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 千春は一向に部屋を出て行く様子を見せない。

 それどころか日に日に透の生活環境になじんできている。

 

 透が起きている間は、大抵は透の傍らにちょこんと座り、黙々とスケッチブックと格闘している。

 描くのは透の部屋にあるもの。

 透の生活を記録するかのように透やテレビや冷蔵庫や本棚などこの部屋のありとあらゆるものを平面の世界に描写していく。

 出来上がると突然透の眼前に広げて見せ、透の感想を待たずにまた次の作品に移る。


 食料品や生活必需品などは透が寝ている間に調達しているのだろうか。

 冷蔵庫の中も洗面台の棚もいつの間にか補充されている。

 朝晩という概念を捨てていて服薬すると一定時間は目覚めることがない透だから、買い物も風呂もその間に済ませているのだろう。

 千春が寝ているのを見るのは三日に一度ぐらいだ。

 透が夜中にゲームをしている間に透のベッドでクークー寝息を立てる。

 しかし、残りの丸々二日間をずっと起きっぱなしというわけでもないことは彼女の眠気を感じさせない様子を見ていれば分かる。

 つまりは透が寝ているときに千春も眠っているのだろう。

 ぼんやりとだが、透が寝ているときに背中や腕の辺りに温もりを感じるときがあるような気がするのは、千春が傍らに寝ているからかもしれない。


 早いもので年が明けて十日が過ぎていた。

 いつまでも新年だ、正月だと世間は浮かれてはいない。


 しかし透の生活に変化はなかった。

 緩みもせず、引き締まりもしていない。

 仕事に出ることをしない透は盆も正月も同じリズムで、その日その日をひたすら無為に過ごしている。

 それは千春が現れる前と後とで基本的に変化はなかった。

 ただぼんやりとゲームをし、時折パソコンで株価や為替相場をチェックし、半月に一度程度パチンコをする。

 何時になったら、だとか、何時までには、などと意識することがない。

 腹が減れば深夜であろうとあるものを口に放り込む。

 眠りたくなれば昼日中であろうと薬を飲んで無理やり意識を落とす。

 やがて目が覚めれば全身の細胞の働きを一つひとつ確認するように時間をかけてベッドから抜け出し、定位置である座椅子の上を目指して床を這う。

 東雲の空が白み、黎明の光に星が消え、日差し受けて影が伸び、雲の横顔に茜が差し、西の果てに陽が落ちる。

 そんな太陽の動きは透にとっては窓枠に切り取られた絵画でしかない。

 時間の移ろいとは全く無縁のどこまでも自分本位の生活だった。


 開かない目をこじ開けるようにして時計を見たら午後三時だった。

 証券取引所が株の売買を終える時刻だ。

 持ち株の今日一日の値動きを調べようと部屋の隅にある机の前の椅子に爬虫類のように這い上がり、パソコンの電源を入れる。

 ブーンという起動音を聞いていると後頭部の痺れが助長されるようだ。

 立ち上がるのを待っている間に重力に抗いきれないように瞼が再び下がってくる。


「ねぇ」


 久しぶりに千春の声を聞いた。


 目の前を小さく光る無数の何かがこちらに飛び掛ってくるのが認識できる。

 目を凝らすと星の粒だった。

 スクリーンセーバーが作動しているのだ。

 つまりパソコンを立ち上げてから数十分意識がなかったことが分かる。


 ねぇ、とまた背後から千春が呼びかけている。

 暇つぶしに池に浮かぶ空き缶に向かって小石を放り込むように、何度も何度も飽きることなく透の背中目掛けて声の飛礫を投げつけてくる。


 透がゆっくりと振り返ると千春は先ほどまで透が寝ていたベッドで布団に包まって横になっている。

 温かい、と幸せそうにまどろむ千春を見ていると、透にも再び眠気が伝染する。

 頭の芯が痺れてきてマウスを持つ手が止まる。

 まどろみ加減の透に千春がベッドから話しかける。


「お兄ちゃんの部屋ってさ、小説が多いよね。特に夏目漱石とか島崎藤村とか教科書に載ってるようなやつが。こういうのが好きなの?」


「あ?ああ」


 うとうととしたままで千春の言葉をよく聞きもせず、適当に返事する。


「気に入ったのあったら勝手に読んでもいい?」


 重力に任せるようにして大きく頷く。

 首に力が入らず俯けた顔を戻すのが一苦労だ。


 背後でベッドが軋んだ後、何かを引きずりながら千春が動いているのが分かる。

 夜明け前って面白い?

 破戒ってどんなストーリーなの?

 まだあげそめしまえがみってどういう意味?


 透が答えようとして口を開く前に、千春はもう次の質問を繰り出してくる。

 それはまるでラップを歌っているような矢継ぎ早さだ。

 千春はこちらの返答を待っているわけではないのだと知り、透は黙ってマウスを操作する。

 証券会社のホームページに繋ぎ、保有銘柄のデータを拾う。


「お兄ちゃんってさ、仕事しないの?」


 透のカーソルを動かす手が止まる。

 一瞬にして眠気が吹き飛んだ。

 どうしてそんなことを訊くのか。

 いや、普通なら働いて当たり前の年齢なのだから、当然の質問なのかもしれない。

 だが、答えなくてはならない義務はないと、透は口を閉ざした。

 今回もいつものように無視をしていれば良いだろう。


「お兄ちゃんって学校の先生なんでしょ?」


 心臓が大きく跳ねる。

 収縮するときに、バクン、と音が耳に届いた。

 カッと胸が熱くなり透は乾いた目を大きく見開いた。

 誰から聞いた、と問い詰める言葉が口に出かかったが飲み込んだ。

 和馬以外にいない。

 売れない舞台俳優のにやけた顔が目に浮かぶ。


 一体、千春と和馬はどこでどう繋がっているのだろうか。


 不意に大晦日に和馬がこの部屋にやってきて、部屋が汚いと罵り客が来たら困るだろうと片づけをしていたのを思い出す。

 何ヶ月も顔を合わせることがなかった兄が突然やってきて、面倒臭がりで昔から整理整頓が大の苦手だったはずなのに部屋のゴミを拾いだしたときに何となく妙だと思ったのだが、今にしてみればそれが千春がやってくる前触れだったのかもしれない。

 ここに千春が入り浸っているのはおそらく和馬と千春の計画どおりなのだろう。

 同時に何人もの女と付き合い、年がら年中自分の行動をその場しのぎの嘘で取り繕っている和馬を計画性のない杜撰な性格だと蔑んでいたのだが、その和馬にしてやられたかと思うと、自分の愚かさを透は呪いたくなった。


「もう辞めちゃったの?」


 どうしてそんなことを知りたがるのか。

 何の権利があってそんなことを訊ねる。

 他人の人生に無断で足を踏み入れてくるな。


「カーテン開けてもいい?」


 千春が立ち上がって窓際に向かう気配がする。


 透は千春を振り返った。


「開けるな!」


 思わず声が大きくなってしまい、目を見開いた千春との間に張り詰めた静けさが漂う。


 カーテンの端を掴んで凝然と立ちつくす千春の血の気の引いた顔を見て、自分もきっとこんな冴えない顔つきなのだろうと透は思った。


「画面に光が映りこむから」


 今さらこんな言い訳をして何になるのか。

 先ほどの安穏としたまどろみとは種類の違う、身体が冷え切って意識が遠のくような感覚がして、千春が遠くに見えた。

 顔が強張ってうまく取り繕いの笑いも作れない。

 

 透は開き直って画面に顔を向けなおした。

 自分は部屋の主なのだから場を和ませるようなことを言う必要はないのだ。

 こちらの態度が気に入らなければ千春が出て行けば良い。

 この部屋に引き留めている訳ではないのだから。


「そうだね。ごめんなさい」


 震えるようなか細い声に透は思わず振り返る。


 千春は相変わらず青ざめてはいるが、柔和に微笑んで見せてからベッドに戻った。

 毛布で覆った背中がやけに小さく見える。

 後ろから抱き締めたいような、抱き締めなくてはいけないような気持ちにさせる弱い女のシルエットだった。

 しかし透はそうしなかった。

 自分の方がもっと弱いからだ。


 病んでいる人間なら誰でも知っている。

 蛍光灯の人工的な明りと窓から差し込む太陽の光とでは何もかも違って見える。

 日差しには圧倒的な力がある。

 照らすもの全てを明と暗、正と邪にくっきり二分してしまうのだ。


 この部屋の生活に正しいものは何もない。

 不純な日常、不健康な生活、邪な生き方。

 蛍光灯の明りでは見えないはずの透が吐き出す腐敗した空気は、窓から入り込む神々しい光によって醜い黄土色に浮かび上がってしまう。

 千春が生活するようになり見た目には小奇麗になったこの部屋も、外から照らし出せば腐臭の漂う陰気な墓場と同じなのだ。


 株価は今日も下がっていた。

 また高掴みしてしまったようだった。

 売り時を考えなければいけない。

 傷口を広げないためにも明日にでも全ての持ち株を手放してしまおうか。


「まだ辞めたわけじゃない」


 どうしてこんなことを口にしてしまったのだろうか。

 赤の他人の千春にこんなことを告白して俺は一体何をどうしたいのか。

 解決できない問題に下手に巻き込んでもお互いが疲弊するだけなのに。


 心が病んでいる人間は一度マイナス思考に陥ると、その思考を自力ではなかなか留められない。

 奈落へと続く螺旋階段を一度降り始めると、まだ悪いことが起こる、もっとひどいことがある、と下へ下へ嫌でも足が勝手に動いてしまう。

 こんな風になってしまったらどうしよう、そしてさらにあんな風になってしまったらどうしよう。

 頭上から降り注ぐ光から逃れるようにどんどん、どんどん悪い方へ低い方へ暗い方へと視線を落とさずには気がすまない。


「辞めたわけじゃないけど、どうしても足が向かないんだ」


 ダメだと分かっていても口が勝手に弱音を吐いてしまう。


 きっと慰めてほしいのだ。

 大丈夫だよ、と全てを無条件に肯定してほしいのだ。

 しかし、実際に慰められたら素直に頷くことはできず、怒りで返してしまうことになるだろう。

 「分かったようなことを言うな」と、「所詮他人事だろ」と千春を厳しく咎めるのだ。

 自分から進んで足元にひれ伏したにもかかわらず、上から手を差し伸べた人間を傲慢だと罵ることで、弱者は精神の安定を図ろうとする。

 卑怯だと分かってはいるのだが、口をついて出てしまう言葉を透は抑えられない。


「情けないだろ?軽蔑するだろ?」


 透は背を見せたまま千春を罠に誘い出した。

 千春がこちらに一歩踏み出せば彼女は網にかかり逃げ場を失う。


 透は大きく息を吐き両手で顔を覆った。

 千春がこちらを振り向いたのが分かる。

 羽に傷を負った鳥を哀れむ目でこちらを見ている。

 その鳥が好餌であることも知らずに。


「ううん。軽蔑なんかしないよ」


 透の期待どおりの言葉だった。

 まさに罠にかかった瞬間だった。


「どうして?どうしてそう思う?」


 透は振り返って千春を見据えた。


 この問いに千春は答えられないだろう。

 「どうしてって、それは……」と言葉に詰まるだろう。

 そこで透は「答えられないじゃないか」と詰め寄ることになる。

 安っぽい同情を示して哀れむような真似は無責任すぎる、と何の罪もない千春を悪人に仕立て上げるのだ。

 情けない男だ。

 こんなことをしても何の解決にもならないのに。

 透は内心自分に舌打ちをしつつも、なじる用意万端で千春の言葉を待った。


「だって」


 千春は落ち着いて見えた。

 透の罠を全て見抜いているような冷たい口ぶりだった。


「お兄ちゃんは、少しだけでも働いてたんでしょ?私なんてせっかく受かった大学も一年で中退して、ふらふら遊びまわってばっかりで、結局二十四歳になった今でも一度も働いたことないんだもん。就活すらしたことないよ。私ったら自分でも嫌になるぐらいどうしようもない穀潰しなの。今だって完全に居候だしね。お兄ちゃんこそ私を軽蔑したでしょ?」


 改めてこの女性が何者なのかという不気味さが背筋を冷たくさせる。

 気がつけば逆に自分が罠に足を踏み入れてしまっていると透は思った。

 立場は逆転していた。

 少なくとも透はそう感じていた。

 彼女の目が透を試すように鋭く細められる。


 透は追いつめられていた。

 この状況をどう収拾させれば良いのか分からず、ただ黙り込むしかなかった。


 ピンポーン。

 ピーン・・・ポン。

 ピンポンピンポンピンポン。


 金縛りにあったように口を閉じたまま見詰め合う二人の間に不穏に漂う空気を、誰が押したのか瞬時に分かる呼び鈴が切り裂いた。


「また、あいつか」


 項垂れる透を置き去りに、千春が背負っていた毛布をベッドに投げ「はーい」と小走りで玄関に向かう。


 ドアが開く音と同時に想像どおりの声が部屋に割り込んできた。

 面倒な客ではあるが、今日ばかりは窮地を救われたような心持ちだった。


「おっ、千春ちゃん。元気にしてる?」


 和馬はロリコンの気があるのか、しげしげと高校時代の体操ジャージを着ている千春の姿を眺めている。


 今日の和馬はニット帽を被っていて自慢の緑髪が見えなかった。

 案外自分でも恥かしくて昼間は隠しているのかもしれない。


「うん。私なりに」


 千春は先ほどの透との陰湿な雰囲気など微塵も見せずに、いつもの元気溢れる弾けるような声で和馬に答えた。


「そりゃあいい。元気が一番だ。あの背中にキノコでも生えてそうな奴に爪の垢でも煎じて飲ませてやってくれ」


 暗がりのじめじめしたところが好きだとでも言いたいのか。

 和馬はキノコ男に許可を得るでもなく靴を脱ぎ、ずかずかと肩で風を切るように部屋に上がりこんできた。


 透はその和馬が着ているスカジャンの袖を取り、部屋の隅に引っ張って小声で話しかけた。


「どうなってんの?」


「何が?」


「何がってあいつだよ」


 和馬の肩越しに千春を見ると、こちらを向いて微笑んでいる千春と目が合ってすぐに視線を戻す。「千春のことだよ」


「千春ちゃんがどうかしたか?」


 和馬のとぼけた顔が透をイライラさせる。


「どうかしたかじゃねぇよ。どうしてあいつはこの部屋に居座り続けるんだよ」


「そりゃ、お前の彼女だからだろ。居座るっていうか、同棲ってことじゃねぇの?」


「付き合ってないんだよ。俺とあいつはあの日が初対面なの」


 透が言い放つと、和馬は「え?」と初めて知ったというような顔つきで黙り込んだ。

 しかし、すぐに何かに思い至ったようで愁眉を開いた。


「まあ、別にいいじゃん」


 和馬はいやらしく眉尻を下げて千春を盗み見る。「マニアにはあの格好はたまらんだろ」


「誰がマニアなんだよ」


 透は和馬の二の腕を拳で叩いた。「大晦日の夜からずっと泊り込んでるんだ。多分一度も自分の家に帰っていない。あいつのこと何か知ってるんだろ?」


 透は藁にもすがるような思いで和馬から千春についての情報を聞きだそうとするが、和馬の態度は暖簾に腕押しといった感じだった。


「何にも。知ってるのは相当可愛いってことだけ」


「ふざけんなよ。大体あの日いつからあいつは俺たちと合流したんだった?」


「何だよ、お前。まさか本当に何にも覚えてないのか?」


「ちょっと飲み過ぎたんだよ。あんたが飲ませたんだろ」


「勝手に飲んだんだろ。よく言うわ」


 和馬は面倒臭そうにあの夜のことを透に説明した。

 和馬によれば、透が前後不覚に酔っ払って道に寝転んでしまったところにどこからともなく現れた千春が、私が部屋に連れ帰って介抱しますので、と慣れた感じで透を強引に起こし、たまたま通りかかったタクシーに乗り込んで去っていったということだった。

 

 和馬は信用のおける人間ではないが、今の説明からはふざけた感じや繕ったような部分は見当たらず、強ち嘘を言っているようにも見えなかった。

 てっきり和馬が何かを知っていると思っていた透は完全に当てが外れてしまっていた。


「どうしていつまでも出て行かないんだろ?」


 独り言のように呟くと、和馬はいつもの浮ついた調子で透の肩を抱いた。


「別に何だっていいじゃん。俺は前からお前には彼女がいた方がいいと思ってたんだよ。こりゃ、まさにお前の人生の転機だ。女を知ったら人生観変わるぞ」


 和馬はそう言って豪快に笑いながらバシバシと透の背中を叩き、千春を振り向いた。


「千春ちゃん。こいつに冷たくされてない?」


「おかげさまで冷たくされるのには慣れてきちゃったわ」


 千春が両手で涙を拭うような仕草をする。


 それを見た和馬が鬼のような形相で透に向き直った。


「透!千春ちゃんを大事にしろって言っただろうが」


 丁重な扱いを強要される謂れはない。

 被害者はこちらの方だという意識が透にはある。


「俺にそんな義務はない。あいつが勝手にこの部屋に居座ってるんだよ」


「お前、千春ちゃんを目の前にしてそんな言い方はないだろ」


「いいの」


 千春は芝居がかった困惑顔で二人の間に割り込んだ。「いいのよ。本当のことだもん。私、お兄ちゃんと一緒に居られるだけで十分なの」


 真面目な顔してそんなことを言われてはこちらが居場所に困る。

 これ以上ない惚気を聞いて気分を良くした様子の和馬のニタニタとしたねちっこい笑いを直視できない。


 和馬は布団と毛布が乱れているベッドを見つけると、「お邪魔だったかな」と意味ありげに口元を歪めた。

 和馬は勝手にあらぬことを想像しているに違いない。


「違う!違うの。これは私が……」


 さすがに千春も必死に弁解しようとするが、「いいよ、いいよ」と和馬は聞く耳を持たない。

 出来上がってしまった和馬の妄想を覆すことは不可能だろう。


 透は今すぐ薬を飲んで、何もない眠りの世界に逃げ込んでしまいたくなった。


「ところで、透。お前いつから千春ちゃんの兄貴になったんだ?」


 当然の疑問だ。

 俺に訊くなよという迷惑そうな顔で透は千春に説明を促した。


「『兄』じゃなくて『お兄ちゃん』よ。それがしっくりくるの」


「んー、よく分かんねぇけど、あだ名みたいなもんかな」


「そうね。恋人同士の愛称みたいなものよ。ほら、カップル同士って、ダーリン、

ハニーって呼び合ったりするじゃん。同じような感じで『お兄ちゃん』って呼んでるの」


 千春の説明は先日と微妙に食い違っている気がする。

 確かあのときは本当の兄に似ているからだと言っていたはずだが。


「じゃあ、俺のことは何て呼んでくれるの?」


 和馬は得意そうに鼻を鳴らす。「俺、こいつの実の兄なんだけど」


「えー。そうなの?」


 大きな声で驚いたのは千春ではなかった。

 もちろん透でもない。

 いつから居たのか声の主は玄関に立っていた。


 光沢のあるグレーのスーツ。

 襟にフェイクとは思えない大きなファーの付いたベージュのコート。

 首にはエルメスらしき赤茶けたスカーフを巻いている。

 独特の硬質な印象を与えるバッグはクロコダイル革か。

 凡そこの貧乏臭い部屋に似つかわしくない豪奢な格好だ。

 すらりとしたスタイルの良さはハーフの千春に引けをとらず、身につけているいかにも高級そうな品々が浮きも沈みもせず彼女の一部となっている。

 上品だとは思わないが、決して嫌味にも映らないのは彼女がこういった高価なモノを使い慣れているからだろう。

 年齢に差はないように見えるが、彼女と和馬とは育ってきた環境が明らかに違うようだった。

 それは透と彼女についても同じことなのだが。


 彼女は玄関でヒールを脱ぐや、つかつかと透の前までやってきて顔を食い入るように覗き込んできた。


 いきなり鼻と鼻がぶつかりそうなぐらいに顔を寄せられ、透は肉食動物に襲い掛かられたような恐怖を感じて、思わず目を閉じた。

 お互いの体温さえも感じあえるような距離で、彼女の首筋から甘ったるい香水のにおいが立ち上る。

 寝起き同然で歯も磨いていない息が相手にかかりそうで透は思わず息を止めた。


「ふーん。言われてみたら何となく似てるかも」


 彼女が透から顔を離すと、彼女の温もりとともに馥郁とした香りもさっと遠ざかった。


 それで漸く透は金縛りが解けたように目を開き呼吸を再開することができた。


「目元とか小鼻の膨らみ方なんかはやっぱり似てるみたいね」


「ちょっと、誰だよ、あんた」


 透の口調は非難めいた。

 突然のことで呆気にとられていたが、よくよく考えれば彼女の振る舞いは常識に欠ける失礼な行為だ。


「お兄ちゃん、照れてるんじゃないの?顔赤いよ」


 口を尖らせた千春の指摘は図星だった。


 思わず俯いて顔を隠したくなったが、透はぐっと腹に力を入れて、何言ってるんだとばかりに千春を睨み返した。


「本当だ。お子ちゃまだなぁ、透は」


 和馬にからかわれるのが一番頭にくる。


「うるさい!誰なのかさっさと説明しろよ」


 和馬が現れて以降、平穏だった毎日の生活リズムがどんどん変調を来してきている。

 もうこれ以上誰かと関係するのはうんざりだ。


「春美だよ。こないだ電話で連れてくって言っただろ」


 確かにそんなことを言われた気もする。

 おそらく大晦日に飲んだときにも春美の名前は出ていたのだろう。

 彼女の素性について透は何を聞かされたか全く覚えていなかったが、こうして和馬が連れてきたのだから二人はそれなりの関係に違いない。

 これまで和馬に付き合っている女性を紹介されたことは一度もなかった。

 ちゃらちゃらとした遊びの付き合いばかりだったから弟に紹介するも何もなかったのだろうが、そういう意味からすれば春美は和馬にとって今までにない特別な存在ということなのだろうか。


「また出会い系か?」


 和馬が付き合う大抵の女性との出会いはこれかナンパがきっかけだ。


「あ、お前、今蔑むような目をしただろ。出会い系は殺伐とした現代に生きる寂しい大人が情報交換しあう画期的で有益なツールなんだぞ」


「だとしたら高校生はまずいよな」


 透は春美に聞こえない程度に声を細めて渾身の嫌味を放った。


 和馬は眉を吊り上げ目を怒らせて見せてから、透よりも小さな声で凄んだ。


「高校生だって立派な大人だ」


「それはあんたの勝手な解釈だろ」


「勝手で結構。俺にとっては俺の考えが法律だからな」


 兄弟二人が小声でいがみ合っている間に春美の興味は千春に移ったらしく、またもや何の遠慮もない目でしげしげと千春を穴が開きそうなくらいに見つめている。


「外国の方?」


「初めまして」


 千春は春美の不遜なまでの視線をにこやかに受けて立った。

 礼儀を欠いた春美に全く敵意を示さず、かと言って臆して媚びた愛想笑いを浮かべるわけでもなく堂々と胸を張った千春が透には好ましく思えた。


「おお。そう言われてみりゃあそうだな。鼻が高くて目は青いし肌も白い。こういうの何て言うんだっけ?ノスタルジック?」


「それを言うならエキゾチックでしょ。ホント、ばっかじゃない?」


 春美は蔑みを絵に描いたような、第三者の透でさえ背筋を凍らせるほどの冷たい眼差しを和馬に示す。


 さすがに和馬が気の毒になるが、和馬もさる者で「ああ、それそれ」と微塵も傷ついた様子もなくおどけた調子で頭を掻く。

 この二人はこれで結構うまくいっているのかもしれない。


 千春も同じことを考えていたのか透と目が合うと首を竦めて微笑んだ。


「しっかし、顔立ちは少し西洋っぽいけど千春だなんて完全に和風の名前だし日本語の発音もおかしなところはないし、外人っぽいところが全然ないね」


 和馬は感心したような口ぶりだ。


「母親がフランス人っていうだけで、私は日本で生まれて日本で育った生粋の日本人よ」


 千春の物怖じしないあけっぴろげな性格は母親譲りのものだろうか。

 彼女の言葉とは裏腹に、彼女の人となりは一年を通じて青い空が似合うという、地中海に面した温暖な南仏を想起させる。


「お母さんがフランス人だなんてかっこいいわね」


 春美が特に羨ましそうでもなく言った。

 彼女は自分に絶対の自信があって他人のものを嫉視することなどないように見える。


 千春も千春で「そうかな、そうでもないよ」と曖昧に頬を緩めるだけだった。


「母は最初観光目的で日本に来たんだけど、そのとき日本の春の美しさに心を奪われてそのまま住み着いちゃったんだって。自分の娘の名前にも『春』を付けちゃうくらいだから相当よね。私自身は無常って感じで物寂しい秋も好きだけどね」


 お兄ちゃんは?と訊かれ透は答えに詰まった。

 透はヤドカリのように部屋に篭り一年以上季節というものを感じていない。


「お母さんがフランス人ってことは、千春ちゃんもフランス語がペラペラなの?」


 興味津々の体で和馬はひどく陳腐な質問をする。

 しかし、誰もが訊いてみたくなることではある。


「全然っ!」


 千春は漢方薬を飲み込んだような苦い顔をした。「わたし、外国語苦手なの。海外旅行も大っ嫌い」


「そりゃまたどうして?」


 和馬が三人を代表して質問した。


「だって、こういう顔してるからか、時々日本にいても外国人に当然のように英語で話しかけられることがあってすごく困るんだもん。きっと外国に行ったらなおさらじゃん。外国語のできない日本人と喋ってるのが一番落ち着く」


 千春らしからぬ後ろ向きの発言に、手を叩いて笑ったのは春美だった。


「面白い人ね」


 ひとしきり笑うと春美はなにやら鞄の中をごそごそかき回した。「私の名前にも『春』があるのよ。私たち気が合うと思うわ」


 そう言って春美は名刺のようなものを取り出して千春に手渡した。「これ、私の

携帯の番号」


「あっ。何で俺にはなかなか教えてくれなかったのに千春ちゃんにはすぐ教えるんだよ」


 和馬が小学生のように口を尖らせて拗ねる。


「見るからに信用できないからよ。私が寝てる間にこそこそと私の携帯から自分の携帯に電話して私の電話番号調べるなんて犯罪行為だわ」


「最低だな」


 透の指弾に、「お前には関係ねぇだろ」と開き直ったが、透と同じ目を千春もしているのに気付き和馬は小さくなった。


「ねぇ。千春ちゃんの番号も教えてくれる?」


 春美がラインストーンでキラキラと装飾された携帯電話を取り出して千春を待つ。


「ごめんなさい。私、携帯持ってないの」


 平然と言い放った千春に部屋の中が沈黙する。

 一人で二台の携帯を使い分けることも珍しくないというこの御時世にどうして千春は持っていないのか。

 単に携帯電話が嫌いというマイノリティなのか。


 透の胸に去来したのは全く違う答えだった。

 通信手段を放棄し誰からの連絡も届かないようにするため。

 理由は分からないが千春は誰にもここに居ることを知られたくないのだ。

 それがたとえ親であっても。

 あるいは、両親こそ一番知られたくない相手なのかもしれない。


「そう。それは残念ね」


 春美は思案を巡らす表情を見せた。「じゃあこの部屋の電話番号は?」


「あいにくこの部屋には電話ひいてないんだよ」


 透ではなく和馬が申し訳なさそうに答える。


「じゃあ、透君の携帯は?透君の携帯に電話すれば千春ちゃんと連絡取れるでしょ?」


「そりゃいい考えだ。ちょっと待てよ」


 和馬と春美が漫才の掛け合いのように話を進める。

 透が「勝手に番号を教えるな」と言っても全く聞く耳を持たず、和馬は携帯電話を操作する。


「これこれ。透にぴったりの4と9が並んだ陰気な番号」


 和馬にかかれば透のものは何でも暗いイメージと結び付けられてしまう。


「オッケー。じゃあ、また連絡するね。一度、馬鹿な男抜きで飲みに行きましょ」


 春美は千春に軽く手を振り玄関へ消えていった。

 その春美を追いかけながら和馬が千春に声を掛ける。


「こいつ放っとくと風呂に入んなくて臭えから、千春ちゃんから入るように指導してやって。一緒に入ってもいいし」


 何を言い出すのかと透は顔が熱くなる。

 「はい、一緒に入ります」と千春が大きく返事をしてさらに火照った。


 二人は押し合うようにしてドアを出て行った。

 「どこ触ってるのよ」と春美が和馬の手を叩き「ごめん、ごめん」と和馬がにたにた笑う。

 階段を降りていく足音までが人迷惑なほど騒々しい。


 二人がいなくなり先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まり返る部屋の空気のギャップに千春は吹き出し、透も思わず頬が緩んだ。


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