったような疲労感で身体全体が重くだるい。

 しかし睡眠薬の副作用のような、目眩にも似た頭の痺れや不快な胸のつかえはなかった。

 久しく味わっていないがバスケットの試合の後のような感覚に近い気がする。

 心地良いとまではとても言えないが。


 相変わらず目を合わさない受付の女性から代金と引き換えに薬の処方箋を受け取ると、透は外へと急いだ。

 冬の清冽な空気でぐったりとした身体に喝を入れ引き締めたかった。

 向かいの喫茶店で千春は待っているはずだ。

 何故かは分からないが千春の顔を早く見たいと思った。

 彼女は喫茶店で紅茶を手にしながら窓の外を眺めていて、透を見つけるといつも通りのにこやかさで手を振るだろう。

 その仕草にほっとする自分を透は予感していた。


 雪は小降りになっていたが、風が強まり、寒気は先ほどよりも増しているように感じた。

 自動ドアが開くのがもどかしく、身体を横にしてドアにぶつかりながら外へ飛び出す。

 しかし、駆け出そうとした透の目の端に一瞬奇異なものを目にしたように思った。

 勢い良く踏み出した足を踏ん張って視線を横に向ける。


 そこには千春がいた。

 寒さに凍えながら蹲っている。

 顔色は青白さを通り越して土気色と化していた。


「ど、どうした?」


「財布、家に忘れちゃって」


 千春ははにかんで笑おうとしたのだろうが、寒さのせいか表情の硬さはとれなかった。

 歪んだ唇の色が紫がかっている。

 喫茶店の前で持ち合わせがないことに気付き、そのまま引き返してきたのだと言う。

 それからずっとここで透を待ち続けていたのだろう。


「金なら俺が持ってるのに」


「そうだけど。やっぱりお金を持たずに入るのは何となく気がひけて」


 だからってこんな寒空の下で待っていることはないだろう。

 そう思ってふと、先ほどの公衆電話からの電話が頭をよぎった。


「さっき俺の携帯に電話したか?」


 千春は黙ったまま首を横に振った。


 嘘をついているようには見えなかった。


 千春の頬に一片の雪が降りかかる。

 くしゅん、と一つ千春がくしゃみをする。

 鼻を啜る千春の額に手を当てると、何となく熱いような気がした。


「風邪ひいたんじゃないのか?馬鹿だな」


 透が出てくるまで一時間はあった。

 子供じゃないのだから何か他に待ちようを思いついても良いものだ。

 病人を待っていて自分が体調を崩していては笑い話にもならない。


「喫茶店で待ってたらお兄ちゃんおいて行かれるかもしれないと思ったんだもん」


 馬鹿馬鹿しい。

 あまりに幼い物言いに思わず鼻で笑いかけたが、唇を震わせ俯く千春の様子に透は息を詰まらせた。

 光るものが頬を伝って顎からぽとりと落ちる。


「千春」


 下から覗き込もうとすると千春はぎゅっと目をつぶった。

 恥かしくて透の顔を見ることができないというようでもあり、涙が次々にこぼれそうになるのを懸命にこらえているようでもあった。

 その仕草がどうにもいじらしい。


 透は千春に背を向けて屈んだ。


「ほら」


「え?」


「負ぶってやるよ」


「いいよ、そんなの。自分で歩けるよ」


 千春は目尻を濡らしながらも懸命にかぶりを振った。


 しかし透はさらに促した。

 泣きべその千春と家に帰るには、並んでちらちらと機嫌を窺うよりも、背中に負うことで顔を合わすことなく体温を感じあう方が互いに気楽な気がした。


「ほら、早くしろよ。本当において帰るぞ」


 千春は慌てたように透の背中にしがみついてきた。

 息苦しいほどに透の首に腕を巻きつけてくる。

 幼い頃に迷子になった経験でもあるのだろうか。

 強引に透の部屋に転がり込んできた千春にしては臆病すぎるような気がした。


 立ち上がるとこんなものかと軽く感じたが、前に踏み出すと一歩一歩が足腰に負担だった。

 身体がなまっている。

 無謀という二文字が両肩に食い込むようだ。

 歩いて五分ほどの距離だが、目を先に向けると茨の道のようにも思えた。

 視線を足元に落として、雪がうっすらと積もった道を休まずに足を動かした。

 一度止まってしまえば、もう先には進めないという恐怖感があった。

 背中から千春の温もりが伝わってくる。

 次第に首筋が汗ばんでくる。


「人が見てるよぉ」


「うるさい。傘差して隠れてろよ」


「雪なんかほとんど降ってないよぉ」


 文句を言いながらも千春は従順に傘を開いた。

 短く持って自分の身体を隠すように差す。


 背後から吹き付ける強い風が傘に当たって透の足の運びを後押しする。


 人の目が気にならなくなったのか、透の耳に押し付けてきた千春の頬が冷たくて気持ち良かった。

 安心したのか、ふーっと大きく息を吐いた千春は、透の肩に顎を置き心地良さそうに目を閉じた。


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